課題の重要性及び交流の必要性
本事業では、「アジア比較社会研究のフロンティア」をテーマに共同研究・研究交流を行う。
アジアにおける社会学の歴史は120年を超える。その間、アジアの各地は「社会学のローカル化」を進め、多くの概念・理論を欧米からの輸入に頼りつつ、独自の研究群を生み出してきたものの、(1)その独自性は絶えず欧米との対比から語られ、アジア域内の差異を踏まえた比較研究が欠落していた、(2)各社会を詳細なデータで記述・説明する研究はあっても、比較がなされることは少なかった、(3)その結果、アジア全体としての発信力に乏しく、アジア社会の変化・特徴を記述する概念・理論が発展してこなかった、といった問題を抱えてきた。アジアが経済発展を遂げ、域内での人的交流が増加する中で、アジア比較社会研究の未成熟は、比較社会学といった狭い領域だけでなく、人びとの相互理解の促進や(東)アジア共同体構築のための基盤づくりといった実践的な課題にとっても大きな障害となっている。
こうした障害を克服するためには、(1)それぞれの社会学の歴史を共有し、(2)それぞれの社会が抱える問題を共有した上で、(3)すでに構築されたデータベースをもとに、挑戦的な比較研究を蓄積し、(4)その分析から明らかになる新しい事実をもとに、新たなアジア(比較)社会学の可能性を切り拓く知的営為が必要不可欠となる。今後のアジアとの関係を深めていく必要がある我が国にとって、こうした知的営為はきわめて大きな意味がある。
アジアの社会学者が集い、定期的に意見交換をしあう場として、アジア太平洋社会学会(the Asia Pacific Sociological Association)や東アジア社会学者ネットワークがある。しかし、前者はオーストラリアの研究者を中心にした組織で、参加している研究者が共通した問題意識や方法論をもっているわけでなく、共通テーマの設定もアドホックである。後者は、東アジアの主要な社会学者を動員することに成功しているものの、アジア太平洋社会学会同様、共通テーマをもっていない。
他方、アジア社会を対象にしたデータベースの構築は、中央研究院政治学研究所の朱雲漢研究員を中心にしたAsian Barometerも行っている。ただこの調査プロジェクトは、民主化というテーマで強い凝集性をもつ調査となっているものの、比較社会研究という点では焦点が絞られすぎ、家族や教育、宗教など社会理解に必要不可欠な質問群が欠如している。また大阪商業大学JGSS研究センターは、2006年から東アジア社会調査に参加し、良質なデータを集めているが、データは日本、韓国、中国、台湾に限定され、想像力溢れた比較研究が少ないといった難点をもつ。
その意味でも、アジアを広範囲にカバーしているアジア・バロメーターのデータを構築し、分厚いアジア研究の蓄積を行ってきた日本側拠点機関が、アジア比較社会研究交流のハブとなることは重要であり、アジア比較社会学の将来にとって必要不可欠である。
第一に、比較研究を通じたアジア社会学の世界におけるプレゼンスが向上する。欧米で学位を取り、アジアで社会学研究に従事している多くの研究者は、自分たちの研究が正当に評価されていないというフラストレーションを持っているが、これも彼らの多くが「欧米の理論とアジアの現実」という枠組みの中で作業をしているからである。アジアの間の比較を通じた新しい社会学的知見の開拓と、データ分析を通じたアジア社会論の「再創造」は、世界的に注目されることになるだろう。実際、本事業の最終成果は、世界社会学会議・横浜大会で報告されることになる。
第二に、「知のナショナリズム」が支配してきたアジアの社会学で、社会学的知見の共有化=公共化が促進される。現時点ではデータベースの構築が先行し、アジアの地域差を説明できる枠組みや解釈図式・理論の構築は遅れているが、本事業を通じて、実証的なデータに裏付けられたアジア社会論の新しい展開が期待できる。
第三に、ちょうどユーロ・バロメーターがヨーロッパ意識の「発見」と関連していたように、アジア社会の比較研究が新しい時代におけるアジア人意識の「発見」につながる可能性がある。アジア内部の共通点と相違点、及びその時系列的変化をアジアの社会学者が共同で議論すること自身画期的なことであるが、本事業を通じて研究者の共同育成や新しい研究テーマの発見など、新たなアジア人意識に基づく研究の展開や研究者の育成が進む可能性が大きい。
日本側コーディネーターは、2006年4月から2009年3月までの3年間、前の勤務先である早稲田大学大学院アジア太平洋研究科で、「論文博士号取得希望者に対する支援事業」を通じてタイ人学生・Nashara Siamwallaの研究指導をした経験をもつ。本人の大幅な研究方針の変更とタイ人研究指導教員のもとでの学位取得の意思決定、及びコーディネーターの異動のため、日本国内で新しい研究指導担当者を見つけることができずに事業を断念せざるをえなかったが、これと本申請課題とはまったく関係していない。それ以外の国際交流事業には、この5年間参加したことがない。
東京大学助手時代の1989年に、韓国社会学会が主催した国際シンポジウムAsia in the 21st Century: Challenges and Prospectsに招待されたのが、日本側コーディネーターが国際的な研究交流活動に従事した最初の機会であった。当時、中国の近代化に関する理論研究をしていたため、その成果を報告したのだが、そこで多くの外国人研究者と知り合い、社会学領域でのアジア間連携の必要性を学んだ。
その後、科研費などの研究助成を受け、アジアの日系企業調査や階層比較調査を行うなかで、多くのアジア人研究者と知遇を得、とりわけ中国の社会学者の間では広く知られる存在となった。
2009年7月に西安で開かれた中国社会学会大会で、外国人研究者で唯一一般報告が許されたのも、李培林・中国社会学会会長以下、ほとんどの理事クラスの人物と知り合いであることが大きい。
日本側コーディネーターの提案が、日本学術振興会の国際研究交流活動プログラムで最初に採択されたのが「東アジアにおける『アジア的価値』と経済発展:日韓台比較研究」(1999年・日韓科学協力事業セミナー)。同セミナーの成果はGlobalization in East Asia: Past and Present(中央大学社会科学研究所報告第20号、2000年3月)としてまとめられたが、これは、日本側コーディネーターが主な研究対象としている中国大陸以外のアジアの研究者を動員し、同じテーマのもとで報告会を組織する作業をした最初の機会となった。同時に、アジア内での交流が進む一方で、アジアを広く見渡した研究蓄積が圧倒的に足りないことを痛感した最初の機会でもあった。
その後、平均年8回程度の海外出張を継続する中で、アジア規模での比較社会学が今後もっと重要になること、社会学的啓蒙がアジア地域の将来にとって重要であることを意識するようになった。
2005年に19年勤めた中央大学から早稲田大学に移り、大学院アジア太平洋研究科を拠点に活動するようになってから、「魅力ある大学院教育イニシアティブ:国際連携型プロジェクトの有機的展開」(2005-07)、「グローバルCOEプログラム:アジア地域統合のための世界的人材育成拠点」(2007-)、「組織的大学院改革支援プログラム:東アジア高度人材養成共同化プログラム」(2008-)の申請書を執筆し、それぞれ事務局として中心的役割を果たす一方で、本申請課題の必要性を強く意識するようになった。また、学生を主役にしたアジア内の国際研究教育交流を2000年から毎年続け、現在にいたっている。