CASニューズレターNo.110(July 2001)より転載
 北京餐庁情報:見聞き驚き食べ歩き(5)
  
 
山本 英史


1  はじめに
 追想1982年
2  北京餐庁情報初編(1994年)
3  北京餐庁情報二編(1995年) 附 北京古籍図書館情報
4  北京餐庁情報三編(1997年)
5  北京餐庁情報四編(1998年)
6  北京餐庁情報五編(2000年)
 おわりに


X 北京餐庁情報四編(1998年)

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 昨年夏から半年,再び北京を訪れる機会を得た。今回もまたわずか11日間の短期滞在ではあるが,例によって北京最新情報を残しておきたい。

 流石の北京もわずか半年では変わりようがない…,と思っていたが,それは大きな間違いであった。北京の新陳代謝は相変わらず激しい。中関村に通じる白石路の整備が完了した。人民大学前の雑踏と北京図書館前の工事現場が消え,その結果広くて立派な道路が出現した。だから…という順接の接続詞が通じないのが中国の常。道路が広くなったからといって交通渋滞は解消されない。むしろ,さらにクルマがふえたような気がする。安い,鈍い,危ない,の3拍子そろったイエローキャブと悪名高かった面的(面包〔パン〕型の的士〔タクシー〕)はめっきり減ってしまったが,クルマそのものは決して少なくなっていない。三環路はもはやブッ飛ばせない「高速道路」と化している。渋滞を避ける手段として,気の利いた運転手は裏道を走る。もっと気の利いた運転手は歩道を走る。オイオイ交通ルールは!?

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 まずは海淀地区の探検から始めよう。海淀図書城は昨年の開店時から比べてなんとなく活気がなくなった。いくつかあった空テナントもまだ埋まっていない。1階の学術書店は学術書を置かなくなったばかりか,古本フェアなんぞをやっている始末。またもや経済,語学,管理の三大分類が幅を利かせるようになった。管理の本がよく売れるのは,それだけ人間を管理するのが難しいからなのだろうが,そういう意味では「民主主義」とは中国本来の自然の姿だったのではないかという気になってくる。

 ちなみに北京で学術書を買うなら,いまや瑠璃厰よりも美術館裏の三聯書店がよい。もともと生活,読書,新知という3つの書店が合併した老舗の出版社で,東洋史業界ではつとに知られている。昨年,4フロアからなる大規模な学術書店をオープンした。歴史に限って言えば北京で最も店頭書架が多いのではないか。もちろん日本への郵送もジーパンをはいた若い店員が気軽にやってくれる。もし無事届かなかったら私に連絡しろと電話番号を書いたメモを渡してくれる。電話をかけたらどうなるかは知らない。なぜならばその前に本が確実に届くからである。

 もっとも「慶應義塾」という宛名は困ったことに若い人で読める人は少ない。「庆应义塾」と書いて初めて理解してくれるのだが,これでは日本の郵便局が読めないのではないかという不安にかられる。ともあれ,近代的な書店である。4階の高級美術書売り場の側にはカフェテリアがあり,カウンタ一においてサイフォンでいれたキリマンジェロなりジャマイカなりが1杯15元で気軽に飲める。御時世である。コーヒーといえば大豆を煎ったシロモノしかなかった15年前に比べたら隔世の感である。

 海淀地区からいつのまにか逸脱してしまったので,もう一度こちらに帰ろう。この地区では大学の出版社が自前で営業部を開くことが多くなってきているようだ。《北京大学出版社》は以前からあるが,それに加えて,《人民大学出版社》,《民族大学出版社》,《清華大学出版社》,《北京理工大学出版社》と陸続と独立ビルをもって開店している。ただ,正直言って教科書販売店の感を免れない。北京大学が地主になっている店はさらにふえた。飯屋,眼鏡屋,御菓子屋,洋服屋,いろいろあるが本屋はただ1軒だけ。どこかの大学の仲通りと同じである。北京大学は今年創立100年を迎える。1898年の戊戌変法のときに京師大学堂が設けられて以来月日が流れ,現在に至った。この100年間は北京大学にとっても中国にとってもなんであったのかを改めて考えさせられる光景である。

 中関村の電脳街はさらに一層「アキハバラ」化した。ただし,家電は全くといっていいほど見当たらず,ほとんどがコンピュータの販売である。この一帯を歩いていると10メートルごとくらいに話しかけてくる人たちがいる。なかには子供を抱いた母親もいて…。顔つきや風体など,かって北京飯店前にたむろしていたチェンマネ兄さん(人民元を外匯券に允換してくれと外国人に求める人々)に近いものがある。

 彼らは口をそろえて「ムーシーディ,要嗎(いるか)?」という。ムーシーディ?木樨肉(ムーシイロウ)という料理はあるがどうも違う。木樨地(ムーシイディ)は天安門事件のときに一躍有名になった地名であるが,不動産屋でもないみたい。とりあえず「不要」を30回ほど繰り返すことであきらめてもらう。後で聞いたらVCD(ビデオCD)売りだとのこと。“V”は中国の人は「ウィー」と発音しがちなため,「ムー」といっているように聴き取れることが判明した。確かにVCDの普及は中国ではさらに進んでいて,国内のライブや映画のみならず,洋画の種類も格段にふえた。ちなみに「天熬一地球反撃戦−」とはどんな映画だと思われるであろうか。決して「独立記念日」とは訳さない。ミスタービーンもあったが,こちらの方は中国語訳を失念してしまった。

 電脳街の活況は他の店にも反映して,猟奇門を始めとして続々と新しく変わった店が出現している。そして電脳街の終点には泣く子も黙る香港美食城海淀分店がある。この分ではさぞかし繁盛しているのだろうと思ったら,アイヤーつぶれている。改装中なのか,そこまではわからなかったが,とにかく「没有了」になっていた。つぶれたと言えば,太陽村酒家。以前にその繁栄と没落ぶりを逐次レポートしたので先刻ご承知のことと思う。ついに茶の葉っぱを売るお茶屋に変身した。いつつぶれるかいつつぶれるかと茶化していたら本当に「茶」になってしまった。

 つぶれついでに言えば,月亮山寨の跡地を調査に行ってきた。新彊からの移民が多く居住するこの一帯は一層ウィグル化したようだ。しかし店はなぜか四川料理屋のチェーン店に変わっていた。店の構えから調度品に至るまで元のままであったのが懐かしくもあり悲しくもあった。ここで一句。「唐土(もろこし)の主なき寨に春宵(よわ)の月」。向かいにある例のかとうやは不思議なことに健在であった。なに?「ひき豆コーヒーあります」だと! 発展成長の証を見てしまった。

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 本稿が餐庁情報であることを無視して,中国第一歴史檔案の新情報を提供する。前回書いた内容を嘗き改める。まずは開館時問。月〜木8:00−11:30,13:00−16:00,金8:00−11:30,13:00−15:00が現在のもの。8:00には必ず開くところが素晴らしい。ただし,雨が降ったりしたときには月−木といえども「天気不好」という理由で突然15:00で打ち切りになることがある。停電で閲覧時間が1時間短縮することも心の片隅に止めておこう。でも目録室には整理が終わった目録が自由に見られ,次第に閲覧環境が改善されてきつつある。

 残念なことに外賓閲覧室がなくなってしまい,外国人といえども一般閲覧室で閲覧しなければならなくなった。ということは,昼休みは休まねばならなくなったのである。それゆえ第一歴史檔案館での昼休みの過ごし方のうち【1】の食わずに閲覧を続けるという選択肢がなくなってしまった。そんな時にはきっぱりあきらめて西華門を出てすぐ右にある西華門茶園に行って優雅に飲茶を楽しもう。外からはなかなか想像しにくいが中に入ると上品なインテリアで,点心類もなかなかに美味である。ただし,客があまりいない。経験上,こういう店は2年以内につぶれる運命にある。つぶれる前に一度行ってみよう。

 ところで,第一歴史檔案館にホテルからもっとも早く行くにはどうすればよいのだろうか。試しに距離的に最も近いと思われる民族飯店からタクシーに乗ってみよう。ただし,長安街を西から走るとそのまま左折ができないので,北海公園経由で行かねばならない。加えて問題がある。「故宮西華門に行ってくれ」というと大概の運転手は中南海の新華門に連れてってくれる。外国人というより,筆者の発音では「西(シー)」はどうも「新(シン)」に聞こえてしまうらしい。それに西華門はいまいち知名度が低いことも手伝っている。そこで,「東西の西」だとか「西部の西」だとか余計なことを言わねばならない。しかし,その努力も虚しく,新華門の西門に行ってしまった。ジーパンをはいた客がなぜ政府要人に会うことができるのか!

 そんなこんなで30分以上かかってしまう。民族飯店から歩いてみるとやはり30分かかった。前門の南の天橋にある天橋賓館からバスで来る人も多いようだが,お金を厭わなければ長安街を東から走って右折が可能な北京飯店からタクシーで行くのが最も早いのではないかと思う。大方の意見を乞う。ちなみにホテルで自転車を借りて通ってきた知人がいたが,その日のうちに盗まれてしまい,保証金400元がパーになってしまったとか。何が安いかわからない。

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 さて,横道ついでに北京の新名所に行ってみよう。まずは新東安市場。改修工事をすること5年以上を費やしてやっとのことでオープンした巨大マーケットである。かつては平屋バラックにあらゆる物をゴタゴタ詰め込んだ中国伝統の庶民的市場であったものが大変身した。名前がプチブル的だと批判して「東風市場」と改名要求を出した紅衛兵世代がそのオーナーになっている。御時世であるとしかいいようがない。6階建ての3つのビルからなる店内は店舗がひしめき,不況を知らない客でごった返している。空中に浮かぶエスカレータなんて,なかなかにスリリングな乗り物がただで乗れる。


新東安市場


 次にこれまたフロアが改装中であった北京飯店も工事が終了した。中央にあった喫茶店が五人百姓直営の麺屋になった。たぬきうどん25元は高いか安いか。友誼商店の分店がかなりを占めていたフロアは大珈琲庁に変身した。それがどうしたかといえば,それ以上何もどうにもなっていない。要するにもはや化粧しても始まらなくなっている老年の衰えは免れない。売り物の酒で注目すべきは20年ものの紹興酒である。260元とこの手の酒では破格に高いが,味もきっと良いに違いない。ちなみに極品青島ビールが新発売になった。1本15元で,青島で瓶詰めして3日以内に北京に着くという触れ込みがある。これが事実なら中国における流通革命である。ライバルの五星ビール会社も負けてはいない。「九星ビール」という銘柄を出している。星が4つふえた分,何が変わったというのだろうか。

 北京古玩城という骨董品デパートが北京の東南に昨秋オープンした。例の露天市の近くにあったバラック骨董屋群が改築されてデパートになったもので,周りに何もなかったところに「城」が出現した。なぜか1階が免税店になっていて,外国人観光客が団体で押し寄せるようだが,骨董品の方は流石にいろいろある。露天と違って怪しげなものが少ない。といっても骨董品そのものが怪しいのだが1階から4階まで屋号を持つ骨董商店がびっしり詰まっている。

 一見するとどれも同じように見えるが,中に入って粘っこく物色し,この客はきっと買うと思わせたらしめたもの。店主はなぜか必ず低い声で「どんな物がほしいんだ」と尋ねてくる。こういう時には店頭にないものを挙げてみよう。中からそれらしきものを出してくる。3000元だといったら,その3分の1からスタートしよう。努力次第では本当に1000元になる。まあその間に何回か「やっぱり要らん」といって店を出るパフォーマンスを繰り返さねばならない。いわばコンサートのアンコールのようなものなのだが,店の方もそれがわかっているとなかなか値を下げてくれない。このやりとりが病みつきになるとはまってしまう。ただし,自分から1000元といったら絶対に1000元で買わなくてはいけない。それがこの世界の仁義なのである。買う気もないのに1000元と言ってしまい,「ヨッシャもってけドロボ」と言われて目が点になった御人が少なくない。


北京古玩城内 毛グッズ専門店


 歴史博物館は展示内容の改装のためしばらく休館が続いていたが,やっと全時代を通じての展示を再開した。展示では農民反乱の「英雄」が「首領」に格下され,反対に洋務運動期の「買弁」が「起業家」に格上げされたことなど,「反革命」的なものが目立つ他は大して目新しいものはなかった。鳴り物入りだっただけにどんなに変わるかと期待したが,歴史の見直しはそう簡単ではないらしい。客の方も隣の生誕100年を記念した周恩来の方に取られてしまっていた。

 最近,白領ギャルなる女性たちが新風俗になっている。白領とはホワイトカラーという意味で,面白いことにバイリンと発音する。主に外資系企業に勤めるオーエルで,いつも白いブラウスにスーツをビシッと着こなしている新中国人層である。こうなると日本のオーエルと基本的に区別がつかない。建国門外にある日航資本の高級ホテル京倫飯店にもこのたぐいの女性がフロントで活躍している。「お待たせいたしました。お客様のお部屋は本館○階の×××号室でございます。ごゆっくりお過ごし下さいませ」ウームすごい。日本語に乱れがない。敬語も正確だ。アクセントもそんなに変じゃない。こんな人がいるんだと感心して,ジロジロ見ていたら「…あのう私,日本人ですが」。世の中,先入観ほど恐いものはない。


90's中華ウォッチャーズ編『踊る中国人』
(メディアファクトリー社, 1997→講談社文庫, 2002)より。



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 そろそろ本来の餐庁情報を書かなければ怒られそうである。友誼賓館には値段は高いがそれなりに美味しい餐庁がたくさん入っている。いつも名前を忘れてしまうので今回はしっかりメモしてきた。正面の貴賓楼には雅仕庁という広東料理店と翠竹軒餐庁という肥牛海鮮火鍋(早い話が四川風激辛寄せ鍋)店,金玫瑰餐庁という西洋料理店の3軒が,その裏の友誼宮には聚祥園餐庁(上海),万順居餐庁(四川),聚秀園餐庁(福建・広東),それに康乃馨餐庁(西洋)の4軒があり,他に蘇園餐庁などいくつかある。これだけの餐庁が良く維持できるなと感心する。このうち1人で気楽に食べられるのは雅仕庁,美味しい東坡肉が食べられるのは餐祥園餐庁。筆者はなぜか万順居餐庁の回鍋肉(ホイコーロー)にフェロモンを感じる。

 民族飯店に今回初めて宿泊した。民族資本系のホテルは,設備は悪いがノスタルジアを感じさせてくれる。筆者の泊まった部屋は「民族飯店」というデッカイ看板の「民」の字の真上,紅い灯,青い灯のネオンがきらめいて,ノスタルジアなのである。このホテルに新しく開店した金馬特土耳其餐庁はお勧めである。洗練されたトルコ料理屋で,流石「民族」を特徴とするこのホテルにふさわしい。牛肉の串焼きなど,なかなかのもの。中華料理に飽きた留学生が奮発して女の子をデートに誘うには,とてもいい店だと恩う。

 黒土地洒家は地安門の近くにある。向陽屯老三届と並ぶ北京三大文革餐庁の1つ。束北に下放された人々が,文革時代の人民日報を貼ったインテリアで,往時の料理を懐かしんで提供するという趣向で人気を呼んでいる。まだ行ったことがなかった唯一のところであったが,結局は少々期待外れであった。もう少しゲテモノ出すなら徹底せんかい。もっとも出てきたら逃げ出すであろうが。

 恭王府に移転した四川飯店も大いに期待していた分だけ肩透かしを食ってしまった。昔のクラシカルな構えとあの深みのある辛さが忘れられない。正直言ってちょっと味が落ちたのとちゃいますか。店の通路に要人誰それが来たという写真を貼り出すと,その店は確実に味が落ちる。これは中国の餐庁の鉄則である。

 前日の22℃から本日は20℃をいきなり引いてのわずか2℃。3月中旬に北京の街に雪が降る〜♪。こういう時には歌っているより東来順飯荘にシャブシャブを食べに行こう。本店は新東安市場に入る予定だが,仮店舗の本店なるものは現在前門にある。しかしこの店も団体観光客がいっぱいである。海淀分店の方を値段,味,雰囲気で軍配を挙げる。ところで,「ノーパンシャブシャブ」って中国語ではなんと書いて報道しているのだろうか。仲間内では「没有内裤子的涮牛肉」が有力であったが,なんのこっちゃ?

 鴻賓楼も海淀の方が良い。本店は西単にあるが,こちらはまだ国営臭さが抜けきれていない。ウェートレスも小姐と呼ぶにははばかられる。数少なくなった不愛想餐庁の伝統的味が懐かしくなれば行ってみよう。TVコマーシャルにおける最近のヒット。シーン1では中年のおばさんが,客が来ても客の方を一瞥もせずに自分の用事を続けている。応対もぶっきらぼう。シーン2ではうって変わって客ににこやかに対応。そこでテロップ「笑笑笑笑,大家都美好」。中国の人々も不愛想が好きではないことが初めてわかった。

 今回のイチオシは北京皇家国際倶楽部。北京動物園の西隣にある築90年の堂々たる洋館である。なんでも西太后が休憩するために建てられたものだとかで,休憩室がそのまま保存されている。テラスに出ると動物園が一望でき,晩年の西太后と同じ気分になれる(そんな気分,なりたいか!)。文革以前には北京市長の執務室として使われていたという。今はそれを改修し,多目的ホールになっている。その1階に広東料理餐庁がある。正宗粤菜で,味もなかなか良く,しかも低料金。現在は秘密会員といっても,企業や政府関係の要人接待に使われている。ここのウェートレスは決してわめかない。耳元で優しく囁くのでゾクっとくる。「先生,要嗎?」もちろんビールをもう1本要るかという意味である。店では結婚式の披露宴会場にして行こうと考えているようで,豪華なそれ用のパンフを発行している。当日でも良いが予約が必要である。ガイドブックにはもちろん出ていないし,タクシーの運転手もあまり知らない。でもこの建物は90年間ここに建っているのである。

 もうひとつ特筆すべきは三里屯の酒吧街であろう。大使館街を北上したところにいつのまにか洋酒バーが林立するようになり,北京のヤングエグゼクティブたちで深夜を賑やかしている。最初に連れていってもらったのは日本の芸能人が経営するJAZZ−YA。隣に飯屋があり,飲食兼用のバーになっている。こざっぱりとしたテーブルにカクテルなどが注文できる。ウェーターは全員中国人。日本人客も多いが,中国の若者も決して少なくない。ウーム世の中変わったんだなと納得する。

 翌日再訪しようとして道に迷い,ままよと思って入った店が男孩女孩。つまりBoys&Girlsだそうだ。中に入ってびっくり。ウェーターは長髪のお兄さんたち,客は平均年齢20代前半,女性が過半を占めている。あっちではカップルがマンハッタンを分け合っている。こっちでは女性グループが煙草をふかしてコロナビールをラッパ飲みしている。その一角を我々日本のオジサン4名が占拠してしまった。オジサンの1人がよせばいいのに隣の女の子に歳はいくつだ,何処に勤めている。結婚しているか,など尋ねまくってシカトされてしまった。ともかくここは大陸かと疑う光景が味わえる。もちろん帰りには何時でもタクシーが常駐している。こんな店がこの通りにはいっばいある。なにせ“酒吧街”なのである。

補  記
 本稿は1998年3月11−22日の体験に基づき,同年5月5日に記したものである。



1  はじめに
 追想1982年
2  北京餐庁情報初編(1994年)
3  北京餐庁情報二編(1995年) 附 北京古籍図書館情報
4  北京餐庁情報三編(1997年)
5  北京餐庁情報四編(1998年)
6  北京餐庁情報五編(2000年)
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