CASニューズレターNo.110(July 2001)より転載
 北京餐庁情報:見聞き驚き食べ歩き(1)
 
 
山本 英史
 ※中国歴史文献館ガイド最新版は「図書館・文書館ガイド」に掲載中です。


1  はじめに
 追想1982年
2  北京餐庁情報初編(1994年)
3  北京餐庁情報二編(1995年) 附 北京古籍図書館情報
4  北京餐庁情報三編(1997年)
5  北京餐庁情報四編(1998年)
6  北京餐庁情報五編(2000年)
 おわりに



はじめに

 筆者は1994年から95年にかけての約半年に及ぶ北京での長期滞在をきっかけに,世紀末北京の都市変化,特に市民の食文化と密接に関わる餐庁(レストラン)の興亡についての情報を数度にわたり私家版《北京餐庁情報》としてまとめ,それを親しい方々に提供してきた。目的は,基本的には筆者自身の趣味的備忘録として,また副次的にはインターネットのホームページによくある情報提供の紙版として書き残しておきたかったからに他ならない。それゆえ,この文章を学術刊行物である本誌(CASニューズレター No.11, July 2001)に載せることについては,いくら山田辰雄先生のご推薦でもいささか遅疑逡巡せざるを得なかった。それをあえて断行した理由は,これを史料として読む限りでは何かしら意味があるかもしれないと判断したからである。

 周知のように,近年の中国主要都市における生活環境は激しく変化している。なかでも首都北京は上海とともに変貌の度合い著しく,その様相は往年とまさしく隔世の感を呈している。その意味で《北京餐庁情報》は,たとえ偏見と主観に満ちた極めて怪しげな観察眼であるとはいえ,その時々に見,聞き,感じたことの記録であり,見ようによっては同時代史料と言えなくもない。もとより不特定多数の読者を対象に書いたものではない。ましてやこんな卑俗な内容は明らかに読者の見識に耐えうるものでない。しかし,これが現代北京の地域社会史研究に何らかの貴重な?情報を提供するのであれば,それなりの価値があると勝手に“手前味噌”した次第である。

 なお,掲載に当たっては第1章として「追想1982年」を書き下ろした。筆者にとって北京のイメージは1982年の残像がその原点をなしているからである。また,1994−2000年の間に著した5編の《北京餐庁情報》については極力原文のままを載せるように努めたが,差し障りがある個人名,あまりにも楽屋落ちの内容,後日誤りであることが判明した情報などについては適宜削除改変した。説明を要するものには補注を加えた。従って本稿はもはや一次史料としての価値を失ってしまっている。だが,それはそれ編纂史料の持つ宿命ゆえ,どうかご寛恕いただきたい。


T 追想1982年

1 北京見参

 筆者が初めて北京の地に足を踏み入れたのは1982年2月1日。その時からすでに20年近い歳月が流れた計算になる。実はその時の北京は目的地にあらず,山東省の省都済南にある山東大学へ留学に赴く経由地にすぎなかった。しかし,当時は汽車の切符がそう簡単には入手できず,済南出発までの4日間,北京での待機を余儀なくされた。これは筆者にとってはむしろもっけの幸い,北京の街を見て歩く絶好の機会となったのである。

 そのころの中国では,歴史決議によってようやく文革に訣別し,ケ小平の指導のもとに改革開放政策が進められつつあった。しかし,北京の人々の生活はまだ決して豊かであるとはいえなかった。当時一般労働者の月給は多くて50元前後,夫婦共働きで1家庭の月収は100元,日本円に換算して13000円にも満たなかった(当時のレートは1元約130円)。これで1カ月の生活を維持しなければならず,衣食住の面でさえ厳しい生活を強いられていた。男性はもちろん人民服,しかもあまり上等とはいえないヨレヨレの着古しで統一され,女性も質素な素材の綿入れにズボンがほとんど。このモノトーンが北京のドンヨリした冬空と不思議にマッチしていた。

 通勤時ともなれば自転車の洪水になった。昼休みともなれば自転車の洪水になった。夕方ともなれば自転車の洪水になった。要するにいつも自転車で溢れていた。しかし,人々の表情は硬く,活気にも乏しかった。通りには自転車のほか,馬車,トラクター,サイドカー,オート三輪,それに大八車……,日本では遠の昔に忘れ去られたような乗り物でいっぱいだった。中国では車道のことを「馬道」という。事実馬が走っているのだから仕方がない。「北京はラクダが似合う街だ」と誰かが言っていたが,似合うどころではなく立派に主役を務めていた。そんなこんなが道路狭しと駆け回る。一時として交通規則など全くないかのようで,いわば無秩序の秩序が生み出されていた。

 王府井大街は明代の王府の井戸があったことにちなんでつけられた歴史のある場所である。だが,誰が最初に言ったかは知らないが,この700メートル余りの繁華街を「北京の銀座」と称するのは正直いかがなものかと思った。相当な仲人口である。確かに高級毛皮の専門店はあった。中国最初の女性下着ショップもあった。SEIKO(精工舎)も営業していた。にもかかわらず通りは狭く汚く,街路樹には手鼻の残骸がこびりつき,「カーッ,ペイ」というけたたましい音がした後の道端には黄色い痰が撒き散らされていた。“憧れの北京”の現実はなかなかに厳しいものがあった。市場経済とそれに伴う「垢抜け」化は北京という大都市においてさえ,まだまだ先のことのようであった。

 中国へ来て誰もが受ける洗礼はトイレであった。中国のトイレは外国人向けホテルを除けばまず扉のあるものは極めて少なかった。なぜ扉がないのかについては諸説あるが,政府批判の落書き防止というのが最も説得力を持つ。それは北京とて例外ではなく,胡同(フートン)という横丁に入れば民家だかトイレだかわからないところに件の標準型がいっぱいあった。ちょっとまともなものだと穴とはいえないくらいの便器があり,便器と便器との問には一応仕切りがあった。しかし,しゃがんでも首は仕切りの上に出る。お互い顔を見合わせ,思わず「ニイハオ」といってしまうことから,別名「ニイハオトイレ」とよばれた。

 日本人はたいていこれを苦手とした。どうしても恥ずかしいのでわざわざ一番奥に陣取り,通路側に尻を向けてしゃがみこむ。文字通り頭際して尻隠さずの状態になる。周りの中国人から見れば,それはとっても怪しげな行動であり,却ってみんなぞろぞろ見物に来る。しかし考えてみれば連れションは平気なのになぜ“連れ便”はだめなのか。つまるところは慣れの問題なのである。この点では女性の方がはるかに順応しやすいのだが,男性はなかなかそういかない。だからあまり行きたくない。我慢するから痔になる。中国で生活する試練はまずこの問題で始まった。

 さらなる洗礼は“没有(メイヨウ)”だった。北京第一百貨大楼をはじめとして,接客を行うカウンターにはどこでも必ず「為人民服務」のスローガンが掲げられていた。これは毛沢東の三大論文(老三篇)の1篇からとったもので,人民はもちろんこれを内容までしっかり学習しているはずだった。にもかかわらず服務員の態度は最悪だった。まず「同志(ドンチー)!」と大声で叫んでもおしゃべりに夢中で振り向いてくれない。「小姐(シャオチェ)」とお愛想を言っても効果はなかった。まれに機嫌のいい人がいてやっと反応してくれたとしても動作は緩慢,言葉は横柄,「××はありますか」と尋ねる前に“没有”(ない)という返事が来る。

 目の前のものを指して「これをくれ」といった場合には流石に“没有”とは言わなかったが,そんな時には商品と釣銭が投げ返されてくる。往時の中国において銀の純度を確認するために銀を投げて音を聴いた習慣の名残だという説がある。絶対“邪説”である。「まるで売る気がないみたいじゃないか」と怒る人がいたが,そう,「売る気がない」のである。これは一生懸命働こうと働くまいと「親方五星紅旗」だという社会主義制度の弊害のように考えられているが,どうもそれだけの問題でもなさそうだ。しかし,日頃の過剰サービスに慣れてしまった日本人にはこれは結構こたえた。

 済南への出発は2月5日の未明であった。宿舎になっていた北京大学留学生楼を出発し,済南行きの汽車に乗るためタクシーで北京駅に行く手筈だった。もちろん真っ暗である。さらに前日から降り続いた雪が積もって極めて寒い。おまけに気分が悪い。というのも,その前々日,よせばいいのに長城に行き,一発で風邪を引いてしまったからである。2月の長城には観光客ははとんどいなかった。この超有名な観光地で,背景に余計な人間の入らない記念すべき「我在長城」の写真が撮れたのはよかった。しかしその代償は長城の彼方ゴビから吹いてくる寒波だった。友誼商店で大枚をはたいて購入したダウン大衣で完全武装を期したはずだったが。そんな甘いものではなかった。

 予約したタクシーの車種は「上海」だった。ところが,なかなかエンジンがかからない。雪で冷えてしまったのであろうが,何度やってもだめである。そのうち,運転手は我々に降りて後ろから押せという。運転手は「上海のエンジンはバス並みなんだ」という。どういう意味なんだ! すったもんだした挙句,ブルルンの音がして事なきを得たが,前途多難が予想されるのであった。

2 済南留学生活

 済南に到着してまもなく,その予想が見事的中した。なんと済南では肝炎が大流行しており,それは留学生にも及んで,すでに日本人2人を含めた3人が入院しているという。もう1人入院している白人がいるが,それはペストかもしれないという!?確かに中国に来る前,肝炎に対する注意を聞いていた。しかし,実感はなかった。いざ現実になってみるとエライ所に来たと正直思った。宿舎に残っていた日本人留学生の1人が最近の事情を説明してくれた。「私も今日か明日かにお迎えが来るんじゃないかと思ってるんですが……」。ボソッボソッと話すのでだんだん暗い気持ちになってきた。話しているうちに電気が消えた。停電である。1本のローソクの揺れる火を見つめて,ますます陰陰滅滅になった。とにかく寝た方がいいと思い,歯を磨こうとしたら,詰めたばかりの銀のかぶせがポコッと外れた。ちなみに山東大学の学長は呉富恒氏であった。「サイナンでゴフコウにあった」これが冗談で語れるまでにはかなり時間を要したのであった。


山東大学の筆者の部屋


 肝炎については後日談がある。とにかく何とかしなければならない。しかし日本大使館はあてにならなかった。北京に暑いた時,大使館を表敬訪問したことがあった。そこである医師を紹介された。とても忙しそうに見えた。なんでも彼は中国だけではなく,モンゴルと香港を含む地区の担当医なので,あっちこっちに行かなければならないという。彼は言った。「ジンギスカンも真っ青ですわ」。それを聞いたこちらも真っ青である。そのうち電話が鳴った。テニスをやっていて腕を骨折してしまったという在留邦人からのものであった。医師は次のように親切に指示した。「接木でもしておきなさい!」。日中友好病院などいまだない時代だったのである。

 そんな大使館も事態を深刻と見て肝炎予防の薬を送りつけてきた。ところが時を同じくして山東大学でも肝炎の予防接種をするという。送られてきたのは「ガンマグロブリン」。それに対して山東大学のは「丙種蛋白」だという。どこがどう違うのか,いや同じなのか,一緒に打っても大丈夫なのか,みな確かめたいと思ったが,要領を得ない。中国の医者は英語を知らない。留学生で医学に通じた者はいない。コミュニケーションが途絶えたまましばし時が流れた。そのうち勘のいい留学生がこう言った。「ガンマはアルファ,ベータ,ガンマのガンマだからひょっとしたら甲,乙,丙の丙のことではないか。グロブリンは確か蛋白質という意味があったのではないか」。それを聞いた留学生一同,そうだでかした,それに違いないということになり,やっとのことで予防接種のダブルサービスは「謝謝不要」で済むに至った。

 しかし,ガンマグロブリンであれ,山東大学の医務室でそれを打たねばならなかった。医務室には古典的注射器があった。あの昔懐かしきアルミの容器の中にはネズミ色をしたアルコール脱脂綿が入っていた。注射針はもちろん交換することなく,変色した脱脂綿に消毒力が残っているとは思えなかった。いまにして思えば,まことに恐ろしい話であるが,無知は人間を幸せにする。その効果があったかどうかは定かではない。だが,肝炎騒動はこれ以後次第に下火になっていったのであった。

 当時の山東大学に留学していた外国人は北京に比べればばるかに少なかった。日本人8名の他,フランス人5名,アメリカ人,ドイツ人,イタリア人,イギリス人各1名の合計17名に過ぎなかった。「これにロシアとオーストリアを加えたら8カ国連合軍になる」なんて危ない発言も出たが,肝炎騒動も手伝って朝昼晩すべての食事を留学生食堂で取った結果,みな一様に親しくなることができた。留学生食堂の食事は,昼11:30,夜17:30と決まっていた。小皿に盛った数品の料理から適当に選んで「飯」という食券で多くても2元程度を支払う。この方式はどこでも似たものだった。留学生食堂の食事は正直美味しかった。済南市の料理コンテストで山束大学留学生食堂は堂々2位を獲得したと報道されて以来,留学生たちの見る目が変わった。外国人には選りすぐりのコックを派遣する,当時はそんな美風?が残っていた。


山東大学留学生食堂のコックさんたち


 そうはいっても「仏の顔も三度」,同じ味には飽きてくる。といって,外で食べることはできない。面倒見のよい?大使館からは「外で食べて肝炎になっても責任負わないよ」と釘をさされていた。その中で,唯一食事ができるのは市の中心にあった済南飯店だった。もとの日本領事館であり,古めかしくはあったが落ち着いた雰囲気の,なかなか趣きのあるホテルだった。留学生は時々ここへ来てマンネリを打開し,海参(なまこ)やエビなどを使った普段お目にかかれない山東料理を賞味するのであった。ここではコーヒーも飲めた。もっともここのコーヒーはちょっと違う味がした。半可通の留学生の1人が,「中国が輸入するコーヒーはアフリカの友好国からのものだから西側の我々が知るコーヒーとは味が違うんだ」と教えてくれた。そんなものかと思ったが,大豆を煎ったらこんな飲み物ができるとはその時は考えだにしなかった。

 酒談義が留学生の中で盛り上がった。当時山東に白酒(バイチュウ)と呼ばれるマオタイ酒と同じ系統に属するアルコール度の強い酒はいっばいあった。みな60度以上,7,80度にもなるのもあった。しかし,日本人,少なくとも筆者には好んで飲みたいと思う酒ではなかった。それでも一度怪しげな店で,ラベルの貼ってない2合ビンのようなものを買ってきて2人で飲みきったことがあった。案の定というか,太陽が登っては沈み,また登っては沈むまでベッドから起き上がれなかった。いわゆる老酒(ラオチュウ)である紹興酒は北方でははとんど入手できなかった。だから,これに代わるものを求めねばならなかった。

 国産のウィスキーには「威士忌」というのがあったが余り多くなかった。ワインは「煙台紅葡萄酒」をはじめとしてたくさんあったが,甘すぎた。ただ,山東のブランデー「金奨白蘭地」は全国酒類品評会で十八大名酒に選ばれるほどで,値段の割には悪くはなかった。これらに対してヨーロッパの留学生の評価は厳しかった。

 イギリスの留学生は言った。「これは威士忌(ウェイシーチー)であって,絶対whiskeyではない」。イタリアの留学生は言った。「これは葡萄酒(ブータオチュウ)であって,絶対wineではない」。フランスの留学生は言った。「これは白蘭地(バイランチー)であって,絶対brandyではない」。ところが,なぜかドイツの留学生だけは啤酒(ビーチュウ)に同じ言を発しなかった。それはそうである。山東が誇る「青島(チンタオ)啤酒」はもとはと言えばドイツ人が作ったビールだったからである。結局,何だかんだ言っても留学生は青島啤酒だけはよく飲んだのではないだろうか。

往時の青島啤酒ラベル


 留学生の生活はいろいろな面で監視の下に置かれていた。一般の留学生には「同屋(トンウー)」という中国人学生の同居人をつけることが義務つけられていた。表向きは国際交流であったが,同屋たちが留学生の動向を当局に報告する任務を帯びていたのは公然の秘密であった。郵便物や小包にも明らかに検閲の跡があった。時はまさしく「精神汚染撲滅キャンペーン」が唱えられていた矢先で,とくに日本から送られてくる「公序良俗」を害する雑誌類には厳しいチェックが入った。

 なんでも日本の雑誌ブラックリストなるものがあり,『週刊朝日』『週刊文春』『週刊新潮』などはOKなのに対し,『週刊ポスト』や『週刊現代』はだめだった。理由はグラビアにあった。没収を免れたとしても,グラビアは切り取られていた(そのグラビアはどこに行ったのだろうか)。

 しかし,徹底はしなかった。その内容から見て当然没収されておかしくない雑誌がなぜかフリーパスだった。1つは三流すぎてブラックリストにも入っていないから,もう1つは表紙だけはマジメ?でそこからでは雑誌の内容まで想像できないからというのが考えられる理由であった。留学生はこういう問題になるとなぜか熱く議論を戦わせた。日本にはみなそれぞれに悪友を持っていた。彼らは「じゃあこれはどうだ」「通ればリーチだ」といろんな雑誌を郵送して実験に協力してくれた。

 ある日筆者のもとにも当局からのお達し文が舞い込んだ。「我が国の規則に従い,貴殿宛の雑誌《花花公子》を没収した」。《花花公子》とはいったいどんなシロモノなのか。名前から行って相当アブナイものに違いない。留学生たちの間ではその雑誌名確定においてまたもや論議に花が咲いた。辞書には「放蕩息子」とある。これが『プレイボーイ』だという結論に達するまで,なお若干の時間を要した。

3 北京へ行こう

 済南から北京まで距離にして約500キロメートル,汽車で行けば6−8時間を要した。日本でいえば東京から京都までくらいだが,当時の中国での実感距離ははるかに遠かった。しかし,その割に留学生は頻繁に北京に出掛けた。理由は大きく分けて2つあった。1つは中国各地を旅行するためであった。汽車の切符には割り当て数が決まっており,北京でなければ簡単に入手できなかった。まず北京に行き,国際旅行社で切符を予約し,公安局で査証を入手しなければならなかった(開放29都市以外に行こうとすればビザが要った)。

 もう1つの理由は買出しであった。済南は大都市であったが,我々外国人が生活するには足りないものがたくさんあった。もちろん北京にないものもたくさんあったが,北京にしかないものもそれなりに少なくなかった。そんな時,非日常の刺激を求めんとする煩悩と消費への願望が突然かつ激烈に沸き起こり,「そうだ!北京に行こう」となるのであった。

 たいていの留学生は済南を夜の8:30に出る列車を利用した。夜行で時間を有効に使うというのが主な動機であったが,ばれずに北京に出かけられるというのも魅力の1つだった。「北京に行く者なら外国人でも使え」との合言葉よろしく,誰か北京に行くという話があれば,「じゃあれ買って来て。これ頼むわ」の「拝托」(委託)の、ラッシュが国籍の如何を問わず浴びせられた。留学生が頼む多くは書籍であったが,「威士忌」でないウィスキー,「巧克力(チャオクリー)」でないチョコレートも少なくはなかった。

 日本からカレーのルウが送ってきた。「じゃあ,カレーパーティをやろう」といったのが運の尽きだった。豚肉はもちろんいくらでも手に入る。米も石ころがたまに入っているのを除けばまあまあ大丈夫だ。だが,「タマネギは?」「ジャガイモは?」「バターはどうするんだ?」ここで思考が停止した。タマネギは中国語で「洋葱」という。日本人にとって慣れ親しんでいるこの野菜はなんと「洋野菜」だったのだ。済南といえども洋野菜はなかった。ジャガイモはないわけではなかった。ただ済南のジャガイモは煮るとすぐ粉状になり,粘り気が全くなかった。バターは「黄油」という中国語があったが,済南ではグリースの意味だった。ところが首都北京にはこれらすべてがあった。北京からの帰途,筆者の風体はさながら戦後間もないヤミ屋のようであった。

 北京駅には朝の4:40に到着した。流石にいささか早すぎる。そんな時には北京飯店までの2キロメートルを歩いていく。北京飯店は王府井大街の南端に建つ北京を代表するホテルで,当時においてすでに80年の歴史を持つとともに各国商社の駐在事務所の多くがここに置かれていた。その北京飯店は未明でも中に入れてくれたので,朝早く到着した留学生たちはロビーのソファーでしばし眠ることができた。

 もっとも,怪しい格好をした人間が入ろうとすると,ドアボーイは必ず誰何した。「おまえどこのもんだ」一流ホテルのホテルマンがそんな乱暴な言葉使いはしないのだろうが,それ風に聞こえた。簡単に入れてくれない場合もあった。その時は伝家の宝刀。やおら懐からパスポートを取り出し,「この菊の御紋が目に入らぬか」と見得を切る。わぎと汚い格好してそれを楽しんでいる輩も少なくなかった。ドアボーイにとってはえらい迷惑だったろう。地方都市のホテルでもこの光景はしばしば見られた。しかし,せっかく見得を切っても相手にそれがパスポートだとわからない場合はマヌケである。水戸黄門の爺さんも隠しているが,きっとそんな目にあったことがあるに連いない。

 北京飯店はこの他,待ち合わせ場所,買い物,理髪,喫茶店,バー,換金,国際電話,日本や済南への小包の郵送,タクシーの予約など,外国人にとってマルチに便利な場所であった。つまり,他の場所がいかに不便だったかということになる。もちろん食事もここで済ませるのを常とした。新館の東楼を入って右には大餐庁があり,そこでは中華と洋食がともに食べられた。味はさはどでもなかったが,案外安く済ませることができた。水は黙っていては出て来ない。「涼开水(リアンカイシュイ)」というメニューを注文して初めて湯冷ましが出てくる。しかしどういうわけか,その容器は決まって輸入ウィスキーの空瓶であった。左手には冷飲庁があった。カフェというかバーというか,洋ものドリンクが飲め,北京在住の外国人で夜遅くまで連日賑わっていた。水割り1杯12元と決して安くはなかったが,しばし中国にいることを忘れさせるひとときを与えてくれた。

 新館の2階には日本菜部があり,そこでは日本料理が食べられた。1度だけそこですき焼きをご馳走になったことがある。理科の実験器具のようなバーナーの上に鍋が乗っかった1人前12元が出て来た。肉の価値が牛,豚,鳥の順に高くなる中国ゆえ,あまり期待はできなかったが,なにせタダより美味なるものはなかった。隣の駐在員の一群がこの中に1合6元もする日本酒を惜しげもなく注ぎ込んでいたのは印象的だった。

 ホテルのことをもう少し書く。北京飯店以外で最もよく利用したのは北京駅から12キロメートル西北にある友誼賓館であった。もともとはソ連技術者の長期滞在用に建てられたもので,大学キャンパスを思わせる広大な敷地内に多くのビルが建っている。北京大学や北京語言学院に比較的近いので,そこの留学生は換金や食事のためによく利用した。餐庁に1人でも気楽に入れるのが魅力で,値段は安く味も悪くなかった。そこで何十年ぶりかでばったり出会い,その後日本では全く顔を合わせていない日本人もたくさんいた。

 崇文門の新僑飯店は別な意味でいいホテルだった。北京駅から近いこと,ホテルにしては遅くまで餐庁が営業していること,きつねうどんが食べられること。この3点が大いなる特徴だった。「日本商社ホテル」の異名があるように,日本の駐在員が多く泊まっていた。でもエレベータに乗ると「何で俺こんなところにいるんだろ。帰りてぇ,帰りてぇ,帰りてぇ」と独りでつぶやく危ないおじさんがたくさんいたのも事実である。

 留学中に建国飯店がオープンした。香港との合資で,外資系ホテルのハシリだった。大使館に近く,餐庁も立派だった。しかし外国人だらけで,中国人民は窓ガラスにへばりついて中を覗くのがせいぜいであったのは悲しかった。

 北京での食事は肝炎騒動もあって留学生食堂でなければ上記のホテルで食べることが多かったが,そこは北京のこと,特色ある老舗餐庁に足を運ぶこともたまにはあった。北京といえば,北京ダック。北京ダックといえば全聚徳だった。初めての北京ダックは「カオヤー」という味がした(どんな味だ!)。1人20元だった。しかし,なぜ同じ北京ダックが階下の中国人用の席では5元なのか。味は微妙だったが,料金はもっと微妙だった。

東風市場にあった東来順飯荘


 王府井の中ごろには東風市場というバラック造りの大マーケットがあった。もともと清朝の八旗の練兵場にいくつかの店ができたことが最初で,「東安市場」と呼ばれていたものが文革で改名されたまま今に至っていた。その一角に東来順飯荘があった。内モンゴルで取れる最良の羊肉をシャブシャブのようにして食べる涮羊肉(シュワンヤンロウ)という回民料理の専門店。羊のシャブシャブと聞いて,エーツと思ったが,北京名菜だけのことはあって幸せな気分になれた。独特のゴマだれにつけて食べる羊肉は柔らかく,牛肉よりも美味いのではないかと推測した。推測というのは,実はそれまで日本でシャブシャブを食べたことがなかったからである。

 西単の南にあった四川飯店は伝統的な四合院造りの四川料理の老舗。怪味鶏,麻婆豆腐,坦々麺……どれをとっても超一級の味であり,四川料理とはかくも美味いものなのかと思わず涙した(唐辛子のせいかもしれない)。その“トラウマ”は現在もなおも残っている。

 外国人用のゾーンを持たない餐庁はいずれもみな暗く汚く,肝炎が流行していなくてもちょっと入るのをためらう店が多かった。その中で餃子屋でだけは比較的安心して飛び込むことができた。北京の餃子は熱湯の中で茄で上げた水餃子が主流であり,熱に弱い肝炎菌は死に絶えるというのがその根拠であった。

 1斤は500グラム。餃子500グラムくらいたいしたことないと思うと大変。500グラムとは小麦粉の,しかも練る前の重さ。従って,小麦粉500グラムを使って出来上がった餃子の量はおびただしく,洗面器いっぱい,大食い選手権になる。餃子を食べると1つ賢くなる。餃子は金だけでは食べられない。糧票という配給切符が必要となる。しかも,山東省糧票ではだめ,全国または北京市糧票でなくてはならない。全国は人気で,全国を出すとおつりが北京市で帰って来る。餃子を食べると2つ賢くなる。いくら肝炎薗が死滅するといっても,汚いことは変わらない。試みに塗り箸をティッシュで拭くとその跡がくっきり残る。ビールが欲しい。生ビールがあると思って注文すると,生温く泡がないので,そっくりな色の液体を想像してしまう。それがプラスチックの容器に入って登場する。容器の表面はぎらざら,無数の滞には黒いアクタがいっぱい詰まっている。肝炎菌は餃子にあるとは限らない。餃子を食べると3つ賢くなる。


粮票と布票


 北京にはその後も季節が変わるごとに訪れた。そして,そのたびごとにいろいろ賢くなった。これはなかなか有意義な行動だったのである。

4 北京で暮らす

 留学生括も残り2カ月に迫った12月,指導教官と一緒に教学旅行なるものに行けることがわかった。ならば北京に1カ月滞在して北京大学や北京図番館で史料収集に従事したいと思った。山東に自分の見たい史料がないわけではなかった。しかし北京はやはり別格であった。要求が通り,やっと研究らしいことができると思った。当時はまだ外国人が史料を閲覧することは難しかったのである。

 旅行はまず東北の瀋陽へ行くことから始まった。筆者の要求はどこでどう曲げられたのか,指導教官とまず瀋陽へ行き,ヌルハチ,ホンタイジなどの清朝初期皇帝の基参りをしてから北京に入ることになってしまっていた。それはそれでよかったのだが,瀋陽の宿舎にはいささか参った。指導教官は役得などという邪な考えを全く持たない純朴な方であり,外国人用ホテルに泊まろうなんて鼻から思わなかった。泊まったところは市内の旅杜。部屋は一応はその旅社最高のツインだった。どこが「最高」かといえば,テレビがあったからである。その旅社ではそこに泊まる客は久しぶりとて,みなが見物に来た。夕食は地下の薄暗いテーブルで,一汁一菜を注文した。汁も菜もこの際贅沢は言えなかった。ただ,米ばかりはひどかった。古古古古古米でもこれほどゴワゴワのものはないだろう。しかし周りは文句言うことなく食べていた。シャワーももちろん共同であった。しかし,シャワーを浴びない方がむしろ汚れなくて済むような気がした。「旅社に泊まって中国人民の困難な生活の一端に触れたのはむしろ幸いだった」と後からは言えた。

 そんなわけで遅れること1週間でやっと北京に到着した。宿は例によって北京大学留学生楼だった。入居手続きを完了すると早速北京大学の善本室に直行した。予想されたこととはいえ,山東大学からは何の連絡も来ていない。連絡がない限り北京大学は対処してくれない。「そのうち来るかも知れないからそれまで待て。来たら知らせてやるから」と言われた。幸いなことに北京図書館にはなぜか連絡が行っており,こちらの方はいつ来てもよいとのことだった。まあ北京図書館に通うからいいかと,その時は納得した。

 北京図書館は清朝の京師図書館に由来する中国最大の図書館。当時は北海公園の西側にあった。翌朝から“バス通勤”が始まった。北京大学西門から動物園までを結ぶ路線バスは「北京の横須賀線」の異名を持っていた。ラッシュ時には混むなんて生易しいものではなかった。おまけに窓ガラスが入っていない。厳冬の北京の路線バスは寒いのか暑いのかよくわからない。動物園に着くとバスから客が吐き出される。今度は市の中心に行くバスヘの乗り換えである。ここにまた人が殺到する。自転車がなぜ多くなるのか,やっと理解できた。

 約90分を要し,疲労困憊で北京図書館に到着する。地方志すなわち中国各地の地理と歴史が記された漢籍群の閲覧を希望したのだが,これがそもそもの誤りだった。漢籍には善本(貴重書)と普通本とがあった。善本室の責任者は性格がエグイという噂があったので,普通本を見ることにした。普通本でも十分見るべきものが多かった。これが更なる誤りであった。普通本地方志を閲覧する場合は,その前日の午前中に最多5種類を限度に書面で申し込まねばならなかった。なんでもこれらは4,5キロメートル離れた白雲観に収蔵されており,わざわざそこまで取りに行くのだという。白雲観は有名な道観であったが,文革で破壊され,当時はまだ修復されないまま倉庫として使われていたのであった。

 閲覧を開始したとき,この計画ははっきり言って大失敗であることに気がついた。地方志というものは何が書かれているか実際に見てみないとわからない。見た結果,有用な記事がたくさんあれば問題ないが,何もない場合にはあっという問に不要になってしまう。かりに5種類すべてがそうだった場合は,閲覧に1時間もかからない。そうかといって他の地方志の閲覧を求めても,明日来いということになるだけであった。そんな日に何度か見舞われ,次第に精神的に強くなった。さあ今日は何して暮らそうか。さながらリストラにあったサラリーマンのようだった。結果思いついたのは北京の街歩き。時間がたっぶりあったせいで,街の隅々までよく歩いた。歩くことによって北京の人々の生活をじっくり見ることができた。これはこれできわめて有意義な時間となった。

 北京を離れる前日,北京大学の善本室の担当者とキャンパスでばったり出くわした。彼いわく「おまえはなぜ来ないのか。山東大学からの連絡はとっくに来ているのに」。ハイハイ,怒るまい怒るまい。北京滞在で得た最大の収穫は何事にも動じない不動心と理不尽なことに笑って耐える忍耐力だったのかもしれない。

5 エピローグ

 留学を終え帰国した後も何度か北京を訪れる機会があった。訪れるたびに街には何らかの変化があった。しかし,80年代はまだそれを「激変」と形容するほどには至らなかった。それが90年代も半ばになり,市場経済の導入による経済発展の成功と相対的な「安定」がこの怪物を急速に変身させていった。目抜き通りにはおしゃれなデパートがあちこちに出現,ファーストフードの店は当初の予想に反して大健闘,どこもここも客で溢れはじめた。そして人々の表情が次第に柔らかくなり,活気が漲るようになってきた。1994年秋,筆者は北京に再び長期滞在できる機会を得た。以下に掲げる《北京餐庁情報》はそのように姿かたちを変えていく北京を追跡した記録である。


1  はじめに
 追想1982年
2  北京餐庁情報初編(1994年)
3  北京餐庁情報二編(1995年) 附 北京古籍図書館情報
4  北京餐庁情報三編(1997年)
5  北京餐庁情報四編(1998年)
6  北京餐庁情報五編(2000年)
 おわりに