傅增湘先生の略歴
傅增湘先生(1872-1949)、字は潤沅、號は沅叔、四川省江安縣の人。光緒二十四年(1898)に進士(二甲第六名)となり、翰林院庶吉士の地位を与えられた。二十九年(1903)に在職試験で一位となり、「編修」の職を与えられた。三十一年(1905)には天津で女子公學・高等女學・女子師範といった学校を創立、三十四年(1908)には直隸提學使となり保定・天津・灤州・邢臺などで初等師範學校の整備に努力し、『改良私塾淺說』を著した。
1917年には北洋政府の教育總長に任じた。1919年に五四運動が起こると、5月15日北京大學解散や學生鎮圧に反対し、北京大學校長蔡元培罷免の書類にサインするのを拒否して辞職した。
1911年、南北和議に參議として参加した際、上海で偶然、汪啓淑が四庫全書館に献上した宋刊本『新刊諸儒批點古文集成』を手に入れた。これが、版本収集のきっかけとなった。又この時、沈曾植・楊守敬・莫棠・徐乃昌・張元濟といった版本学者たちと交友し、視野を広げた。北京に戻ってからは、盛昱・端方・徐坊・海源閣楊氏・抱經樓盧氏・江陰繆氏・獨山莫氏といった大蔵書家や天一閣などから散出した版本を購入していった。
1925年には、故宮博物院の圖書館館長となり、故宮の中の諸殿楼に分散して収蔵されていた圖書を集中管理させ、陶湘を招いて目録を作成させ、『故宮善本書影』も出版した。
傅增湘先生の祖父である傅誠先生は、莫友芝から元刊『資治通鑒音注』を入手していた。1916年に傅增湘先生は端方の舊藏書である百衲宋本『資治通鑒』を手に入れ、これに因んで、藏書の場を「雙鑑樓」と名づけた。1928年には、南宋內府寫本『洪範政鑒』を入手したので、それ以後は『資治通鑒』と『洪範政鑒』が「雙鑑樓」の「雙鑑」であるとされた。 傅增湘先生は北京西四石老娘胡同に居を構えたが、「萬人如海一身藏」という蘇東坡の詩から言葉を取って、その居所を「藏園」と名づけた。六十歲を過ぎてから、蔵書目録を出版したが、『雙鑑樓善本書目』四卷と『雙鑑樓藏書續記』二卷を併せて、1238種の善本が収録されている。更に、日常の校勘・研究に利用した書籍は『藏園外庫書目』に著録され、3347種十萬餘卷に上る。七十歲の時には、六十歲以降に入手したものを著録した『藏園續收善本書目』を編訂した。晚年に至り、ご子息傅忠謨先生に命じて、それまでに収蔵したことのある宋元善本について新たな鑑定評価をまとめたものが『雙鑑樓珍藏宋金元秘本書目』で、宋刊本108種、宋寫本1種、金刊本1種、元刊本59種が収録されている。傅增湘先生は、数十年に亘り各地で手に触れ、目にした善本について、それぞれ詳しい記録を残され、四十冊にも及ぶノートが『藏園瞥錄』や『藏園經眼錄』と名づけられていたが、1980年に傅熹年先生によって整理され、『藏園群書經眼錄』として出版された。又、『郘亭知見傳本書目』に自ら目にした版本の要項をメモして、外出調査の際に参考資料としていたが、これも後に傅熹年先生による整理を経て、『藏園訂補郘亭知見傳本書目』として出版されている。
傅增湘先生は、自ら所蔵する『方言』・『周易正義』・『困學紀聞』・『永樂大典•台字韵』・『太平廣記』等の善本を影印出版している他、『雙鑑樓蜀賢遺書』十二種を刊行し、更に百衲宋刊本『資治通鑒』や數十種に及ぶ善本を張元濟の経営する商務印書館が編集した『四部叢刊』に提供している。
傅增湘先生は、初め李盛鐸に学び、後には鄧邦述・章鈺・吳昌綬・吳慈培・張允亮・徐森玉・袁克文といった学者・蔵書家らと交流し、校勘を日課とすること數十年に及び、校勘の大家となった。晚年に、それまで校勘した典籍を整理、ご子息傅忠謨先生に『藏園校書錄』を編集させたが、そこに著録された校本は797種、16301卷に上っている。
1947年に、それまで校勘してきた典籍を北平圖書館に寄贈したが、當時の登録記録では、337種、3581册という量であった。1948年には、二度に分けて少數の明刊本と名家の鈔校本を北平圖書館に譲渡した。この時、既に健康状態が良くなかった傅增湘先生は、ご子息傅忠謨先生に、没後は「雙鑑」の二部を北平圖書館に寄贈し、それ以外のものは四川に寄贈するように委嘱された。
1949年10月20日逝去、享年七十八歳。