初公表
 北京餐庁情報・続編(2)
 
 
山本 英史
 


 北京餐庁情報六編(2002年)
 北京餐庁情報七編(2003年)
 北京餐庁情報八編(2004年)



T 北京贅庁情報七編(2003年)

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 21世紀になってから2度目の北京餐庁情報をお届けする。前回北京に行ったのは昨年の9月であるが(『北京餐庁情報六編』参照)、今年の2月には、上海、杭州、紹興を訪問したため、中国は今年これで2度目となる。その間、SARS(非典)なるものが大流行し、中国行きが足止めされていたわけだが、筆者も国内の仕事で足止めされ、個人としては何ら支障なく、嬉しい?ことに労働の日々が続いていた。

 ちなみにSARSは「典型的な肺炎に非ず」ということが中国語の由来だそうだが、いつものようにウィットにとんだ名訳ではないのが残念だ。それだけ中国に与えた影響が深刻だったということか。ちなみに一躍有名になったハクビシンは今どこかで食されているのだろうか。日本でもフグの肝を好む命知らずがいるのだから、命よりも食を大切に思う中国人がいてもおかしくはない。

 今回の餌食、もとい主役は慶大院生のMT君である。MT君は本年9月より北京師範大学に留学している中国古代史を専攻する博士課程生である。考えてみれば、卒業生をも含めた慶大出身の人たちを留学先に慰問したのは、これまで結構な数にのぼる。SY君の上海、YNさんの北京とクアラルンプール、KYさんのクアラルンプール、IK君の上海、IK君の天津、DKさんのロンドン、GJさんの北京、GTさんの上海、YT君の台北、MY君の南京、YY君のソウル、そして今回のMT君の北京と、教えれば12名13件と我ながらよく出かけたものである。指導教授たるもの、学生の留学先の実態を知っておくべきだという崇高な理想!?のもとに実行したものであるが、行き先々でご馳走した飯代も改めて思うと馬鹿にならない。もっとも私が1995年に北京に7ケ月滞在した折、ありがたいことに慶大関係者が述べ27人訪ねてくれたが、その時におごった額に比べればまだまだ「へのカッパ」である。

 この餐庁情報でこれまでに主役となった方々、淡水の地下鉄でカップルを目の敵にしていたNHさん、クリスマスイブにヒマをもてあましていたYT君、中国の女性図書館員をたぶらかすSY君など、ご不満な方は多々あるといえども、一応は「事実」をもとにして記載する実証主義レポートであることは世間の認めるところであろうと判断する。

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 11月の北京は、予想に反して結構寒かった。日本はまだ秋である。ところが北京に降り立ってみれば、なんと摂氏2度。もう積雪を体験したようで、空港の片隅にはまだ溶けきっていない雪が残っていた。

 今回、空港やその施設については特段変わったところはなかった。ただ、SARS予防のためか、これまでフリーパスだった検疫のチェックが厳しかったのが印象的だった。SARSの痕跡は基本的になくなったといってよい。マスクをつけている人も見かけなくなった。しかし、「天寒病起、非典防!」なる横断幕は掲げられていた。さしずめ「天寒く非典肥ゆる冬」なのだ。オリンピックを控えた中国にとってはこんな病気、二度と流行してほしくないと思うだろう(これを書いている最中にシンガポールから台湾に戻った人にSARSの疑いが出たというテレビ報道がなされていた。知らないぞ〜!)。

 空港から市内までのリムジンバスはずいぶん便利になったが、バス代16元は変わらぬ魅力である。タクシーを使ったら軽く100元を超えることを考えるとなんと安いことか。バスのなかではモバイルパソコンを打つ人、ケータイをかけまくる人、着メロにアメリカ国歌を奏でる人、この辺はご時世であるといえるが、「人民中国」もかくも変われば変わるものになってしまったかの感がある。

 今回の宿泊の基地にしたのは崇文門の新僑飯店(東城区東交民巷)。前回同じく崇文門にある崇文門飯店(崇文区崇文門南大街)に泊まったとき、すごく高級に見えた四ツ星ホテルである。スイスのノボテルとの提携ですっかりきれいになった。今回もまた家内から「怪しげなホテルに泊まったら承知しないわよ」との言明を受けていたため、かくなる次第になったのだが、旧館はまだ1泊500元で泊まれることが判明し、かくなることと相成った。なんとFAXが打てる。ということは、日本からもFAXが届く。某出版社から雨のようなFAXが東シナ海を飛び越えてくる。「いやー、ちょっと外国に行ってたもんですから」は蕎麦屋の出前同様に通じない世の中になってきた。ただ、何がよかったって崇文門飯店では辟易とした按摩コールが今回全くなかったことである。

 新僑飯店にはなぜか特別の思いがある。20年前に留学したとき、北京飯店とともにこのホテルは憩いの場であった。なぜかといえばきつねうどんが食べられたからである。新僑飯店はかつて日本企業の駐在員の常宿だった。後年、常宿は国際飯店(東城区建国門内大街)に移り、さらにニューオータニの長冨宮飯店(朝陽区建国門外大街)に移ったため、新僑飯店は今ではその機能を失ったが、その名残はまだあり、日本人には友好的で、かつ日本料理店がそれなりの役割を果たしている。また、この裏通りは東交民巷といって、かつて義和団が襲った大使館が軒を連ねていた。開発の進む北京にあっては珍しく往時の雰囲気を残す場所でもある。天安門広場や王府井に歩いて行けるのがとてもよい。

 北京に着いたその日にMT君と待ち合わせて、夕飯を食べることになっていた。その夜の気温も摂氏2度である。要するに寒い。寒ければ、行くところは決まっている。そう涮羊肉(羊肉のシャブシャブ)である。といってもその筋ではチョー有名な東来順飯荘(東城区王府井大街新東安商場内)ではあまりにも芸がない。MT君は放って置いてもそのうちこの店には行くだろう。ならばなかなか行けない店がよいということになり、白塔寺前のシャブシャブ通りにある西来順飯荘(西城区皐成門内大街)に行くことにした。

南来順飯荘 呑気にシャブシャブを食らうMT君

 西来順飯荘は1930年創業の老舗餐庁であり、東来順飯荘と北京の涮羊肉の人気を二分する店である。ところが、店があるべきところに存在しない。おっかしいなぁとしばし徘徊したあと、その店は潰されていたことがわかった。ちなみにその付近にあった同じく涮羊肉で有名な能仁居(西城区白塔寺太平橋大街)も姿を消していた。日本のガイドブックではまだ存在しているが、それに騙されると無駄足を踏む羽目になる。唯一無駄でなかったのは近くに郭林家常菜(西城区西外徳宝新園)を見つけたことである。庶民的な家常菜の店であり、今回は中に入って確かめたわけではなかったが、客で満員、味もきっとおいしい店と見た。次回にはぜひ行ってみたい店である。

 さて、西来順飯荘はなくなってしまったし、能仁居もどこに行ったかわからない。でも涮羊肉を食いたい。その執念は、東や西がだめなら南があるではないかとの発想につながった。南来順飯荘(宣武区南菜園)もまた1937年創業の老字号であり、大昔に一度だけ行ったことがあるが、西来順とは対極で、北京市内のはるか南に位置する。そこにタクシーを飛ばしてわざわざ行こうというのだから、まあ、我ながらよくやると思う。と、ナルシズムに浸っている間に店に到着した。往年の雰囲気とはがらりと異なり、すっかりメジャーな店となっていた。何せ大きい。こんなに客席を設けて大丈夫かと思うほど、たくさんの席があり、しかもそれなりに客が入っている。この店、本来は回族料理店で、小吃がおいしいのであるが、初志貫徹、シャブシャブを注文することにした。羊肉ももちろんのこと、南来牛肉(1人前36元)もまたなかなか捨てたものではなかった。北京でおいしいものにありつこうとすれば、まあこのくらいの苦労はまだ序の口である。MT君もこの道を究めんと欲すれば、呑気にシャブシャブを食らってる場合ではない。留学とはこれ何事も経験の賜物なのである。

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 北京の街はさすがに建築ラッシュも一段落し、景観が激変するようなことはしばしなくなったかのようではあるが、小異がないわけではない。地下鉄はさらに延びる予定である。道路も前に比べると格段と広くなった。道路拡張に伴う強制立ち退きも結構やっているようで、建国門外の貴友百貨店前に「中華人民共和国憲法では人権が保障されている」といった強制立ち退きに抵抗する垂れ幕がぶら下がっていた。ただ、交通渋滞は相変わらずで、最近ではマイカーを持っている人が増えた分、いくら道路を拡張しても、それに追いついてない。中関村から王府井までタクシーで90分、57元を要した。またまた新記録である。早く中関村まで地下鉄を引かないと、北京大学は陸の孤島になってしまう。

 もっとも人民の生活は相変わらずのところもある。地下鉄のシステムは旧態のままであり、一律3元の料金を切符売り場に差し出すと、切符が手渡され、それをもって反対側の改札に行き、なぜか3人ほどいる係員の一人にそれを渡すと、そのまま切符は握りつぶされてしまう。こんなことをいまだにやっている。均一料金であれば改札は無人化が可能であると考えるのは正真正銘の日本人である。このシステムによって計5人が失業しなくてもすむ。中国に来ると「合理化」とは何かを改めて感じさせられる。

 地下鉄車両のドアには「危険防止のためドアに寄りかからないでください」との注意書きとともに右のような絵がある。とっても痛そうで、注意喚起には効果があろうが、日本でちょっとお目にかかれないのではないか。この表示はかなり以前からあり、現在もなお続いているし、変だとも思われていない。絵と同じように指を出していたら、隣の人に「なにやってんだ、こいつ」という顔でじろじろ眺められてしまった。

 北京の人も今ではずいぶん信号を守るようになった。以前は「赤信号、みんなで渡れば青信号」の論理がまかり通っていたが、最近は一変した。もっとも、気のせいか地下道が多くなったようだ。これはやはり信号を守らない人が死ななくてすむための配慮なのだろうか。はたまた善良なタクシードライバーに不幸な殺人の罪を犯させないための配慮なのだろうか。

 通りでちょっと危なそうな人が声をかけてくる場合、昔は人民元を外匯兌換券に換えてくれと頼むチェンマネ兄さんと相場が決まっていたが、今ではDVD売りに変わってしまった。このDVDはもちろんいかがわしいものでなく、単なる人気洋画の海賊版であるが(十分いかがわしい)、DVDだけあって、どんなものでも画質が劣化しないところにうまみがある。1枚8元が相場であり、さすがにこれでは日本でDVDを買うことがばかばかしくなる。その最新版に「黒客帝国−矩陣革命−」というのがあった。これが何に当たるか、知らなければここから原題を想像するのは難しい。正解はMATRIX。「黒客」は「ハーカー」と発音することで、「ハッカー」とかけているのがミソである。副題の「矩陣革命」は「REVOLUTIONS」の意味だろうが、「矩陣」とは何か、気になるところである。もう一つ、「終極者3」ってなんだろう。正解は「ターミネーター3」。シュワルツネッガーは「舒華辛力加」とか「施瓦辛格」とか、いろいろある。

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 王府井はますます美しくなった。その象徴である北京飯店はさんざん「老女の厚化粧」との酷評を受けながら、中国五千年の回春秘薬と整体術の効あって、華麗なる五ツ星美人に大変身してしまった。さすがに客層も違う。若い女性はみな180センチ以上の9頭身である。と思ったら、このホテルでミスユニバースの予選会が開かれているとのことだった。いくら北京飯店といったって、そんなわけはない。

 王府井のカトリック教会である東堂もリニューアルした。17世紀に創設され、かつては立派な教会であったが、義和団に襲われ、紅衛兵に壊され、しばらくは閉鎖状態が続いていた。それがすっかり整備され、内側が一般公開されるようになった。

北京飯店 東堂

 商務印書館も涵芬楼書店として生まれ変わった。商務印書館は光緒23年(1897年)上海に創業した書店の名門であり、印刷業を主体としたことからこの名がある。後に教科書やいわゆる硬派の出版物を主力に発展した。「涵芬楼」は当時付設され、上海事変で焼失した東方図書館の蔵書名にちなんでいる。1980年代、この店はそのライバルである中華書局とともに王府井大街に仲良く軒を連ねていたが、ともに次第にみすぼらしくなった。今回の新装は北京にもう一つ硬派書店が生まれたことを意味する。

 ちなみに硬派書店とは歴史関係の専門書が豊富な書店を意味し、一に三聯韜奮図書中心(東城区美術館東街)、二に中国書店(宣武区瑠璃廠)、三に中国古籍書店(瑠璃廠)をいう。王府井書店(東城区王府井大街)や北京図書大厦(西城区西長安街)は規模からすれば馬鹿でかく、商品も豊富ではあるが、専門書という点では少しく劣る。

 東安門の名物屋台(東城区東安門大街)もまた小奇麗になった。もともとは漢族や回族のいかにも怪しげなおじさんたちが店を出しており、出し物も怪しげなら、客も怪しげ、だから屋台の魅力があったのだが、最近はどうも観光スポット化してしまい、何から何までキレイキレイ。おじさんたちの身なりもよく、どうもヤラセのようである。

 ヤラセといえば王府井小吃街である。王府井大街の横道にこの入り口があり、中に入ると庶民的な小物雑貨の店でいっぱいのゾーンがある。いわばみゆき通りにこんな場所があるようなもので、シチエーションが極めて不自然。あらら、なぜか烤魷魚(イカ焼)や章魚小丸子(タコ焼)の店まである。王府井でお買い物をした団体観光客が集合時間までの間にちょっと立ち寄るにはまことに都合よくできているのは不思議なことではあるまい。

涵芬楼書店 王府井小吃街

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 今回もまた前回に引き続き餐庁は老字号を中心に攻略した。まずは正陽楼飯荘(崇文区前門西打磨廠街)を紹介しよう。この店は道光33年(1843年)の創業にかかる北京を代表する、老字号中の老字号である。「烤涮羊肉正陽楼、沽飲三杯好澆愁。幾代興亡此楼在、誰為盗跖誰尼丘?」(焼肉シャブシャブの正陽楼、三杯の酒で憂いを晴らす。幾代かの興亡、この楼においてあるも、善悪どちらにしても大物になった者は誰もいない。)とある竹枝詞(土俗を題材とした古民歌)にも歌われ、京師八大楼の代表格たる羊肉料理店であった。羊肉料理店はたいてい回族が経営することが多いが、この店は漢族が経営する山東風味の店であった。そのためシャブシャブのスープにラードを用いるなど、大教(儒仏道教)の人々の歓迎を受けて発展したという。ところが、最近はどうも振るわない。前門大街の入口という、ロケーションとしては実に一等地にありながらどうもパッとしない。20年前からその兆しがあったが、最近ではとみにひどくなった。

 以前にも触れたように、中国のミシュランである『吃在北京』には「この店は国営レストランであり、衛生状況や料理の価格には厳格な基準があるため、安心して食事ができる。しかし、サービスはやはり国営レストランの風格と水準のままである」と酷評されている。概観も写真のように新興の美国加州牛肉麺大王に母屋を取られそうな勢いである。まさに「西風が東風を圧倒する」時代である。

 しかして、実態はどうであろうか。二階にあがると一応はそれらしき店があり、老字号であることを全面に謳っている。ここでは上記の羊料理の他、北京ダックや山東料理もあり、いわゆる「京菜」がすべて食べられる。北京料理が一同に食べられるのは都合がよい。北京ダックの味は全聚徳や便宜坊とはちょっと異なり、地味ではあるが老舗の味を感じさせる。で、サービスの方はといえば、うううーっ。むべなるかな「国営」。最近の旅行ガイドブックでは見放された感がある。「ちょっと危ない老字号」の代表店であろう。

 同じ山東料理でも萃華楼飯荘(東城区王府井大街)の方はけっこう流行っている。1930年の開業で、山東八大楼の筆頭に上げられた。現在でもその地の利を生かし、コックも特級をそろえているため、味はとてもおいしい。今回ここでは、紅焼全家福と龍珠餃を注文した。前者はいわゆる八宝菜であるが、イカ、ナマコ、エビ、鶏肝、大腸…なぜか五宝しかない。だが味は醤油が効いたいかにも山東の八宝菜といったものだった。後者はテトラ型の三角の蒸し餃子。まあ、こんなところか。

正陽楼飯荘 萃華楼飯荘

 そうそう、なぜこの店に来たのかを思い出した。G大のOA氏の言では、同和居(西城区三里河月壇南街)の三不粘(サンブチャン)という人気デザートがここでも食べられるとのことだったからである。それは初耳だったので確かめるべく、ここに来たのだった。結果はメニューのどこを探してもそれらしきものはなく、ウエートレスに尋ねても、「同和居に行け」といわれるだけだった。後考を待つ。

 来今雨軒(東城区長安街中山公園内)にはまだ行ったことがなかった。かつての社稷壇にあたる中山公園の中にあり優雅な雰囲気を残すこの餐庁は、1915年の創業になる。店名の由来は杜甫の詩にちなみ、今雨(新しい友)も一堂に集う軒ということから来ている。現在は紅楼菜といって紅楼夢の宴会に模した料理を出すので有名である。一人ではもちろん紅楼菜に挑むべくもないので、昼間でもあり、滑溜肉と三鮮湯を注文した。三鮮湯は8元と安かったにもかかわらず、イカ、ナマコ、エビなどが入った本格派のスープ。洗面器いっぱい来るのが玉に瑕である。他のメニューに阿拉斯加(アラスカ)深海魚(1斤48元)というのがあった。この食材は紅楼夢とどこでどう関係するのか。味については次回複数でやってきて再度確かめたい店ではある。

 松鶴楼菜館(東城区台基廠大街)は新僑飯店の近くにある蘇州料理店。蘇州の本店は乾隆年間の創業にかかり、今に至るまで220年以上の歴史がある。ただ、北京での開業は1984年と比較的新しい。この店のよいところは朝6:30から朝飯を食べさせてくれるところで、新僑飯店の高いのに比べれば格段おいしくて安い。水餃子などは20元で32個も出てくる。朝からあまり無理をしない方がよい。ウエートレスは?という質問はしないでほしい。わかってると思うけど、“国営”である。

来今雨軒 松鶴楼菜館

 烤肉季飯荘(西城区地安門外大街海東沿)には前述のMT君と一緒に殷墟から帰ってきたばかりの同じく慶大院生のSR君との3人で再訪問することになった。今度は水槽の前に特別席をしつらえてもらうこともなく、烤羊排を一人でかじりつくこともなく、おいしい焼肉が賞味できた(『北京餐庁情報六編』参照)。以前の長い箸を使って客が自分で焼くやり方はなくなってしまったと思っていたが、5人以上で予約するとやってくれるとのこと。次回を期したい。

四川飯店
 四川飯店(東城区東華門大街)にもまたまた来てしまった。北京に来て四川飯店に行かないと、なんかこうすっきりしない。四川飯店では辛い料理に限る。辛い料理といえば水煮牛肉である。その昔、重慶でおなかを壊したとき、何かあっさりしたものはないかと注文してひどい目にあった料理であるが、これを一度食べたら病み付きになる。だが、残念ながら日本でこの料理を出す店は少ない。辛さが日本人には嫌われるためか。だが、一人でこれに挑戦するのはやや辛い。「小さいのだよ」と念を押したにもかかわらず、大鉢いっぱいのえび茶色の海に中にたっぷりの牛肉が泳いでいるのが出てきた。その日の昼間には豚肉をいっぱい食べたので、孔子も「朝に豚を食らはば、夕べに牛肉を食らはざれば不可なり」と言っているように、牛肉をいっぱい食べることになった。四川涼麺でほとぼりを冷ましてちょうどいい具合であったが、やはり来たかいがあった。

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 北京老字号めぐりはそれなりに面白いが、新規に店を開拓する努力も怠ったわけではない。今回自信を持って?紹介するのは2軒である。

 まずはじめは天華毛家菜館(西城区白雲橋東南角)。いわゆる毛沢東の好んだ湖南料理を出す店の一つであるが、先だって『朝日新聞』紙上で紹介されて日本人にも一躍有名になった。なんでも、毛沢東のお抱えコックであった韓阿冨氏が会長を務め、毛沢東の娘や生活秘書など多くの関係者が絡んでいることがウリの店である。入ると金ピカの毛沢東の胸像を安置した祭壇がしつらえてあり、さながら神様のようだ。毛氏紅焼肉や乾炸臭豆腐など、この店ならではのものが食べられるが、ウエートレスの態度がいま一つ素っ気ない。『吃在北京』には「料理は味わい深いが、それは服務員が親切であることの印象深さには及ばない」とあっただけに、やや期待はずれだった。

天華毛家采館の祭壇
 ならば、と思い、日本から持参した棚の切抜きをウエートレスに見せた。その途端、旧知にでも出会ったかのように表情が一変して緩み、奥からは責任者が名刺を持って現れるなど、大騒ぎになった。MT君と二人をマスコミ関係者と勘違いしたのかもしれない。MT君いわく、「いやー、SYさんの言ったことは本当だったんですね」と。「SYさん」とは例の愛娘の写真をパソコンに取り込んで常時持ち歩き、中国の女性服務員を味方に取り込んで、交渉を有利にする手練手管の御仁である。ただ、断っておくが、この店ではサービスは急によくなったが、それで勘定が安くなったわけではなかった。

 もう一つは前回探し出せないままに終わった新紅資倶楽部(東城区東四九条)である。清代の建てられた四合院を改造して1950年代の中国共産党幹部宅風に仕立て上げたレストラン&バーで、「新紅資」なんて名をよくもつけたと思ったところ、なんでも1980年代に中国に来たアメリカ人が経営者とか。昨年、好奇心が災いして散々探し回ったのだがついに見つけ出すことができなかった。今回は好奇心では負けていない、北京駐在のS夫妻とともに探索を再開した。

 東四十条は堂々たる大通りであるが、九条は見つからない。よく見ると十条をちょっと戻ったところにものすごく狭い路地があるではないか。うっかりすると見逃してしまう「東四九条」という立て札がなければ、この中には多分入っていかないであろうと思われる路地に分け入って、次第に心細くなったころ、でかいアメ車が停まっている場所にたどり書いた。しかし、店の看板も何もない。そこの住所表記が「東四九条66号」であることを見つけなければ、またまた見逃していたはずである。

 扉をたたくと、そこには別世界があった。いきなり解放軍の軍服を着たウエートレス同志が席に案内してくれた。確かにすごい四合院である。ロイというオーナーの趣味が高じて何とやらの類なんであろうが、よくもまあこんな家を見つけたものである。なんでも川島芳子の旧宅だったとか。メニューには「康熙排骨」「慈禧太后焼餅」「主席三鮮豆皮」から「林彪飛機」なんていう危ないものまである。ただし、味は普通の中華料理である。中庭の防空壕を現在ワイン貯蔵庫に使っているなんて、まあ好きなようにやってくれという感じである。酒を飲むだけでもよく、一度は来る価値がある新嗜好倶楽部といえよう。ちなみに近くの東四六条9号には同じ経営者による5室だけのプチホテルがある。1泊200$と高いが、50年代にワープできるそうだ。

新紅資の服務員

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 北京は一時の「激変」からやや小康状態を取り戻したかのようではあるが、やはりそれなりの変化はある。昔の北京が変わってしまうのは仕方がないがやはり寂しい。

 燕沙商場(朝陽区燕沙中心)はルフトハンザが経営するデパートとして90年代後半には名を馳せていた。ここに来ると中国のお土産がだいだい買えた。ところが、いつころからか、ごくふつ〜のデパートに変わってしまった。お土産販売の役割は王府井に復活した中工美大厦(東城区王府井大街)にバトンタッチしたといってよいだろう。ただ、燕沙商場の中の啤酒坊が不変なのが嬉しかった。

潘家園旧貨市場
 潘家園旧貨市場(朝陽区潘家園路)は相変わらずの盛況である。以前は日曜しか開かなかったのが、今では毎日になってしまい、まさに“市”が発展したものになってしまった。月〜金は8:30−18:00、土日は4:30−16:30とのこと。要するに農民の副業から、立派な骨董の専業になってしまったわけである。それにしても土日の営業時間がすごい。16:30に早々と店じまいするとはいえ、実働12時間、掘り出し物は暗くて真贋がよくわからない4:30−6:00にほぼ取引が終わっているのだろう。売っている人の人相も普通になったし、売っているブツも普通になって、次第に面白みがなくなってきた。もう兵馬俑のぶつ切りなどは滅多に出ないだろう。ただ、店の裏には古本屋街が出現した。これはこれで掘り出し物が大いに期待できるというものだ。

 三里屯の酒吧街も相変わらずはやっている。最近では后海に新しい飲み屋街ができ、人気を奪われつつあるというが、なかなかどうして負けてはいない。ただ、さらに一層品が悪くなってきた。タクシーを止めると、まだ降りてもいないうちに10人くらいがどっと集まってきて、いっせいに「女の子安いよ」と叫びまくる。通りに出るとさらにますますひどくなる。ほとんど歌舞伎町と変わらない。誰だ、ここが中国の六本木といったのは。

 見知らぬ店はさすがにちょっと危ないので、こういう時は以前入ったことのある男孩女孩(Boys&Girls)が安心できる。その昔、およそ中国の六本木にはふさわしくないむさ苦しい男4人で行った店であるが(「北京餐庁情報四編」参照)、いまやまさに隔世の感がある。客のほとんどが中国人のカップル同士。だが、どうも健全な恋人同士というわけではない。生演奏は本格的。よく見るとボーカルは鼻ピアスをしている。「身体髪膚之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」なんていっても「人民中国」では通じない。座っただけでさっきの食事代の2倍も払うこの店で時間をつぶす人々はいったい何者なのであろうか。

 北京大学の勺園が留学生宿舎でなくなるとの噂を耳にした。これは本当かどうか確かめねばならないと思い、早速出かけてみた。勺園の前では大々的な建設工事が行われている。購買部の店員の女性に真偽のほどを尋ねると、近い将来、勺園は中国人の学生宿舎になり、外国人留学生の宿舎は学外に新しく建設するとのことであった。勺園よ、おまえもか!

男孩女孩 勺園

 以上、今回は最近では珍しく餐庁情報を主体に北京の現況を紹介した。今回の北京滞在の主目的は、北京の餐庁…もとい、北京の古籍収蔵機関の最近の利用状況を調査することであり、こちらの方も大いに成果があった。一週間の滞在期間の中で、合計8機関を回ることができた。この利用状況の表および裏の情報については、別途「中国歴史文献収蔵機関情報−北京・江南・台北−」にまとめたい。

(2003年11月19−26日取材、2003年12月22日記)


 北京餐庁情報六編(2002年)
 北京餐庁情報七編(2003年)