初公表 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
北京餐庁情報・続編(1) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
山本 英史 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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T 北京贅庁情報六編(2002年) -- 1 -- 南京から北京までは航空機を利用した。南京から北京までの国内機に乗ったのは1984年以来である。中国民航の空中小姐(スチュワーデス)は質実剛健を特徴としていた。年齢もまた質実剛健であった。当時の日本往復の国際線はみなそうだった。ところが、この国内線は文字通りの「小姐」ではないか。しかもみな美人である。半可通によれば、国内線は中国の幹部が利用するためだとのことだった。それゆえ、今度もまたひそかに期待したのだが、それはむなしく終わった。幹部の特権が減少したためか、はたまた安全性の方を優先するようになったのか、いずれにせよ、これまた改革開放の賜物なのであろう。 ちなみに最近空中小姐をはじめとするステータスの高い女性は「小姐」と呼ばれることを嫌うそうだ。「小姐」は本来若い女性に対する敬称として一般に用いられていたが、使いすぎによるインフレが生じ、今では「ねえちゃん」くらいの意味になっているとのこと。では、何と呼べばいいのかといえば、「女士」だそうだ。これではまた中国のスチュワーデスが質実剛健だらけになってしまうと心配するのは筆者だけだろうか。 さて、そんなことを考えているうちに北京に到着した。丸2年ぶりの北京、今世紀になって初めての北京である。オリンピックを控え、さらにどんな変化が北京にあるのだろうか。以下、新たな気持ちで北京餐庁情報を記録していきたい。 なお、今回の北京訪問の目的は史料調査であったことは確かながら、雑誌『アジア遊学』(2003年2月号)掲載記事執筆のための取材をも兼ねていた。北京老舗餐庁の20年の興亡について少しはまじめに書いたつもりなので、本稿とあわせて参照いただければ幸いである。 -- 2 -- まずは王府井大街の最新情報から入ろう。ついに北京飯店が新装開店した。八カ国連合軍が北京を占拠した1900年に開業、新中国建国後は北京を代表するホテルとして君臨してきた北京飯店は、80年代においては外国人商社マンや留学生に多くの便宜を供給してきた。 例えば、未明に北京に着いても、ここに来ればソファーで眠ることができた。国際電話を掛けたければ、ここに来れば掛けることができた。海外向け小包を出したければ、ここに来れば出すことができた。日本食を食べたければ、ここに来れば曲がりなりにも食べることができた。洋食を食べたければ、ここに来れば中華風洋食だったら食べることができた。水を呑みたければ、ここに来ればなぜかウイスキーの空き瓶に入った涼開水(早い話が湯冷まし)を飲むことができた。要するに、このホテルでしかできないことがいっぱいあった。それゆえ、外国人は北京に来るとまずこのホテルに来て、たまった用事を済ませるのであった。このように北京飯店はまさしくコンビニホテルであった。 しかし、寄る年波、北京飯店も老いて来た。外資系の立派なホテルが北京中にたくさん建てられ、さしもの北京飯店も「これでよく5つ星だといえるもんだ」との陰口をたたかれるようになった。2000年のオリンピックを見込んで整形を試みたが、見事失敗。しかし、再びオリンピックが彼女を奮い立たせた。そして、最後の賭けに挑んだのがこのたびの大整形手術だった。結果は…?! まあ、成功したのではなかろうか。たとえマイケル=ジャクソンとまではいかなくともである。フロントをはじめとして、オンボロさはずいぶんと解消した。ただ、憩いの場所であった咖啡庁がなくなってしまったのはまことに淋しい。ちゃんとした日本食が安く食べられた五人百姓はどこに行ったのだろうか。場所は全く違ったところに移ったとはいえ、五人百姓は健在だった。トンカツ定食60元も昔のままであった。この店はやはり北京飯店にはなくてはならぬ存在である。
さて、北京飯店の向かいもまた大変身を遂げた。マクドナルドを壊した跡地に築いた東方新天地と称するショッピングプラザは2年前には完成したばかりで、まだ十分なテナントも入っていなかった。しかし、いまやまるで昔からあったかのように多くの高級店が軒を連ねる。スタバのカフェーやフジカラーのプリントスタジオも違和感なくそこにある。THE MALLS AT ORIENTAL PLAZAなんて横文字を見ると、ここが北京であることを忘れそうになる。 トイレはもちろんニイハオトイレではなく、扉がある。それどころか、紙つき、洋式水洗なのである。清末の思想家厳復は100年前に「ああ、今日の時世をみるに、おそらく秦以来これほどの激変はなかったであろう」と嘆いているが、厳復は今の世に対してはいかなる感慨を抱くことか。
もっとも、王府井にはこうした状況下でもまだ生き残っている老舗が少なくない。書画の北京画店、印刻の承古斎、靴の同陞和、写真の中国照相など、まだまだ若いもんには負けないといっている。その代表格である、元十大建築の一つであった北京第一百貨大楼は確かに古いが妙な風格がある。 他方、餐庁でも北京ダックの全聚徳、小龍包の狗不理、涮羊肉の東来順、山東料理の萃華楼などがんばっている店が多い。広東料理の香港美食城もこの本店は繁栄している。目の前の東安門大街には夕方ともなると美食坊夜市が100以上の屋台を連ねる。だから高い金を取る香港美食城で出すものが屋台と同じ味だったら、そりゃまずかろう。屋台といえども侮れないのが中国なのである。西洋料理の凱旋西餐庁は筆者の予想に反して大健闘している。時代の波に乗って生き残れる可能性を見つけ出したのは、なかなかたいしたものである。
-- 3 -- CITYGUID(中国商業出版社、2002年4月)というガイドブックが出版されたことは注目される。北京の街の情報を包括的に伝えるガイドブックで、『吃在北京』のほか、『夜生活在北京』『娯楽在北京』『購物在北京』『美容健身在北京』『文化芸術在北京』の6種類が出ている。『吃在北京』では約1200の餐庁の所在、費用、予約の要不要等の単なる情報を載せるだけでなく、それぞれについての味、雰囲気、サービスなどを辛辣にコメントする。 例えば、上は山東料理の有名な老舗として一世を風靡した正陽楼の記事である。一番左のホークマークは味を、家のマークは雰囲気を、ニコニコマークはサービス精神を、巾着は一人当たりの経費(元)を指す。また、★が1つは「耐えられる」、2つは「普通」、3つは「よい」、4つは「とてもよい」、5つは「極めてよい」、そして6つは「完璧に近い」ということになる。ということは、正陽楼の場合、あまり良くないというわけだ。 さらに次のようなコメントがつく。「この店は国営レストランであり、衛生状態と料理の値段にはともに厳格な規準があるので、安心して食事ができる。しかし、サービスもまた国営レストランの風格と水準である」。こういったミシュラン的なものが出ることは、これまで親方五星紅旗であった中国ではまさに画期的な出来事だといえよう。ちなみに、気になるのは『夜生活在北京』であろうが、「夜生活」は「ナイトライフ」と訳すのが誤解を生まなくてよいであろう。
いまさら海淀・中関村の変化については書くまでもないが、建設途中であった北四環高速道路が開通し、電脳ビル群もついに完成した。それに伴ってこの付近一帯の景観もずいぶんと変化した。北京大学の東南門周辺では大学の土地を借りて経営していたブティックとか餅屋とかの個体戸が一掃された。同時に向かいの小長城、長征飯店、必勝客など7年前には繁盛していた店も消滅し、跡地は公園化されてしまった。太陽村がなくなったのはいうまでもない。海淀図書城一帯の店も大きく様変わりした。モンゴル料理の老舗である鴻賓楼飯荘の海淀分店も店仕舞いしたようだ。その中で美国加州牛肉面大王が健在なのはどうしてか。 新世紀になった北京の街の印象を一口に言えば、服務員はより親切に、システムはより能率的になったということに尽きる。少なくとも20年前には「親切な服務員」と「能率的なシステム」は北京には存在しなかったのだから、これはもう「時世の激変」である。店に入れば「歓迎光臨」(いらっしゃいませ)、買えば「謝謝」は当たり前。20年前であれば300日で1回聞ければいい方だった。郵便局では日本よりも民営化が進んでいる感じがした。どこでも海外向け小包が出せるようになった。出し方を教えてくれる前に局員が勝手にやってくれる。完了したとき、「歓迎再来」と言われた。これは言いすぎである。写真の現像も実に簡単になった。15元の現像代で60分待てば同時プリントができる。使い捨てカメラは30元で購入できる。街のあちこちにカメラスタンドがあって、若いきびきびした小姐たちが対応している。北京もまた近代都市になろうとしている。 -- 4 -- 今回は前述したとおり、北京の老舗餐庁の現状を調査することに目的の一端があったため、食事は老字号の称号がつくところを主とした。S大のSY氏が取材に同行するはずだったが、あいにく体調を崩してリタイヤしたため、単独で実施しなければならなかった。餐庁調査は何が難しいかといって一人で何品も試せないところである。いやはや、いきなり戦力を欠いたとはいえ、文字通り孤軍奮闘し、それなりの成果はあったと思う。
だが案ずるより産むが易し。満洲女官の格好をした小姐がにこやかに迎えてくれ、一人でもよいかの問いに「歓迎光臨」で店の奥に通された。だが、次なる関門はメニューである。おうおう、1品1000元とか2000元とかがあるぞよ。こういうものは見なかったことにして、次のページをめくると、なんと伝説のスープ佛跳墻があった。しかも嬉しいことにサービス期間メニューとして迷你(ミニ)佛跳墻96元という値段も量もリーズナブルなものがあるではないか。 あまりのおいしさに修行中の仏僧も禁断の垣根を飛び越えてしまうということにその名が由来するこのスープは、恥ずかしながら漫画『美味んぼ』で紹介されるまでその存在すら知らなかったのだが、知ったからといって簡単に味わえるものではなかった。それを譚家菜で試せるのは超ラッキーというものだった。三鮮炒麺と極品青島ビールとでしめて221元ですみ、大満足だった。次回はぜひSY氏にご馳走したいという思いが一瞬脳裏をよぎったが、やはりこの思い出は一度だけに留めるべきだと考え直した。 次なる標的は豊澤園飯荘(宣武区珠市口西大街83号)に定めた。1939年開業の正宗山東料理の店で、店名は清朝皇帝の豊年を祈念する場所であり、毛沢東の長期居住所だった場所に由来する。建国以来党と国家の要人に供する宴会場として使われてきたが、ある事件がその名を世界的に有名にした。それは20年以上も前のことになるが、王磊という大臣が高級公用車「紅旗」でこの店に乗りつけ、食事の代金を払わなかったのを、党員のコック陳愛武に暴露され、平謝りさせられたことだった。当時、こうした告発は極めて珍しいことであり、その出来事は豊澤園飯荘がそれまで幹部たちのたかりの場であったことを如実に示す結果となった。ただ、それにもめげず現在は中外合資のホテルに成長し、餐庁はその中に含まれることになった。『吃在北京』は「実際のところ、豊澤園のサービス水準はその料理の味とかなりの差がある。これは恐らく国営態度の通弊なのであろう」と酷評しているが、ナマコの味は美味しく、店員の態度もそれほどではなかった。 もう一つぜひ紹介したいのは烤肉季飯荘(前海東沿18号)である。什刹海に臨む風光明媚なロケーションに恵まれたこの餐庁はモンゴル焼肉の店として有名である。昔は大きな鉄なべを囲んで自分で焼くやり方だった。7年前は修復中。それを知らずに探し回り、もっと怪しげな焼肉店に入った覚えがある。今は修復が完了し、立派な店になった。また、肉は店で焼いてくれるようになった。烤羊排という羊のバラ肉のあぶり焼きは絶品である。特級技師ケ首璽さんが作った滑溜木須もおいしい。なぜ彼が作ったかがわかるかと言えば、皿にその名を記したメモが付されているからである。服務員の態度もよい。雨にぬれて店に入ったところ、あいにく席は全部埋まっていたが、それならちょっと待ってと言われて、水槽の前にテーブルを出してもう一つ席を作ってくれた。この味とこのやさしさ。ゆえに今回の老舗餐庁の第一に推奨する。 -- 5 -- さて、そんなわけで今回は新規開拓した店は少ない。とはいえ、探せばあるもので、その中から2軒の推奨店を紹介したい。 まずは孔乙己(東城区東四北大街322号)である。魯迅の小説の名に由来するこの店は古き時代の紹興を思わせるインテリアとおいしい紹興酒を供する店として2年前に開店して以来とりわけ日本人に人気を博してきた。19:00に行ったところ、入口に置かれた大きな白磁の魯迅の胸像を見ながら30分待たされることになった。客は大使館員や商社マンなど日本人で満員。でも店員はみな元気で感じがよい。紹興酒は5年もの1斤で30元。独特の容器で登場する。一口飲めば全身にしみ込む。ウイキョウ豆をつまみにすれば、孔乙己の心が理解できるというものだ。 などと感慨に浸っていると、留学生とおぼしき日本の若者数人が前に座った。そしていきなり飯を食べ始めたではないか。ここに来て洒を飲まないでなんとすると思ったが、彼らは酒をおろか何も飲み物を注文しない。ただひたすら飯を食べている。「飲食一致」、そんな言葉はなかったかもしれないが、中国では食事の際に酒(または飲料)と飯はセットになっているものではないのか。彼らには文句も言えないので、くだんの感じのよい店員にそのことを告げたら、彼女いはく「そういうお客さんは主食を注文しないじゃないですか。第一ひとりで飲みすぎよ」と。まっ、物事は何でも相対的なものである。
もう一軒は龍爪居(西城区北長街71号)である。西華門付近に新しくできた小吃店で、「羊大爺刷肉」の大きな文字の看板が目印になっている。この店の経理の名を羊小君というそうだ。彼は羊料理に御執心なので、この名をつけたとか。実際は麺とか餃子とかの軽食がおいしい店で、北京炸醤麺(5元)はなかなかいける。現代的なセンスが感じられる店である。ちなみに『地球の歩き方』ポケット(6)北京&上海2002〜2003年版(ダイヤモンド・ビッグ社、2002年6月初版発行)の59ページにはこの店が紹介されているが、名前は「龍瓜居」になってあり、地図には「能瓜居」として載っている。もちろんこれは龍の爪でないと意味がない。これではまるでこの店が「能ある龍は爪隠す」とでもいいたいかのようである。 ついでながら日本で出ているガイドブックには誤りが多い。前述の『地球の歩き方』ポケット(6)北京&上海2002〜2003年度版を例にとれば、51ページの「能人居」は「能仁居」であり、61ページの「孔乙巳」は「孔乙己」である。52ページの「倣膳飯荘」の「倣」は意味としては同じだが、正しくは「仿」である。53ページの「烤肉季」のふりがな「こうじくき」は変だろう。 この手の極めつけは、『るるぶ中国』02−03(JTB、2002年7月発行)の114ページである。そこには写真の女性を「五福茶芸館北三環店のスタッフ实习生さん」として紹介されている。なんか変である。別なページでは「スタッフの張さん」とか「スタッフの楊さん」とかで表現している。ということは「実習生」をひょっとしたらそういった女性の名前と間違えたのではないか。なるほど胸には「实习生」という名札がある。それなら日本にだって春先には同姓同名の人がわんさかいるぞ。るるぶも取材していてあちこちに同姓同名がいることに気がつかなかったのだろうか。これらはみな店名をいい加減にメモしてくるか、簡体字を自己流に判断することから生じるミスであり、関係各位に猛省を促すものである。 -- 6 -- 例によって北京の図書館最新情報をお届けする。まずは中国国家図書館。さすがに上海図書館までには至らないが、パスポートがあれば5元で臨時読書力ードを発行してくれるようになった。所要時間はなんと15分。これは画期的である。従来ならば、やれ外事弁公室だの、善本室だのをたらいまわしにされて午前中全部がつぶれることが当たり前だったからである。 これで午前中に本が見られると勇んで善本室の前まで行ったまではよかったのだが…。善本室の前では写真パネルの展示がなされ、中国人に混じって白人、しかもきちんとスーツを着た人が少なからずたむろしている。そうこうする内にスピーチが始まった。そういえば本日は9月11日。NYテロに関連するパネル展示が今日から始まったためのセレモニーであったのだ。係員はこの線から前に出ちゃいかんという。こちらは別にこの催し物を見に来たわけではない、すく後ろの善本室に行くだけだと反論する。 こういった場合の係員は融通がきかない。彼は言う、「とにかくセレモニーが終わるまでは絶対に入ってはダメだ。オイ、そこの学生、足が線から出てるじゃないか」。こうゆう状況ではひたすらセレモニーが終るのを待つしかない。何人目かのアメリカ人がスピーチした。彼は若いころ中国に留学したことがあるから、中国語でスピーチすると言う。エーイ、余計時間がかかるじゃないか!と、まあ、いつもながらの目にあい、結局午前中の大半は無駄に終わった。どっかでつじつまが合うのがいかにも中国国家図書館である。NYテロが北京の古籍閲覧にも大きな影響を与えているとは、ビンラディンさまでも気がつくめぇ。 中国第一歴史档案館にも若干の変化があった。第一には西華門の入口で「档案館に行く」といえば、すんなり入れてくれるようになったことである。もはや「来たことがある」と言えば入れてくれた「開けゴマ」のようなお題目は過去のものになってしまった。さらに館内に入ると目録室が改築されて立派になっていた。ただ、目録は相変わらず冊子のみであって、台湾のように電脳化は進んでいないように思える。冊子になった目録は膨大な数になる。清代の軍機処録副とよばれる行政文書などは地域別、年代別、上奏者別のそれぞれの目録がある。これなんか電脳にデータを打ち込めばそれで済むと思えるのだが。結局中国第一歴史档案館は現在の時点では微変動はあっても大変動は当分期待できないということか。 科学院図書館はとうとう中関村に移転してしまった。そうとは知らず五編で紹介したように友誼賓館北門対面に行ってみた。「中国遥感衛星地面站」(遠隔探査衛星地上基地)の看板はそのままである。案の定誰何される。「漢籍って…、この看板見たのか?」。まあ、いつものことである。しかし、その奥にあったはずの漢籍図書館もやはり「中国遥感衛星地面站」である。「おっかしいなあ」と窮していると、必ずや、わけ知りが出てくる。これもいつものことである。ということで、中関村に移転が完了したことがわかった。でも、中関村の科学院図書館ははっきり言って文字通り自然科学の図書館だけに、漢籍はさぞ肩身の狭い思いをしているに違いない。 社会科学院歴史研究所図書館もまた、ついに仮住まいを捨てて同じ社会科学院の敷地内の新しいビルへの移転が始まった。そのため研究所の図書は目下「不開放」であり、今回は閲覧できなかった。もうすぐ新装開店だそうで、次回に期待するものである。 -- 7 -- 博物館の話を二つばかり述べる。一つは中国歴史博物館である。歴史評価が定まらないためか。全面公開が遅れている。歴史博物館の方で「珍蔵特展」をやっているに過ぎない。革命博物館に至っては「中国蝋像展」なんかをやっている始末である。この蝋人形展はそれなりに面白く、毛沢東とケ小平はよく似ている。写真を撮ろうとしたらダメだという。それは蝋人形と一緒に撮ったプリクラのような合成写真を売店で販売しているからであった。選択肢は二つ。一つは毛沢東、ケ小平、江沢民の3人が本人を囲むもの、もう一つは本人の後ろに毛沢東と周恩来の二人が立つもので、いずれにせよ濃い面子であることに変わりはない。どうせなら毛沢東と劉少奇とか、ずらっと四人組なんてのもあれば人気を博すのであるが、そういう危険はあえて冒さないのだろう。一瞬触手が動いたが、土産にもって帰ったらみんなから馬鹿にされそうなのでやめにした。惜しいことをした。というわけで、歴史博物館と革命博物館は目下何にも機能していない。 中国人民革命軍事博物館にも久しぶりに行ってみた。天安門事件の際に群衆に焼かれた戦車をまだ自慢げに展示してあることに密かに期待したが、流石にそれは撤去されていた。昔は人民解放軍が独自に開発した武器はほとんどなかったものだから、展示物はといえば日中戦争の際に日本軍から奪ったもの、国共内戦の際に国民党軍から奪ったもの、朝鮮戦争の際にアメリカ軍から奪ったものの3種類であった。まだ、ゼロ戦の本物が展示してある。日本人の物知りがいて、ゼロ戦は海軍機だから中国戦線には参加しておらず、従ってこれは撃ち墜されたものではないと教えてくれた。ところがどっこい、わが研究室一の軍事オタク、東洋史の江畑謙介といわれる院生M君の話では中国戦線に加わったゼロ戦もあるという。専門家の話は傾聴に値する。 この博物館にも歴史を描いた部分がある。かつて農民叛乱は「農民戦争」と言っていた。これも立派に「軍事」に属した。しかし、こちらの方はいまやどうもパッとしない。この状況は歴史博物館とあまり変わらない。まあ、どちらにしてもこれらの博物館は現在の政治情勢の影響をもろに受けて、一つの方向で展示ができなくなったというのが実情なのであろう。 -- 8 -- 北京に来たら必ず行かねばならない場所がある。それは潘家園旧貨商城である。ドロボー市から始まったこの骨董市もかれこれ7年の歴史を持つ。しかし、最近は一段とグレードアップした。日曜日だけの開催である点は変わりはないが、露天だった店に屋根がつき、店も陶器店、玉器店、書画店、家具店、文革グッズ店と専門分化するようになった。昔のように、いかにも今掘り出してきましたといわんばかりに土がベットリついた唐三彩とかの贋物がなくなったと同様に売り手が価値を知らないため二束三文の値がつけられている正真正銘の本物も少なくなった。あるのは毛沢東と蒋介石が仲良く並んだ置物とか、紅衛兵が知識人をいじめている陶器など、観光客向けのものである。 地方(じかた)文章もめっきり少なくなった。稀にあっても恐ろしく高い。誰だ、買い占めしたのは?! こんなところでは見るだけが賢明、絶対に買うもんかとの固い決意の下で帰ろうとした矢先、子犬を見たときのお父さんのCMのような状態になってしまった。文革で批判された政治家たちがパレードする「群醜図」という漫画の原画が載ったタブロイド紙「東方紅」があるではないか。店の主は200元だという。こっちは100元でどうだという。話しにならんと一蹴される。ほんとならばここからが勝負なのであるが、こちらは欲しいと思う気持ちが顔に表れていて、みえみえ。ビタ一文負けてくれない。ついにこっちがじれて120元でどうだと言ってしまった。買い手が吊り上げたらもうおしまい。主は頑として負けず、とうとう言い値で買わされることになった。まあ、いいっか。その成果はいま我が家の壁に掛かっている。 燕沙商場ができたとき以来営業を続けている啤酒坊もまた必ず行く店となっている。ルフトハンザが経営する燕沙商場の中にあるドイツ料理の店で、できてから結構古くなるが、客足が途絶えない。日本でもはや見られなくなった1リットルの大ジョッキで本場の醸造ビールが飲める店として、96年にY大のAM氏と来て以来ファンになっている。日本のビールも悪くはないが、燕京王という中国のビールの方が旨い。さらにそれよりもここのビールははるかに旨い。料理もまた悪くない。一つ欠点があるとすれば、それは細長いソーセージをとぐろ巻にして焼くことである。そうしない方が食欲を増すと思われる。とまれ、この店だけはなくならないで欲しい。 -- 9 --
崇文門飯店の部屋も悪くはなかった。ただ、按摩コールにはうんざりさせられた。「先生、要不要按摩?」という若い女性からの電話が毎日朝と晩の必ず2回同一人物から掛かってくる。朝っぱらから按摩はいらんちゅうとるがな!この按摩の実態は何か。それを突き止められないのが餐庁情報の悲しさである。 北京の街に日本人の団体旅行者をほとんど見かけなくなった。瑠璃廠の外国人団体旅行者といえば欧米人ばかりである。バブルのときはどこに行っても日本人客であふれていたのに、長らく続く不況は中国の観光客層を変えてしまっている。これはまた中国にとっても痛手なのである。皇家友誼商店のおばさん店員が筆者を日本人だと認めると、次のように言った。「あなた、なんとかして景気をよくして日本人のお客いっぱい連れてきてよ」。景気を回復させる責任者は同じ大学にいるとはいえ、筆者では断じてない。 (2002年9月8日−16日取材、2002年12月31日記)
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