初公表
 北京餐庁情報・続編(2)
 
 
山本 英史
 


 北京餐庁情報六編(2002年)
 北京餐庁情報七編(2003年)
 北京餐庁情報八編(2004年)



 T 北京贅庁情報八編(2004年)

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 今年もまた北京に来てしまった。だからというわけではないが北京餐庁情報八編をお届けする。この北京餐庁情報も1995年に初編を書いて以来、早いもので八編とあいなった。顧みれば、2000年を除いて1994年から長期短期何らかの用事で毎年いつかはこの街に足を踏み入れている。一昨年はSARSなるものが猛威を振るったが、流行する前に北京を離れ、昨年は騒ぎが収まった後に行ったため、お陰でその被害にも遭わずに済んだ。「継続は力なり」である。

 北京は昨年から数えると約10ヶ月ぶりの訪問となる。今回は堂々たる目的があってのこと(今までも堂々たる目的がなかったわけではないが…)。それは何かといえば、北京の主要図書館に収蔵されている伝統中国の裁判史料(判牘)を調査することであり、H大の研究プロジェクトに加えていただいたためである。今回もまた前回と同様、餐庁情報を書くために行った訳では断じてない。

 メンバーは最年長のTさん、旧知のMさん、助手のMさん、さらに現在北京大学に留学中の院生Jさん、それに筆者を加えての都合5名であった。また、Tさんの奥様で、中国の某図書館に勤務経験があるOさんが諸機関の交渉を引き受けていただいた。

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 北京首都空港から市内までは民航バスを利用するのが常であるが、今回は上記の理由もあって豪華にタクシーを利用した。昔は夜北京に着くと、怪しいお兄さんが近づいて来て、何とか公司と横に書いてある、どう見てもタクシーとは思われないライトバンなんかに無理やり押し込まれそうになったものだが、さすがにそういった類は影を潜めた。公安が厳しく取り締まっており、タクシーに乗る時には決まって演じられた客の割り込みや運ちゃんたちによる客の奪い合いなどの狂騒曲は跡を絶った。これもオリンピックを控えているお陰というべきか。

 市内までは30分たらずで到着。かつてはタクシーでさえも優に1時間はかかったものである。これもまた高速道路が整備されたお陰であり、確かに楽になった。ただし、この高速道路を携帯電話片手に時速120キロで飛ばすのだけは頼むからやめてほしい。

 宿はすべて建国門外にある賽特飯店であった。あのヤオハンが北京に進出した時に建てたホテルで、現在は香港資本の経営に替わったと聞くが、日本人にはなじめる雰囲気がある。同じ経営のデパートが隣接しており、地下のスーパーでは食料品や雑貨がすぐに入手できる。部屋も悪くない。トイレもなぜか詰まらない。明かりも豊富であり、仕事をする机もちゃんとある。衛星放送ではシスラーの年間最多安打にあと1本と迫ったイチローが映し出されていた。もちろん小姐からの電話攻勢に悩まされることもない。もっとも、部屋の置かれた按摩の小姐にはいかなる意味があるのか。これだけは十分怪しい。

 到着した夜は霧が出ていた。なんだか昔の北京の香りがする。決して「香り」などといったよい匂いではないが、しばし絶えていた匂いだけに妙に懐かしさを感じた。ところが、これは夜霧なんていうおつなものではなかった。夜が明けても同様にくすんでいる。確か天気予報は晴れではなかったか。なのに太陽がボーっとしている。北京の10月といえば、「北京秋天」といって年間で最もすばらしい青空が見られるはずなのに…。そう、これがかの有名な北京のスモッグなのである。昨年は気のせいかもしれないが、まだましだった。そういえば、車が一段と増えたような気がする。高速道路はどんどんできているが、それよりも車が増えるのではどうしようもない。昔、天安門前の長安街は幅80メートルもあるにもかかわらず信号がなかった。だが、悠然と歩いて渡れた。なぜならば、車が少ない、スピードがない、向こうに車が見えてもなかなかここまで到着しなかったからである。時は移り、信号の代わりに地下道が設けられた。道路を悠然と渡るとひき殺される時代になったからである。ところが、今回はなぜか悠然と歩いて渡れた。渋滞のため、車が前に進まなかったからである。こんなことで4年後に迫ったオリンピックができるのだろうか。これは誰もが抱く疑問である。「その時は機関単位ごとで使用する車の台数を制限するから大丈夫だ」とは運ちゃんの言。そういう問題ではなかろう。どうでもいいが、折角楽しみにしていた北京の秋空を返してくれ!
賽特飯店の按摩の誘い

 

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  筆者がプロジェクトグループと合流した翌日からは中国社会科学院法学研究所図書館の調査が始まった。これより先、H大の先発隊は科学院図書館で主だった判牘調査を完了していた。

 法学研究所は現代法学を中心に研究する機関であるが、法制史もまたその一部であることから、清代の法律関係の史料をかなり所蔵している。場所は沙灘にある。この付近はもとの北京大学があったところで、現在は紅楼という建物だけが残っている。1919年5月4日、日本の21か条要求破棄を求めて学生たちがデモを行い、ついに北京政府にヴェルサイユ条約調印を拒絶させた、いわゆる五四運動の発祥地である。以来85年、それを記念するモニュメントが建てられているものの、いまの政府にとって学生デモを奨励するこの記念碑の存在は頭の痛いものであろう。法学研究所はその前の道を奥に入ったところにある。

 法学研究所は筆者には昨年11月以来の再訪問場所であった。それゆえ開館時間や図書請求方法など、さすがに昨年とほとんど変化していない。館員の親切さと寛容さも前と変わっていなかったのが何よりも嬉しい。彼らは我々が地下の書庫から直接漢籍を持ってきて別室で調べる便宜を喜んで与えてくれた。感謝、感謝である。
沙灘 法学研究所


 法学研究所での調査に2日を要したあと、調査場所を中国国家図書館分館に移した。北海公園の西側、文津街にあるこの厳かな建物は、かつての北京図書館本館であるが、本館が紫竹院公園の北側に移ったあと、普通本古籍を収蔵するだけの図書館になってしまった。それゆえ、利用者も以前に比べてめっきり減ったが、建物はそのまま、荷物預けや閲覧室の対応の仕方も往時と少しも変わっていない。筆者を含めて22年前にこの図書館で漢籍善本を閲覧したことにある人なら誰でもある種の感慨があろう。善本室のあの口うるさかった係員はまだ健在なのだろうか。なかなか思うように史料を見せてくれない欲求不満を近くにある延吉餐庁の激辛朝鮮冷麺で癒したのがついこの間のように思えてくる。ちなみに、現在の開館時間は月から金の毎日9:00-17:00で、昼休みはない。登記をすればパスポートだけで閲覧できる。なんといまどき珍しく著者・書名・分類の三種の目録カードが完備している。ということは近代化されてないということなのであるが…。中国の図書館のレトロな気分を味わいたい向きには是非一度訪れることをお勧めする。

 
中国国家図書館分館

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 さて、仕事の話はこれくらいにしてそろそろ本題に入りたい。今回はOさんのお陰で新規開拓の素敵な店の情報を多く提供できるというものである。

 まずは、北京ダックの新興店、鴨王烤鴨店(朝陽区建国門外大街)。北京ダックといえば、全聚徳の代名詞のように思われているが、最近では多くの店がこの名物料理を提供するようになった。どこの産だかわからないアヒルを「北京ダック」と称している日本の中華料理店に比べれば、いずれも本場であることに間違いはない。しかし、この鴨王は並み居る新興店の中で頭一つ上を行く。この店のダックの特徴は脂濃さを抑えた口当たりのよさにある。実際、一つ食べるともう一つすぐ欲しくなる。サイドメニューの広東風の野菜炒めもなかなかのものである。第一に一羽60元という値段も魅力的である。CITYGUIDEで味、店、サービスのいずれにも4星をつけるだけのことはある。270名を収容する広大な店内が客であふれ、大盛況を呈している。国際観光客御用達となっている全聚徳の地位は不動だと思っていたが、こうした牙城に迫る店が出てきたことは確かであろう。
 
鴨王

 次の日、Oさんに案内された特筆すべき店は眉州東坡酒楼(朝陽区団結湖東里)である。この辺りは亜運村といって、アジア大会の選手村跡地に最近北京の富裕層が住居を構えはじめ、したがって異常に発展しはじめた地域である。ネオンが派手である。大袈裟な構えの店が多い。停まっている車がまたすごい。その真っただ中にあるこの店は収容客数220名を誇る四川料理専門店である。特徴は本格的な四川料理の割に料金が破格に安いことにある。麻婆豆腐はたったの6元、担担麺に至っては2元という価格破壊のしろもの。何かの間違いである。
眉州東坡酒楼

 名物料理の水煮魚が運ばれてきた。
断っておくがこれは魚の水煮ではなく、辣油煮である。おなかを壊した旅行者が何かあっさりしたモノをと思い、注文してはまるケースが少なくない恐ろしい食べ物である。最初この上に鷹の爪がこれでもかという具合に敷き詰められて出て来る。写真はそれを取り去ったところである。もちろん辛くないわけはない。というか、恐ろしく辛い。なぜこんなものを四川人は好んで食べるのか、北京人は不思議に思ったそうだが、今では北京人も辛いもの大好き民族になってしまっている。すでに麻婆豆腐のみならず水煮牛肉(もちろん牛肉の水煮ではない!)を食したあとにさらに水煮魚を食べようとする我々も他人のことをとやかく言えない。ただ、辛い中に不思議な清涼感があり、一度食べるとまた食べたくなる魔性の味がそこにある。ちなみに、この水煮なんとかというメニューは日本では滅多にお目にかかれない。普通の日本人はこの辛さがなじまないせいなのだろう。ならば、それを嬉々として食らう我々は何者なのであろうか。
水煮魚
 
 三日目は一転して莫斯科餐庁(西城区西直門外大街)で西洋料理のフルコースとあいなった。この店は1954年開業のロシア料理の老舗で、北京展覧館の西側に付設されている。「」とはモスクワのことである。Oさんの子供時代、唯一開業していた西洋料理店であり、Oさんはお父さんとよくこの店で食事をしたとのこと。中国の人たちにとってもノスタルジアを感じさせる店なのであろう。重厚な白亜の大理石がくまなく敷かれた店内では時代を感じさせるウェートレスがメニューを運んでくる。1人前200元のコースは、オードブル、ボルシチ、魚のグラタン、ビーフステーキ、アイスクリームのデザートであり、なぜか白く四角い日本風の食パンがついてくる。味はさほど洗練されてはいないが、ソ連との蜜月時代の雰囲気をそこはかとなく感じさせる。それにしても量は半端ではない。大柄なロシア人はこれくらいでないと満足しなかったのであろうか。
 


           
莫斯科餐庁       
       
大正期を思わせる服務員
 
 四日目の夕食の選択は筆者に委ねられた。京菜、川菜、俄菜と来たので、別な地方の料理もいいかなと思った。そういえば、無名居(海淀区高粱橋斜街)が現在のところに移ってからまだ行ったことがなかったのを思い出した。無名居は周恩来が国賓を宴に招く際に起用したコックが開いた店で、江南の味を主体とする周恩来好みの極めて上品な味付けを基調としている。久しぶりに味わった料理は砂鍋獅子頭(エビや鶏肉のすりみ団子スープ)をはじめとしてどれもみな変わらぬ奥深さがあった。江南菜だけあって、この季節、陽澄湖のカニがメス1匹98元で提供されていた。金さえあれば北京で本物の上海ガニが食べられるようになったことを示すものである。幸い皆さんこの店を気に入っていただいたようであり、筆者としても面子を保つことができた。感じがよい上に美人ときたウェートレスがアテンドしたのがさらなる相乗効果をもたしたようである。一緒に写真に納まってもらった。ただし、写す側が緊張のあまり手ブレを起こし、写真はピンボケのため誠に残念ながらここに掲載できない。イヤ〜、残念、残念。
無名居

 以上が今回の夜のディナー≠ナある。もっとも、正確にいえば初日には北京ダックの後、二次会と称して性懲りもなく東直門の繁華街に繰り出した。東直門一帯は「鬼街」といわれ、庶民的な食堂が軒を連ねて賑わいを呈している。「六本木」なんていう怪しげな飲み屋もあるが、ここでもまた四川系の料理が主流をなしている。そのうちの一軒「川小妹子」という小野妹子みたいな名前(四川の少女ということか)の店に誘われるままに入ってみた。「秘制麻辣小龍蝦」という真っ赤なメニューが目に飛び込んできた。怪しい。辛そう。“秘制”にはなぜか隠微な響きがある。果たしてどんな味か。みなの好奇心は異常な高ぶりを見せた。しばらくすると洗面器一杯にイセエビとはだいぶ違うザリガニが唐辛子で真っ赤に染まって登場した。さすがに看板料理だけあって、他にない味だったが、「麻辣」はすべての食材の味を一つに統一してしまうキライがある。仮にイセエビでもきっと同じ味になると確信する。店を出る際、もう一つの自慢料理に「麻辣蛙仔火鍋」なるものがあることを知った。写真ではよくわからぬが、真っ赤に染まった唐辛子スープの海の中に蛙が三匹そのままの姿で平泳ぎしている。まあ、よほど食うものに飽きたら挑戦してみたいと思う。
秘制麻辣小龍蝦 麻辣蛙仔火鍋

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  話の順序が逆になったが、朝食のことについて書く。朝食はすべて賽特飯店の近くの二軒の店で済ませた。一軒は渝品楼餐庁といった。「成都小吃」の看板のもとに軽食を出すチェーン店で、麺類やワンタン、ビーフンなどが簡単にかつ安く食べられた。筆者が坦坦麺を注文したら、他の人からは朝からよくそんなものが食えるなという顔をされてしまった。その昔、上海で同じく朝に田うなぎ麺を注文してS氏から顰蹙を買った覚えがある。いいのだ。朝は食欲だ。元気をつけなければ中国では生きていけない。
 
渝品楼餐庁

 もう一軒は僑苑酒家といった。一見ヨーロッパのカフェのようだが、朝は定番の粥、包子、油条などを提供する。この店に従業員募集の広告が出ていた。この中で、「伝菜員」「配菜」「打合」は何を意味するのだろうか。「伝菜」は注文をとることか。ならば、「配菜」は料理を出すことか。「打合」がよくわからない。『漢語大詞辞典』によれば、「そそのかす」とか「あおる」とかの意味があるようなので、そこから推測すれば「よびこみ」なんかになるのかもしれない。少なくとも「洗碗」(皿洗い)よりは地位が上のようだ。人手が余っているのであろう。それぞれ給料にどれくらい差があるのか、ぜひ知りたいところである。



          
僑苑酒家  従業員募集の招聘
 結局朝食はこの二軒の店で交互に取ったことになる。野村克也がかつて阪神タイガースの監督をやっていた時、遠山と葛西という左右二人の投手を片方に一塁を守らせて代わりばんこに用いるという奇策を弄したことがあったが、それと今回のこととは全く関係ない。

 次に昼食のことについて書く。昼食に関しては、調査の関係もあって、図書館近辺の名もない店で済ませることが多かった。 

 湘愛湘菜館は沙灘の近く五四大街にある湖南風味の店。最近、湖南料理の店はすべからく毛沢東にちなんで毛家菜の看板を出しているが、この店も例外ではない。毛家菜とは毛沢東が好んだ湖南の田舎料理を指す。毛沢東となんらかの関係がなければ店を出してはいけないことになっているはずだが、このごろでは湖南料理=毛家菜の様相を呈してきた。同じ湖南出身の曽国藩があの脂ぎったコテコテのなんか食べるはずがない。公衆便所が隣にある店なんて見たことがない。なんてぶつくさ言いながら結局入ることになったのだが、店内は広く、意外なことに清潔で、値段の割に美味ときたため、最後は「毛主席万歳」になってしまった。湖南の田舎料理は四川料理同様、唐辛子をふんだんに用いるが、四川料理と違って「麻」、つまり山椒の痺れ感覚がなく、その代わりにニンニクとラードによるしつこさが身上である。江青は毛沢東と食事のことでしばしばトラブったそうだが、いくら美味とはいえ毛沢東の顔も三度、上海の映画女優がこれを毎日食わされたとあってはたまらないであろう。こればかりは江青の気持ちもわからぬではない。
湘愛湘菜館
  
 同じく沙灘にある故園紅という、も少しこぎれいな店については、何を食べたかをほとんど覚えていない。家常菜(家庭料理)を注文し、そんなにまずくはなかったと思ったが、記憶が飛んでいる。可もなく不可もなくだったのかもしれない。
故園紅

 
 その近くの紅墻飯店という西安交通大学が経営する小さなホテルには何かまともなものが食べられるかもしれないと思って入ったのだが、意外にも立派なホテルで、宿泊代も立派なら、食事代も立派だった。なにゆえ西安にある大学が北京でホテルを経営しているのかわからないが、ともかくまあまあ流行っている。ここでもなにか西安風味の料理を食べたはずだが、それが何であったのか覚えていない。食後のコーヒーを同じホテルで飲んだ。コーヒーも中国人の食生活に次第に定着してきつつある。もっとも、その値段はさっきシコタマ食べた昼飯と同じだった。コーヒーが破格に高いのか、はたまた昼食が破格に安いのか、議論の余地がある。

 昼食で唯一行った有名店は大三元酒家であった。この店は北京では珍しい広東料理の老舗として知られている。北京では本来濃い味が好まれ、薄味の広東料理はあまり人気がなかったようだ。そのため老舗は北方系に限られ、大三元は孤軍奮闘の感があった。しかし、最近では広東料理店も珍しくはなくなった。というか、やれフカヒレだとか、アワビだとかを売り物にする新興の高級料理店が幅を利かせるようになった。そのため、この店も厳しい状況に置かれている。昼食にこの店を選んだのは、中国国家図書館分館の近くに適当な店がなかったからに他ならない。4人で入ると、真四角なテーブルに通された。一瞬雀荘にいるような気分になったが、錯覚だった。久し振りの店内は明るく清潔で、老舗の割には「落ちぶれ感」がなかった。年配客の中には日本語を話す人
たちが多かった。思うに、日本で募集する北京フリーツアーなどのガイドブックにこの店が紹介されることが多く、濃い北京の味が苦手な高年齢旅行者が好んで訪れる代表的な店なのであろうか。値段はかなり高いが、味は落ちていない。日本人に好まれる店として命脈を保っているのかもしれない。
 
大三元酒楼
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 餐庁情報以外で言い残したことを以下にまとめる。といっても、別段突拍子もないものはない。強いてあげれば、右のようなペアルックか。一着を二人で着る画期的なアイデアだとは思うが、日本では絶対流行らないと断言できる。

 友諠商店は相変わらず営業しているが、最近とみに国営ぶりを発揮してきたように感じる。客も心なしか少なく、店員は手持ち無沙汰である。だったら少ない客を接待したらよさそうなのだが、それに対してもあまり熱心でない。要するに商売っ気がないのである。この点、いまどきの民間のデパートの店員は大違いである。買う気の全くない客をあの手この手で攻めまくり、ついに陥落させてしまう。我々としては干渉されないのが一番であるが、無視されるのもなんだかさびしい。80年代を象徴する「友諠商店」という名称が消えるのもそう遠くない気がする。
 
 今回訪れた唯一の観光地は景山公園であった。景山は故宮博物院の北側にある小高い丘で、上に登ると故宮が一望できる。暫く来たことがなかった。今回も意識的に来たわけではなく、夕方時間が余ったからに他ならなかった。観光地だけに、リンタクの客引きが多い。「俺たちはここに来て、今から景山に登るのだ!」と何度も言っても、リンタクに乗らないかとしつこく迫ってくる。「そんじゃまあ、リンタクで景山に登ってもらおうか」と喉まで出かかったが躊躇した。本当に登りかねないからである。
中国版色式一様的服装

 景山のふもとに明朝最後の皇帝である崇禎帝が首をくくって自殺した場所がある。現在そこには立派な石碑が建てられている。
「崇禎帝は一人の宦官だけに見取られて自殺したそうだが、その宦官は当時の儒教官僚の誰よりも忠義の臣だったわけだ。当然殉死したんだろうね」
「それならばその宦官を顕彰する石碑があるはずだが、ないね」
「ひょっとしたら、この宦官は殉死しなかったんじゃないか」
「え!?どういうこと?」
「つまりだ。彼は、皇帝が死んだことを見届けて、その場を立ち去ったということだ」
「だから?」
「皇帝の服は高く売れるだろう。彼はきっと死体から衣服を剥いで持っていったのだよ」
「なるほど。わかんないもんだねえ」
断っておくが、上の会話はいずれも実証研究を重んじるれっきとした歴史研究者の間で交わされたものである。かくして「忠臣」は冷酷で貪欲きわまりない「宦官」なってしまったのだが、はたして真相はいかに。実はこの宦官、名を王承恩といい、崇禎帝が自殺したすぐあと、自らも首をくくって殉死ことが『明史』の列伝に記されている。また北京郊外にある明十三陵の崇禎帝の墓の横に彼の墓が設けられている。340年前の「忠臣」に対し不謹慎な言動が会ったことをお詫びして訂正し、ここに名誉回復することを誓いたい。         
崇禎帝最後の場所
     
 一日時間が空き、フリーになったので、北京大学で研修中の同僚Yさんを尋ねることにした。Yさんは日本儒教を研究する教育学者で4月から交換訪問教授として単身北京で暮らしている。宿舎は筆者が1994年に7ヶ月間住んだ勺園5号楼であり、Yさんの部屋の真上に筆者の部屋があった。一人暮らしには贅沢なというよりははっきり言って無駄に広い部屋の様子も全く変わっていない。変わったといえば、Yさんはパソコンの回線を使ってテレビ電話で日本にいる家族とコミュニケートしていることである。E-メールは無論存在せず、せいぜいテレホンカードで日本と交信するのが関の山だった10年前に比べるとこの方面の発展は目を見張るものがある。

 北京大学でもう一つ変わったこととしてあげねばならないのは構内にコンビニができたことだろう。「物美便利超市」といい、生活物資から、輸入食料品、果ては薬まで売っている。もちろん北京大学のロゴ入りグッズもしっかり備わっている。北京大学はこれまでおびただしい数の外国人留学生を勺園に住まわせてきたのに、どうしてこのような店ができなかったのか不思議で
ある。これならば、わざわざ街の中心に行って買出ししなくとも済むのだが、以前1時間で行けた街の中心まで今は交通渋滞のために2時間近くかかることを思えば、こういった店も時代が生んだ異端児なのかもしれない。
北京大学コンビニ


 さらにもう一つ変わったことは、中国人学生食堂が新装になったことである。その昔、中国人学生の生活環境は劣悪だった。なかでも食堂は暗く汚くじめじめしていた。だから、飯時になると彼らは洗面器のような琺瑯の食器2つを食堂に持って行き、ご飯とおかずをもらってくることが常だった。もちろん、外国人留学生の食堂に比べれば格段に安かったが、外国人留学生はあまりそこでは食欲を湧かせなかったようだ。それが時代は移り、人は去り、いまや中西食堂も顔色ない立派な食堂に変身した。カウンターにはなんと山東、江蘇、福建、四川、広東など、地方によって選べるメニューがおかれ、全国各地から集まってくる学生の好みに合わせる料理が提供されていた。

 北京大学歴史学系が今年で105周年を迎えることを示す横断幕がキャンパスに掲げられていた。北京大学の先生方も最近ではマイカー族が多くなったと聞く。幾多の歴史を見守ってきた北京大学もこの10年間の変化にどう対応しているのだろうか。
北京大学中国人学生食堂


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 本日は10月1日、国慶節である。スモッグのせいでどんよりしていた空も、今日ばかりはカラっと晴れ渡った。だが残念。本日はどうしても帰国しなければならない。

 今回王府井にまだ一度も行っていないことに気がついた。北京に来たら、まずは王府井である。王府井が「中国の銀座」だといわれて久しい。ちなみに1984年に出版された『地球の歩き方《中国自由旅行》』初版本(ダイヤモンド・ビッグ社)には次のように書かれている。「王府井の街は北京のショーウィンド、つまり北京銀座だ。地方から上京の客、外国人観光客の街だ。北京飯店の東側から北にのび華僑大厦で終るが、その間、北京第一百貨店や毛皮などを売る高級品店、外国メーカーの時計店などがあり、上海、広州以外ではこれほど外国製品や高級品のある街はない」。だが、20年前は通りも狭く、店も少なく、日本人は誰一人としてこれを「銀座」とは認めなかったのではないか。それが近年なが〜い工事の後、大変身を遂げ、「銀座」らしくなった。安物バラック市場であった東安市場(文革中に「東風市場」を改名)の場所には「新東安市場」という馬鹿でかいデパートが造られた。もう「百個しか物を売らない」百貨商店は消えうせた。
北京第一百貨大楼の変貌 1982年      北京第一百貨大楼の変貌 2003年
北京第一百貨大楼の変貌 2004年



(2004年9月26日―10月1日取材、10月27日記))



 北京餐庁情報六編(2002年)
 北京餐庁情報七編(2003年)
 北京餐庁情報八編(2004年)