05/02/09
 古代チベットと敦煌−チベット史・敦煌史における古チベット語文書の利用−
 
岩尾 一史
 755年に始まる安史の乱により、唐朝の中央アジア支配時代は終わった。代わって彼の地に勢力を伸ばしたのが古代チベット帝国、吐蕃である。その支配地はウイグルとの争いに敗北したことにより天山地方までには到らなかったものの、河西回廊諸都市からタリム盆地南側諸都市の支配は、9世紀半ばのチベット内乱までの間保持されたのである。チベットの支配は支配下各都市の社会・文化に大きな影響を与え、支配脱却後も旧領域内ではチベット語が国際共通語としてのみならず私的コミュニケーションの手段としても使用され続けた。

 中央アジア地域を含む広大な領土を治めるために古代チベットがどの様な支配体制をとっていたのか、それが筆者の関心事である。古代チベット史の基本史料は主に13世紀以降に成立したチベット語文献、『旧唐書』・『新唐書』に代表される漢語文献、若干のイスラーム文献、また同時代史料としてチベットに現存する碑石、そして敦煌を含む中央アジア出土文書に分けられる。チベット語文献、漢語文献の2史料群が主にチベット史の大きな流れを叙述するのに対し、中央アジア出土文書により得られる情報は時として局所的かつ微細である。しかし、それら断片的情報の集積はチベット語文献、漢語文献では得られないような具体的かつ詳細な事実を浮かび上がらせる。

 さて、チベット支配下にあった中央アジア諸都市のうち、最もその内実を知る事が出来るのは敦煌であろう。コータン地域、ロプ地域で発見されたチベット語文書が多くの場合断片であること、また主な発見地がチベットの軍事要塞跡であることから残存文書の種類に幾分偏りが認められることに比べ、莫高窟第17窟に発現した敦煌文書は格段に完存率が高く、また内容もチベット中央政府の公文書から写経生の落書きの類に到るまで多岐に亘る。またそれに加え同時期の漢語文書も存在する。様々なレベルの文書が残る敦煌は、チベット支配下の一都市の実態を知る上で格好のサンプルなのである。

 しかし、チベット史研究者による中央アジア研究、特に敦煌研究は、実は少ない。最近まで文書の公開が進まなかったことがその一要因であるのも確かであるが、恐らくより大きな要因は、今までのチベット史研究の主要な関心がチベット中央のみに向いていたことにある。チベット史研究の文脈で利用されてきた文書史料は、いわゆる『編年記』、『年代記』、『王統表』([Bacot et al. 1940])に代表される中央の事情を直接伝える文書が中心であり、それらはチベット中央の歴史を解明する一手段として捉えられてきたのである。文書をチベットの周辺地域(つまり中央アジア地域)自体の研究に用いたのは、トーマス著『中国トルキスタン関係チベット語文語文献及び文書』([Thomas 1935-1963])の第2巻がある位であった。注1

 一方、チベット支配期の敦煌研究を担ったのは主に中国史をフィールドとする研究者である。考察の主たる対象は敦煌自体であり、チベットはあくまで二次的な考察対象となる。その場合、主史料群は漢語文書であり、しばしばチベット語文書史料群は補助的な役割を有するに過ぎなかった。例えば[藤枝 1961]はチベット支配期の敦煌を扱った研究のうち最も優れた成果の一つであり、漢語・チベット語両方を利用しているとはいえ、依拠史料の重心はやはり漢語文書側にあった。上のような研究史の結果、相当数の敦煌古チベット語文書はチベット史、敦煌史両分野の狭間に置かれる格好となったのである。

 1978、1979年の『フランス国立図書館所蔵チベット語文書選集』(Choix 1, 2)の出版は、こういった研究状況を変えるきっかけとなった。この選集は古チベット語文書に多くの未読重要文書が存在していることを研究者に知らしめ、我が国では早速山口瑞鳳氏の利用するところとなり [山口 1981; 1985]、また中国では王堯、陳践両氏がChoix収録中の重要文書の訳注をいち早く試みている[王・陳 1983a; b; 1988]。

 1990年代に入ると古代チベット史研究者自体の数が減少してしまい文書研究も漸減したが、古チベット語研究をめぐる環境自体は改善されつつある。文書の公開についてみると、いまや世界中の古チベット語文書コレクションは何らかの形でカタログ化されつつある。武内紹人氏が1995年までの状況を[Takeuchi 1995 p.2 n.3]にまとめているが、その後の公開の動きを補足すると、大英図書館所蔵の敦煌を除く中央アジア出土古チベット語紙文書は、写真にテキスト、音節索引が付され出版された[Takeuchi 1997-1998]。また、大英図書館のInternational Dunhuang Project(IDP)にてスタイン蒐集中央アジア出土文書がオンラインにて順次公開されつつあることは周知であるが、そのうち古チベット語木簡は最も公開に向けての作業が進んでいると聞く。スタイン蒐集チベット語文書は全てIOL Tibではじまる新番号が付け直されることになったが、整理を担当した武内氏がスタインのサイトナンバーとの対照表を公開しているので[武内 2003]、IDPにて検索する場合は拠るべきである。チベット語文書コレクションではロンドンと双璧をなすフランス国立図書館でも、現在デジタル化・オンライン公開が計画されている。また中国のコレクションの全容報告については[van Schaik 2002]が出た。

 史料状況のみならず、古チベット語自体の研究も進展した。古チベット語には特有の術語・文法が多く解読にはしばしば困難を伴う。しかし金石史料の研究注2、手紙文書の研究[武内 1986]、契約文書の研究[Takeuchi 1995]など同系統の史料による用例収集・解析により、多くの術語が意味確定されている。さらに最近、音節索引が充実してきた。今枝由郎氏により推進されるChoixシリーズは、第3巻以降重要文書の音節索引として出版されているが、この動きを統合し推進するプロジェクトプロジェクトOld Tibetan Documents Online「古代チベット語文献オンライン」(星泉氏代表)が進行中である。これは古チベット語校訂テキストを電子化して公開し、ウェブ上にて全文検索することを目的にしており、既にChoix3,4所収のテキスト24点を始めとした文書及び金石史料のテキストが公開されている。Choix以外では、 [Takeuchi 1995]や[Takeuchi 1997-1998](Supplement to volume 2)にも音節索引が付されており、参照すべきである。

 かかる史料状況のもと、チベット史研究において中央アジア出土史料を利用した研究、特に敦煌研究は今後ますます必須課題となろう。漢語文書を利用した研究が比較的進展している現在、研究の更なる進展・深化の鍵はチベット語文書研究の側に在る。

(日本学術振興会特別研究員(PD))

−注釈−
注1大英図書館所蔵古チベット語文書に基づいた研究で、敦煌についても多くの頁が割かれている。第3巻(1955)には語彙索引が、第4巻(1963)には固有名詞索引があり便利。
注2代表的な研究に[Tucci 1950]、[王 1982]、[Richardson 1985]、[Li and Coblin 1987]がある。

−参考文献−
[Choix] Choix de documents tibéains conservés à la Bibliothèque Nationale,
Tome I-IV, 1978-2001. Tome I-III: Bibliothèque Nationale, Paris. Tome IV: Bibliothèque Nationale, ILCAA/Université des langues étrangères de Tokyo, Tokyo.
[Bacot et al. 1940] Bacot, J., Thomas, F. W. et Toussaint, Ch., Documents de Touen-houang relatifs à l'histoire du Tibet, Libraire Orientaliste Paul Geuthner, Paris.
[Li and Coblin 1987] Li Fang-kuei and Coblin, W. S., A Study of the Old Tibetan Inscriptions 『古代西蔵碑文研究』, Institute of History and Philology Academia Sinica, Taipei.
[Richardson 1985] Richardson, H. E., A Corpus of Early Tibetan Inscriptions, Royal Asiatic Society, London.
[van Schaik 2002] van Schaik, Sam, "The Tibetan Dunhuang Manuscripts in China", Bulletin of the School of Oriental and African Studies 65-1, pp.129-139.
[Takeuchi 1995] Tsuguhito Takeuchi, Old Tibetan Contracts from Central Asia『中央アジア発現古チベット語契約文書』、大蔵出版、東京.
[Takeuchi 1997-1998] -, Old Tibetan Manuscripts from East Turkestan in the Stein Collection of the British Library, the Centre for East Asian Cultural Studies for Unesco, Tokyo. 2 vols, supplement to volume 2.
[Thomas 1935-1963] Thomas, F. W., Tibetan Literary Texts and Documents Concerning Chinese Turkestan, 4 vols., Royal Asiatic Society, London.
[Tucci 1950] Tucci, Guiseppe, The Tombs of the Tibetan Kings, Is.M.E.O., Roma.

[武内 1986] 武内紹人「敦煌・トルキスタン出土チベット語手紙文書の研究序説」、山口瑞鳳(監修)『チベットの仏教と社会』、春秋社、東京、pp.39-51.
[武内 2003] - 『中央アジア出土チベット語木簡の総合的研究』(平成12〜14年度科学研究費補助金(基盤研究(C)(2))研究成果報告書)附List of Woodslips in the Stein Collection.
[藤枝 1961] 藤枝晃「吐蕃支配期の敦煌」、『東方学報』第31冊、 pp.199-292.
[山口 1981] 山口瑞鳳「漢人及び通頬人による沙州吐蕃軍団編成の時期」、『東京大学文学部 文化交流研究施設研究紀要』第5号、 pp.1-21. 
[山口 1985] - 「チベット語文献」、山口瑞鳳(編)『講座敦煌6 敦煌胡語文献』、大東出版社、東京、pp.449-555.
[王 1982] 王 堯『吐蕃金石録』、文物出版社、北京.
[王・陳 1983a] 王 堯・陳 践『敦煌吐蕃文献選』、四川民族出版社、成都.
[王・陳 1983b] - Tun hong nas thon pa'i gna' bo'i bod yig shog dril、民族出版社、北京.
[王・陳 1988] -『敦煌吐蕃文書論文集』、四川民族出版社、成都.