『九葉読詩会』 創刊号 (佐藤普美子主編,2004年5月)初出。
 最近出会った「詩人」のこと
  
 
尾崎 文昭

 最近出会った特異な「詩人」のことを書きとめておこう。

 「詩人」とカギ括弧を付けるのは、彼が詩作を自己の主要な活動とはしていないけれども、やめてはいないらしく、かつ、その成功が詩人気質に多く因るものであるらしいからだ。

 一九七一年三月生まれ(「七十年代生」世代)の彼、沈は北京大学中文系の八八年級の学生で、その才華を「北大七才子」の一人として讃えられ、学生同人誌『啓明星』に青春詩情あふれる流麗な詩を書いた。「燕子合唱隊」とか「麦地七首」とか。ときには校内放送で朗読されることもあったという。また、とびきり美人で才華ある下級生と恋愛をして「金童玉女」と讃えられたという。彼もまた、とびきりの美男子であった。

 この冬、劉小楓氏を訪ねて広州に行ったとき、劉氏の宴席で彼に会った。劉氏は「靚仔(ハンサムボーイ)来了」と言って紹介してくれたのだが、そのハンサムぶりに同席したわが妻はあっけにとられたという。丸型の童顔、杏の眼は目尻が切れ込んでいて、どう見ても二十代、中国の才能あふれる人には珍しいシティボーイである。

 名刺をくれたが、それには「21世紀報系発行人」とある。広州の南方日報報業集団に属し『21世紀経済報道』および『書城』の発行人をしている。「発行人」とは何か。日本では社長に当たるが、こちらでもそうかと問うと、はにかむようにしながらそうだという。あとで調べると、編集はもとより、戦略・広告・財務・運営・人事すべてにわたって指揮を執り責任をとる職種で、日本でいえば綜合プロデューサーと言うべきか、支社長、部門部長というべきか。香港・中国映画で言う「出品人」を思い出す。

 その職責の大きさと、目の前の若者イメージとの落差に目がくらんだ。まだ三十二才なのだ。

 月刊『書城』は発行は上海三聯書店だが、運営編集をすべて彼が請け負っていて、彼が編集を始めてからは急速に評判を上げ、書評・文化誌としては、老舗の『読書』に追いつかんばかり。そのおしゃれさ加減は『ニューヨーカーズ』に似ていると評されている。彼は、これまたこじゃれた詩集をくれたが、それは『書城』に掲載された詩を集めたもので、用紙裁断の余りで作ったのだという。詩への愛着は未だに強いと見える。

 『21世紀経済報道』は、二〇〇一年に正式発刊した全国型経済専門紙で、当初は週刊、〇三年から週二回刊。二、三年で、発行数四十万部を越えて、全国二位にのし上がり、近年発行の新型新聞の成功例としてもてはやされている。彼はその発刊当初からの責任者で、設計は彼の手になると思われるが、アメリカの新聞風のスタイルで(『ウォール・ストリート・ジャーナル』を模しているとの評あり)、綿密でハイブラウな記事と分析を売り物にして、高級ホワイトカラーに食い込んでいるという。

 この二つの雑誌と経済紙との総括をしているのが、この彼なのである。

 しかし、彼の名を上げたのは『城市画報』の大成功であったらしい。九十年代中国を代表する週刊誌『南方週末』の主要メンバーを勤め、筆禍にあって外されたあと(九九年一月)、長い歴史を持つ(すなわち活気のない)『広州画報』を全面的に改組し『城市画報』と名を改め(九九年一〇月、隔週刊)、「楽しくやろうぜ」をスローガンにして、一年余で、大都会の新しい生活・文化・趣味・娯楽(「小資生活」とか「小資情調」と呼ばれている)をリードし、発行部数二十万を越える、若者にもっとも歓迎される雑誌に育て上げた。今や「都市生活新潮流のリーダー」を自認している。その後に現れた類似の雑誌と異なるのは、流行を追うのではなく、トータルな生活文化美学を自らの享楽的で都会的な感覚で開拓し、それを伝道しているという点にある。彼が直接編集を担当した時期(〇一年三月まで)は、毎号に「巻首語」を書いていて、その詩的なエッセイは多くの崇拝者を獲得することになった。最近、それをまとめて、夫人莫小丹の挿絵付きで『熱愛』(四川文芸出版社、二〇〇三年九月)という本にして出している。莫小丹は『書城』の表紙もよく描いていて、現代イラストの風である。

城市画報 書城

 最後に、そのエッセイの一つを訳出してみよう。表題は「冬」、広州を描いている。

☆  ☆  ☆

 「冬」はこの都市(まち)の最も微量な元素。それがこの都市の上空を掠め去るとき、最も鋭利な眼にしか、都市にもたらす微妙な変化を捉えることはできない。南中国のこの都市、表面上はいささかの動きもない。しかしその複雑な経脈は、毎年のある時に確実に数秒止まる、或いは錯乱する。その数秒、親指ほどの長さしかないが、一つの都市の運命を変えるには十分だ。

 だから、「冬」はこの都市において虚詞あるいは形容詞として使われる。南方の者が口の端に載せるとき、きまっていくらかの敬意を払う。冬、なんと神への祈りの別称のようではないか。

 そこで、冬を売る者が現れる。冬にはほんとに出会えないのだから。都市に住んで一生、冬のうぶ毛一本にすら触れたことがない人もいる。ほんとに残念なこと。そこで冬を売り歩く者がやって来て冬の物語を話りだす。ちょうど海の中の人魚、数年前の流れ星、異象を語るように。(中略)

 北方では、冬は家庭主婦と並び称される最重要の主語。冬が都市全体をたたきに叩いて人々がふぬけになっているとき、南中国では、きまって一時的侵略者の姿で現れ、たちまちのうちに去っていく。ただこの都市の魅力を引き出すだけのために。その意味では、それはより第三者*に似ている。

 私はこの都市が好きだ。空気の中に初めてオレンジ色の細菌が広がるとき、私は知る、冬はもう来ていたのだと。

[*注:第三者=夫婦・恋人の間に割り込む第三の恋人]