書き下ろし
 インドの古本屋さん追想記
  
 
中里 成章

 どういうわけか20年前の船荷証券のコピーがひょっこり出てきた。5年留学したカルカッタから引き揚げる際に、本を船便で送ったときのものである。荷物の個数は5個、重量は合わせて1,800キロとある。このご大層な荷物が横浜に到着したという連絡を受けたとき、かつかつの生活にあえいでいたことを思い出す。業者に頼んで配送してもらうお金など家の中のどこを探してもないので、カルカッタで知り合った友達に加勢してもらい、レンタカーを借りて直接本牧埠頭の倉庫まで引き取りに行ったのだった。不思議なもので、巨大な倉庫の中に連れて行かれて戸惑う私たちに、ほら、あれですよ、と係の人が荷物を指さしてくれたときのことは、今でも昨日のことのように思い出すことができる。

 カルカッタに留学する場合、2年、3年は序の口、4年、5年で一人前という時代があった。1970年代から80年代にかけてのことである。そういう変わり者同士で話す場合、本のことに話題が集中することがある。本と言っても、内容を問題にするのではない。まずは、どれだけ本を買ったか、量を競うのである。その場合、単位はもちろん冊数などではない。キロでもない。トンである。私の場合は、5年で1.8トン。上には上があるのだが、悪い成績ではないと思っている。そうするうちに話題は、古本屋さんのことに移っていく。例えば古本の値段の話。露店でいい本をただ同然で買った自慢話等々、お金にまつわる話は尽きることがない。あるいは古本屋さんの人柄の品定め。あの人は男気があって、インド人の研究者には安く本を売っているとか、逆に、暴利をむさぼって恥じない嫌な奴だが、ともかくいい本を沢山もっているので行かざるを得ないという恨みごととか、まるで町内の日本人を語るように、遠いカルカッタの古本屋さんのことを語って飽きることがない。そうしていると気分が乗ってきて、本の中味なんかどうでもいいや、という気持ちになってくる。こうした病膏肓の世界のことを公開するのはどうかと思わないではないが、因縁浅からぬセンターからの注文である。インドの古本屋さんにまつわる思い出話を少しさせていただきたいと思う。

 ところで、なぜカルカッタ留学組が揃いも揃って、おかしな世界にのめり込むことになったのかというと、理由は簡単で、それはカルカッタが長い間インドの出版と古本取引の中心だったからである。活版印刷が導入されたのはマドラスの方が早かったのだが、カルカッタは植民地支配期を通じてインドの出版活動の中心であり、そういう時代は独立後の1980年代まで続いた。私たちは、一世紀半余り続くカルカッタの出版と古本の黄金時代の、最後の輝きを見たことになるようなのである。そういう土地柄のせいか、カルカッタの知識人の間には昔から、本の収集に情熱を傾ける人がかなりいたようで、例えば19世紀の半ばに活躍したサンスクリット学者にして社会改革家のビッダシャゴル(ベンガル語読み。サンスクリット読みはヴィッディヤーサーガル)の蔵書は有名だった。この人が使ったクラシックな本箱とテーブルは、ベンガル文芸協会の博物館に保存されていて、今でも見ることができる。逆に、人が苦労して手に入れた本を借りて返さない不届き者も昔からいた。たとえば、ビッダシャゴルが大切にしていた本を借りて返さなかった男のことがある本に出てくるが、文脈を辿っていくとどうもこの人は、ベンガル語の近代詩の父ともいうべきマイケル・モドゥシュドン・ドットのようである。そして80年代までは、カルカッタの古本の流通量は豊富で、手元不如意の留学生でも、自分の専門に関わる古本はもちろん、19世紀の初めに出た見事な紙に印刷された本とか、タゴール家の蔵書票が貼ってある美麗装幀本とかを、すこし無理をすれば買うことができたのである。そんな贅沢をちょっぴりしてみたり、19世紀ベンガルの大知識人のエピソードを聞きかじったりしているうちに、いつの間にか病膏肓に入っていくのが、カルカッタの古本の世界のようである。

 ところで肝心の古本屋さんのことだが、カルカッタが坂道を転がり落ちるように衰退し始めるのは60年代のことである。間違っているかもしれないが、この60年代から70年代を境にして、カルカッタの古本の世界がかなり変わったような気がしている。私が留学したときには、古き良き時代の面影を残す古本屋さんが一軒だけ残っていた。「クマールズ」(Kumars)というお店である。記憶に間違いがなければ、この店は、カルカッタ中央部の南東寄り、ローワー・サーキュラー・ロード(Lower Circular Road)の側からヨーロピアン・アサイラム・レーン(European Asylum Lane)あるいはリポン・ストリート(Ripon Street)に入ってすぐ左手の大きな建物の一階にあった。一昔前に有名な古本屋さんだったことが新聞に紹介されているのを見て、それっ、というので駆けつけたのだった。店と言っても、通されたのは20畳ほどあろうかという立派な応接間で、ガラス戸付きの書架がぐるりと周りを取り囲み、その中には背革装金文字入りの本がずらりと並んでいた。ご主人はもう亡くなっていて、奥様が相手をして下さったのだが、昔はカルカッタ大学の先生方を初めとするベンガルの知識人がこの応接間のソファーに坐り、お茶を飲みながらゆったりと本を選んだのだという。荒廃した今のカルカッタからは想像もつかないような世界があったわけである。

 カルカッタは骨董品の取引が盛んだったところである。本国に引き揚げるイギリス人が売ったアンティーク家具や、大地主の豪邸を取り壊したときに取り外してきた内装品(私もオランダのデルフトの古いタイルを1枚だけ買ったことがある)、さらにはコインや切手、あるいはSPレコードが売買されてきた。古本の取引も、そういう流れの中に位置づけられた時代があったのではなかろうか。

 今考えてみると、カレッジ・スクェアの北側の路次にあった「シー・オー」( C.O. )という古本屋さんも、昔の古本取引の雰囲気を残した店だったような気がする。カレッジスクェア界隈は、カルカッタ大学やサンスクリット・カレッジ、あるいはプレジデンスィー・カレッジなど高等教育機関が集まっている関係で、本屋さんがやたらに多いところである。日本で言えば、一昔前の神田神保町のような雰囲気を持っている。「シー・オー」の親爺さんは昔気質の商人で、書棚に本を几帳面に並べ、店の床にはチリ一つ残さないような人だった。本のことも実によく知っていた。この店に入ると、神田の古本屋さんを思い出したものである。70年代末に初めて行ったときにもらった目録は、活版で印刷してあった。インドの古本屋さんでは珍しいことなので、どこかに保存してあるはずである。

 お父さんも古本屋さんで、お父さんから仕事を仕込まれて跡を継いだということだったが、「シー・オー」の店主はムスリムだった。インドとパキスタンが独立する前の年の1946年8月に、カルカッタでヒンドゥーとムスリムの大規模な衝突が起こったとき、この近辺ではムスリムの本屋さんがねらい打ちにされ、大通りに本が山積みにされて火が放たれた。路地裏でひっそりと几帳面な商いをしていた 「シー・オー」も、そういう歴史の荒波をかいくぐってきていたのではないかと思う。親爺さんは小柄でやせこけていて、その上に喘息持ちで、日本にいい薬があるはずだと口癖のように言っていたが、80年代の後半に亡くなった。因みに、カルカッタのムスリムは本との関わりが深かったようである。今でもカルカッタでは、製本職人はヒンドゥーよりもムスリムの方が腕がよいとされている。

 インド・パキスタン分離独立時の激動で苦労した本屋さんとしては、「ファルマKLM」(Firma K.L. Mukhopadhyaya)の創業者のことを思い出す。「ファルマ」は80年代初めまでインドを代表する出版社の一つとして名を馳せたところだが、元を正せば古本取引から出発した会社である。ここのご主人は典型的なベンガル・バラモンで、背が高く押し出しのよい人だった。立派なのも道理で、分離独立までは東ベンガルのダッカで官僚をしていたという。ところが分離独立の混乱で、難民としてカルカッタに移住せざるをえなくなり、家族を養うために古本取引に手を染めたのだと聞いている。何気なく売った古本が意外な高値で捌けたのが、きっかけだったそうである。

 分離独立にともなう社会の激動で没落した名家は多く、この時期には彼らの蔵書がどっと売りに出されていた。「ファルマ」の店主は時代の波に乗って産をなしたが、あるときカルカッタ大学の歴史学部の教授と知り合い、この教授のすすめで出版業に乗り出すことになった。この教授の名前はN・K・シンハ。日本の読者はもちろんご存知ないだろうが、カルカッタ大学歴史学部の、つまり大げさに言えば、当時の全インド歴史学界のドンになった人である。なぜN・K・シンハのような有力教授が、出版経験のない古本屋さんに出版をすすめ、自分の代表作もそこから出すようになったのか、聞いたことはない。だが私には分かるような気がする。というのも、これもひょんなことがきっかけで、「ファルマ」のご主人の長女が嫁いだお宅に、一年余り下宿させてもらうことになり、家庭を通じてご主人の素顔を知ることができるようになったからである。

 この人は読書好きの紳士で、またよき家庭人だったようである。本好きであることは、カルカッタの国立図書館の閲覧室で姿をよく見かけたことなどから、日本人の留学生にも知られていたが、お嬢さまによれば、家庭でもそうした姿勢は貫かれていたらしい。子供の本でも何でも、字が書いてあるものは片っ端から読む人だったそうである。そしてグルメだったが気むずかしくはなく、東ベンガルのムスリムの船乗りの料理、つまり下層民衆の料理をわざわざ作らせて食べては、故郷を懐かしむというような、愛すべきところをもっていた。仕事では勤勉そのものだったという。当然のことながら、お嬢さまはお父さまが大好きで、難民から身を起こして、家族のために懸命に働いてくれた父親に対する感謝の言葉を、何度聞かされたか分からない。世の中が安定していれば役人として出世していたかもしれない人が、古本の取引を始め、さらに大学教授に見込まれて出版に進出するというような時期が、インドにはあったわけである。この人はカルカッタ出版界のリーダーとして活躍したが、1980年代半ばに亡くなった。

 カルカッタ以外で印象に残る古本屋さんというと、アフマダーバードの「ニュー・オーダー」(The New Order Book Company)ということになるだろうか。ボンベイと並んでインドの近代綿業の発祥の地とされるこの町は、サバルマティー川によって二分されるが(上流に有名なガンディーのアーシュラムがある)、「ニュー・オーダー」のお店はこの川にかかるエリス・ブリッジという橋のたもとにあった。しかし店舗はあまり使わず、自宅で古本の取引をするのが「ニュー・オーダー」の店主の流儀だった。私もご主人の車に乗せてもらってご自宅まで行き、夕食をご馳走になりながら本を見せてもらったのだった。

 ご主人はインドの古本業界では一目おかれた存在で、噂さに違わず、古本に関する該博な知識を持っていた。古本談義をしてあんなに面白い人には会ったことがない。しかし同時にこの人には、負けん気の強いところがあった。大事そうにして本を出してくるのに対して、それは持っています、と素っ気なく言うと、彼はだんだん熱くなってくるのである。こちらとしては、古本を買うときの駆け引きとして素っ気ない態度を装っているにすぎないのだが、あちらはそうは受け取らない。軽く見られたと思うのだろうか、それならこの本はどうだ、と言わんばかりに、次の本を出してくる。そのうちにどちらがどういう珍しい本を持っているかという張り合いになり、ご主人がアルマリ(鍵がかかるスティール製の戸棚)から出してきたとっておきらしい本に対して、それ、持ってます、と言うと、彼はやおら右手を頭の高さまで上げた。私に向かって敬礼したのである。面白い古本屋さんがいたものである。この敬礼がきっかけで打ち解けた間柄になり、古本で埋め尽くされた倉庫までていねいに案内してもらい、この日は辞去したのだが、これには後日談がある。それは、この優れた古本屋さんの素顔を窺わせるような気がするので、書いておくことにしよう。

 どうも私は気に入られたようで、今度は朝食に招待された。「ルーマーリー・ローティー」(小麦粉を練ったものをごく薄く伸ばして軽く火を通し、ルーマールつまりハンカチのように折りたたんだ一種のパン)が食べられますよ、という願ってもないお誘いである。この「ルーマーリー・ローティー」は今でも思い出すことがあるほど美味しくいただいたのだが、それはともかくとして、この時にも本を見せてもらった。その中にK・T・シャーという経済学者の著書が混ざっていた。私が何気なくシャーの著作に触れ、この人は社会主義者で、独立前にネルーの下で「国民計画委員会」(National Planning Committee)を切り盛りし、独立後に5カ年計画を導入する基礎の一つを据えた人だと言うと、古本屋さんの態度が変わった。彼は身を乗り出して、シャーは自分の「グル」つまり精神的指導者だったという。そして、後年シャーがネルーと対立し、首相になったネルーが設立した「計画委員会」(Planning Commission)の委員に就任するのを拒否した経緯を詳しく話し始めたのである。つまりこの古本屋さんは、少なくとも社会主義に傾斜したことくらいはあった人だということになる。

 今度はこちらが驚いて、話が弾んだのだが、そのうち彼は何気なく、わざわざアフマダーバードまで来たのだから、何かしたいことはないか、助けてあげられるかもしれない、と言い始めた。私もピンと来て、アフマダーバードはインドの綿業の中心地だから綿工場を見学したいのだがとお願いすると、彼はその場で電話を手に取った。インドではときどき経験するパターンである。そうして、外国人を見学させても差し支えないような、労使関係の良好な工場を選ぶのにすこし時間がかかるから、ホテルで電話を待て、ということになった。出色の古本屋さんとはいえ、古本屋さんは古本屋さんである。かつてインド資本主義の屋台骨を形成した業界とツーカーの関係にあるとは、私にはなかなか信じられなかった。半信半疑のまま翌朝出かける支度をしていると、しかし、本当に電話がかかって来たのである。聞いたことのない人の声が、てきぱきと指示を与えてくれる。手続きは何一つ必要がなかった。指定の時間に指定の工場の高い鉄の門の前でオートリキシャを降り、守衛さんに名前を告げると、もうそこには案内の人が待っていた。そして当たり前のように工場見学が始まったのである。私はもちろん古本屋のご主人にお礼を言ったが、さすがに、あなたの正体は、と聞くことはできなかった。全然別の人生を歩んでいた人が、何かのきっかけで古本の取引を楽しむようになったのだろうと想像するしかなかった。そういうふうに思えば、顧客を相手に競争する、あのいかにも素人っぽい商いの仕方も納得がいくのである。この人は90年代の半ばに亡くなったと聞いている。

 この他にも、不自由な足をいたわりながら黙々と働いていた人、数年間めざましい勢いで活躍した後肺病であっけなく亡くなった人、下町のちんぴらのようで油断がならないがどこか憎めない人、いざとなると埃まみれになって倉庫の中を探すのを厭わない誠実な人等々、個性的な古本屋さんの顔が次々に浮かんでくる。しかし昔話はこれくらいにした方がよさそうである。妄言多謝。