書き下ろし | |||
エジプトから本を送る話 | |||
長澤 榮治 | |||
少し前のことになるが、エジプトに留学した誰もが、買った本をどう送るかについて頭を悩ませた。専門分野によっては困らない人もいたかもしれないが、歴史研究であれ、現代研究であれ、いつしかたまってしまった本の山を前にして、ため息をついた方は多かっただろう。もちろん、かんたんに郵送できればよかったのだが、そうではなかったからである。 本を送るのには手間がかかった。郵送する本の全リストを書いて提出する義務があったし、これについて検閲を受けなければならず、またイスラム関係の書籍については、アズハル(スンナ派イスラムの「総本山」ともいえる学院)当局からの認可が必要とされた。こうした規則に加えて、相変わらずのお役所仕事につきあい、時間とエネルギーを消耗するのに、だんだんおっくうな気分になった。 もっとも、かんたんに本を送る方法がないわけではなかった。書籍小包を2キロに正確に計量して作り、とある郵便局に持っていくと受けつけてくれた(本の計量には、昔ながらのバネ量りが便利であり、当たり前だが体重計よりも役に立ち重宝した。本送りの必需品であった)。ただ、そこでの切手の料金は、いささか高いような気もした。窓口の鉄格子の向こうから、いつもにっこりと笑ってあいさつをしてくれる(普通の店ではそのような応対を受けることはない)切手販売のお姉さんにたいする疑いが、頭の隅をよぎらないではなかったが、文句はいえなかった。送った本は、確実に日本に到着したからである。とはいえ、大量に本を送る場合には、ここは不向きであった。 中心街にある大学の構内の郵便局に行って、そこの叔父さんに頼むとそれなりの量の本を送ってくれるという評判が立ったことがあった。帰国をひかえた何人かの留学生が叔父さんに頼んだようである。ただし、なかには帰国して何ヶ月も待っても、収集した本が届かなかったという怖い話を聞いた。その後、この特別ルートは、廃止されたようだ。 こうした状況に対応する奇策として、留学生活の長い友人に教えてもらったのが、ギリシアまで飛行機で持ちだして、そこから船便で送るという方法だった。そのためにかかる一連の費用、アテネとの往復飛行機代と安ホテル代、そして郵送料の合計は、もちろんエジプトから直接送る場合の郵便料金よりは高かったが、たとえば帰国時にアナカン(別送航空手荷物)でかかる料金などよりは安かったように思う。もっともアナカンの場合も、あまりに荷物の中身に本が多いと拒否されるという話も聞いた。 預け荷物のダンボールに加えて、機内手荷物のかばんに運べるかぎりの本を詰め込むと、一度に100キロ以上は持ちだせただろうか。出国には、荷物の検査はなく、ギリシア入国の際の税関でも、本はもちろん問題にはならない。空港から小包専門の郵便局にタクシーで直行すると、さすがに海運の国ギリシア、よくしたもので隣に梱包専門の店がある。その店の「職人」たちが、見事な手さばきで、しかも計量器を用いずに、手にもった感触だけで正確に決まった重さの小包をすぐさま作ってくれるのには、いつも感心していた。アテネへの本運びは、二回目からは飽きてしまったが、アクロポリスなどのアテネ観光も楽しめたし、また陽光の下でビールを自由に飲むなど、カイロでは味わえない息抜きができたのも魅力のひとつだった。 そのうちに、この飛行機よりももっと安い手段はないかと友人たちと考えたのが、陸路でイスラエルまで運ぶというアイデアだった。その頃に考え、かつ実行した無謀な試みのひとつである。当時、カイロとテルアビブを結ぶ定期バスが開通したばかりであり、また帰国する前に、イスラエルとパレスチナ占領地を見ておきたいという考えもあった。今でも多くのアラブの国ではそうであるが、パスポートにイスラエルのスタンプが捺してあると、入国を認められなかったからだ。もちろん、飛行機で行く場合は、ベングリオン空港でスタンプを捺さないでくれと頼むこともできるが、エジプト国境の地名の出国印があれば、それはイスラエル側で捺されたのと同じことである。 しかし、当たり前のことであるが、大量の本が入ったカバンを引きずっている日本人男性の一行が、そうそうすんなりとイスラエル国境を通れるわけがない。特別のテントの検査室に連れて行かれ、それなりの時間がかかる、細かい質問やていねいな荷物検査を経たあと、本の検査が始まった。さすがにイスラエルというべきか、取調官がアラビア語の分かるおじいさんをどこからか連れてきた。そのおじいさんは、やれやれという顔つきで、山と積まれた本を一冊、一冊検査していく。おじいさんが仕事らしい仕事をしたのは、私が持ち込んだなかに、気をつけていたつもりだったが、アラブ連盟発行の『イスラエル社会の宗教問題』という本があって、これが見つかったことだ。ほうれ、こんなのがあるよ、というような表情だったが、持ち込みは許可された。 私たち一行は、本の検査のおかげで、同じバスの同行客をさんざん待たせたわけで、相当にひんしゅくを買っただろう、と思った。しかし、バスに戻って、我々よりさらに一時間近くも、検査のために遅れて戻ってきた人たちがいた。アラビア語を話すようだし、パレスチナ人かとも思ったが、開放的な服装などからイスラエル人、それもおそらく1948年の建国後、正確に言えばエジプトからの大量出国が起こったスエズ戦争、56年以降にイスラエルに渡った元エジプト人のユダヤ教徒の人たちではなかったか、と思う。その後、彼らの問題を研究テーマのひとつに選ぶとは、当時は、考えもしなかった。 ところで、エジプトから本を郵送する手続きがやたらに面倒だったのは、なぜだろうか。政治的な検閲、というのも原因のひとつとかもしれない。とはいえ、政治的に問題がある本は、国内で出版されずに、ベイルートなどで発行され、輸入されて比較的自由に入手することができたし、これだけが原因とは思われない。個人的に考えるには、したがって誰に確かめたわけではないが、政治的な検閲というよりは、経済政策に関連した問題ではなかろうか。まず、ひとつにはエジプト出版の書籍には、廉価な本を国民に大量に供給するという、ナセル時代の文化啓蒙政策の結果、印刷用紙(森林資源のないエジプトでは紙やパルプは、ほぼ百パーセント輸入である)をはじめ、本の出版には多額の補助金がかけられていた。この国の金のかかった本をむやみに持ちだすのは、けしからんということなのかもしれない。同じく、英語の本を持ちだすのに、当時の私たちは、アラビア語の本より神経を遣って、カバンやダンボール箱の中でも下の目立たないところに隠し置いたりした。洋書の輸入関税が低く抑えられていたとも聞いていたからである。 さらに、こうした本の輸出規制は、アラブ社会主義的な貿易統制の政策全般と結びついていたのではないか、と考えられる。その経済ナショナリズムの発想によれば、輸出とは、国富の流出に他ならない、と悪者視されているようにも思える。輸入代替工業化の路線をお手本どおりに示したようなこの考え方は、20年以上に及ぶ経済改革の試みにもかかわらず、なかなか容易に払拭できていないようだ。 その後、エジプトからの本の郵送をめぐる状況は改善された。1980年代後半以降に導入された構造調整政策の影響もあり、書籍出版の補助金が切り下げられたか、ずいぶんと本の値段は高くなった。それと並行するように、本送りの手続きは、簡素化した。本の輸出許可の申請、本の検閲、小包郵送部門での計量と料金決定、切手の購入、それからまた小包部門に戻って梱包と最終手続き、といった一連の過程もだんだんと簡素化された。それぞれの窓口や部屋がある郵便局の各階を、場合によってはダンボール箱を抱えながら、息を切らして往復するということもなくなった。ある時期には、これら四つのセクションが同じフロアで机を並べ、流れ作業で手続きが終了するという、夢のような改革がなされたこともあった。 また、それより数年前のある年には、簡素化の過程の一環として行なわれたのではとも思うが、申請用紙のフォームそれ自体を書かせるという手続きが取られた。輸出許可の申請を受け付ける部屋に入ると、係のおばさんがあごをしゃくり上げて、壁に貼られた申請フォームを紙に書き写すようにうながす。「××関税局××係殿 拝啓 私××は、以下の××を云々」というフォームが壁に貼りつけてあるわけだが、これくらい印刷して、一枚何ピアストルかで売ったらどうなのだ、とブツブツ思いながら、書き写したこともあった。 とはいえ、エジプトでも徐々にサービスが改善されている。ただし、政府部門よりも、インフォーマル部門の方が動きは速いようだが。数年前、中央駅の隣にある郵便局に行くと、荷物運びのおばさんたちの一団が待ち受けていた。隣の駅にいるポーターを真似たわけではないだろうが、そのリーダー格の女性の号令で、十名前後のおばさんたちが、頭の上に本の詰まったダンボール箱を器用に乗せて運んでくれる。料金は少々高めという気がしたが、いつか経験した駅のポーターの傲慢な態度とくらべると、おばさんたちとのやり取りは、はるかにさっぱりしていて気持ちのよいものであった。 最近では、カイロから本を送るのに、値は張るがもっと楽なやり方、すなわち特定の業者に郵送を委託する方式もよく使われるようになった。実際、私も何回か世話をしていただいた。また、新刊書については、日本の書店を仲介にして取り寄せる制度もずいぶんと充実してきた。それにもかかわらず、負け惜しみを言うようではあるが、本の価値は重さにもあるような気がするのである。もうこれからとうてい読む余裕などなさそうな本、あるいはもはや読む意義も少なくなった本を前にして、愛情を注ぐことができるのは、やはり本の重さを感ずるからではないか。世の中がさまざまに便利になっていくなかで、インターネットの世界では感ずることのできない重さが、そこにはあるのである。 |
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(写真は2003年12月〜2004年1月のカイロ風景。撮影筆者) | |||
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