15/07/29
西周の翻訳と啓蒙思想(その二) ――朱子学から徂徠学へ、百学連環に至るまで
                                                        

張 厚泉

 

本文

3. 西周の啓蒙思想

  新村出が評した「西先生高遠なる精神」を理解するため、西周の思想変化を把握しなければならない。特に「一代還俗」のとき、藩主に「古学」(ここでは主に徂徠学)の希望や、オランダ留学する前に、「一切の学問を学ぶ」姿勢を表明していたことに注目すべきであろう。

  朱子学について、宋代以前、儒学は文献の字句の解釈を中心とした学問であった。しかし、宋代に入って儒学は道教や仏教などの影響で、人間論や宇宙論を展開し、人間の道徳性や天と人を貫く「理」(ことわり)を追求することこそ学問であるとされたことから、「宋学」と称された。さらに、二程子[1]の道学の流れを汲む南宋の朱熹(1130-1200)によって集大成されたことから、「朱子学」「朱子理学」「程朱学」とも言う。日本の「朱子学」の内容は中国の「朱子理学」と必ずしもぴったり一致するというわけではないが、基本概念である「性」や「理」は中国の「朱子理学」に由来したもので、ほぼ同じである。つまり、人間の持って生まれた本性である「性」がすなわち「理」(天理)で、「性即理」ともいう。

  朱子学は、理を形而上のもので、気を形而下のものとして捉えて、理と気はまったく別の二物だが、単独で存在することができず、性(理)があるところに必ず気があり、気があるところに必ず性(理)があるという、「不離不雑」の二元論的な「理気学」である。一方、明代に入ると、陸九淵の心学の流れを汲む王陽明(1472-1529)は、「心即理」、「知行合一」の一元論を主張する。ここから、中国、日本、朝鮮半島、ベトナムという儒教文化圏の思想の流れがさまざまな形に分かれた。

  江戸時代、朱子学を否定する日本独自の、「古学」という儒学の流派が形成された。さらに細かく分けると、山鹿素行の聖学(古学)、伊藤仁斎の古義学、荻生徂徠の古文辞学というふうに分けられる。

  西周は幼いころから祖父に儒学を教わりながらも、徂徠の書物も好んで読みあさった。そのため、儒学の経書の一つである『大学』にある、いわゆる「格物、致知、誠意、正心、修身、斉家、治国、平天下」という八条目に懐疑的であった。

  藩命で「一代還俗」し、「儒学修行」を命じられた時に、「古学」を希望していたが、藩主の亀井茲監に次のように一蹴された。

宋学古学固無別矣、同止脩身治国耳、我欲彼学積徳成、而為国家之用耳、亦将何擇焉、雖然我藩自古尊信宋学、我願彼亦為宋学也[2]
(宋学も古学ももとより変わりはないが、同じ修身治国の目的である。私は彼に学問を積み、徳を成して、国に有用の人間になってほしいが、また選ぶ必要があるか。我藩は古くより宋学を尊信してきた。私も彼に宋学を学んでほしいと願っている。)

  すなわち、藩の方針としては宋学に依拠するというだけの理由で西の要望は却下されたのである。つまり、津和野藩がもし古学を藩学としていたら、西は古学(ここでは「徂徠学」の意味)を修めても良かったわけである。しかし、津和野藩は山口剛齋によって山崎闇斎派の朱子学の学問を重んじていたため、西の希望は叶えられなかったのである。

  西周は朱子学を修めたが、上記の実筆文で「孔孟猶不及於程朱」「諸家不全非、程朱不可全信」「顧観宋学漢宋之間、自為一大鴻溝」「空理無益於日用」などの表現から、儒学を必ずしも正しい学問とは思っていなかったことが看取できる。さらに、「韓柳唱古文、程朱唱古学、亦復不肯従時好、断然以道自任」(同p.6)と、唐の文学大家である韓愈、柳宗元が古文運動を興したのも、程子、朱子が伝統の学問を唱えるのも、時勢に媚びへつらわず、「道」を自らの任としたからだと論じた。このような伝統への懐疑は、「ほごを踏み、お札を踏む」(『福翁自伝』)のように、同時代の福沢諭吉にも見られる。

  西は「一代還俗」のとき、宋学より古学のほうを希望していたが、それは単に宋学に矛盾があり、宋学が日常に「空理無益」であって、必ずしも古学へ傾倒したまでとは言えない。実際、オランダ留学から帰国した後、西の批判の矛先が陽明学、程朱学だけではなく、徂徠学にも向けられていたのである。

夫ヨリ陸象山カラ血筋ヲ引イタ陽明ニ至ツテハ、程朱ニモ輪を掛ケタ全然タル教門デゴザツテ、其知行合一トカ良知良能トカ、専ラ心ヲ師トスルノ説ガマアドウシテ治国平天下ノ用ニナルデゴザラウカ、本邦デ徂徠ガ、道ハ先王ノ道ナリトカ、先王ノ道ハ礼楽ナリトカ云ヒ、(中略) 其学風ノ習気デ、古ヲ尊ビ古ニ泥ムモノデゴザル故後人ノ発明ト云フモノガナク、ベンベンダラダラト今日ニ至ツタデゴザルガ[3]

  にもかかわらず、西周が徂徠学へ傾倒したというイメージの形成は、西周の断片に「徂徠学に対する志向を述べた文」と名付けたことによる誤読だと言わざるを得ない。もちろん、これは編者の大久保利謙の責任ではなく、研究者の問題であると思う。

  西周は「哲学」の祖である。それは単に「哲学」という用語を作っただけではなく、西洋近代の「哲学」という学術思想の体系を日本に移植したのである。啓蒙思想家として、『明六雑誌』にいちばん多く投稿したが、それより先、当時最先端の西洋近代の百科思想を『百学連環』として自分の経験を通して、私塾で分かりやすく講義した。

  明治3年に私塾で講義した『百学連環』は、永見裕という門人がEncyclopediaに関する西周の講義を筆録したノートである。Encyclopediaとはいうまでもなく、百科の学問が繫がるという意味であるが、講義という特殊な言語表現のおかげで、西は門人に新しい学問を伝授するために、西洋近代の学術概念(例えばtheory観察、practice実際)や事物概念(例えばpamphlets書物ノ小ナルモノ、papers一枚ズリ類、News paper新聞紙)などをいかに日本語に表現して伝えるか、創意を凝らし、工夫を払った痕跡が随所に窺える。『百学連環』は「学と術」、「普遍学と殊別学」、「コントの知識の三段階説」、「J. S.ミルの帰納法」、「物理と心理」といった「百学」の「環」を繋げたもので、自然科学・社会科学・人文科学を総合する哲学として捉えた西周の学問研究を体系付けた代表作である。それについては、これまで大久保利謙など先学によって研究されたが、『百学連環』を貫く最も重要な「学術」という近代漢語については、まだ具体的な論考がされていないようである。筆者は西洋近代の学問思想を取り入れる過程で、「学術」及び関連用語の形成と意味を把握することが、日本の近代化を理解する上ですこぶる有用だと考えている。

  『百学連環』の講義の中で、西洋のEncyclopediaとは学問に分野があることについて、次のように論じている。

凡て学問には、學域といふありて、地理学は、地理学の域あり、政事学は政事学の域ありて、敢て其域を越へて彼是混雑することなく、各の学に於て其経界ヲ識察して、正く区別するを耍せざるべからず、譬へば今政事学を以て専務となす所の人に就て、器械学の箇條を以て尋問せむに、縦令其人器械学を知るといへども、之を他の器械学者に譲りて、敢て教へざるを通常とす[4]

  「政事学を以て専務となす所の人に就て、器械学の箇條を以て尋問」されたとき、仮に器械学に詳しくても教えないという箇所とは、西が自身の経験に基いた発想であると考えられる。『西周傳』と西の私記には、将軍から当時珍しかった「電気燈」の点灯や「繍縫機」の使用説明などを強いられ、将軍の「繍縫機」を持ち帰って試運転したところ、針が一本折れて困ったことを次のように記されている。

抑々余は偶々西洋の言語文字を識ると雖も、悉く百科の事に通ずるに非ず。況電気の工芸と繍縫の技巧とをや。而るを枉げて命を聴く。その迹殆ど宦官の為に類す、決して士大夫の宜しく出づべき所に非ず。(中略)されば将軍の余に命じて、電気燈の雛型を試み、繍縫機の文単を読ましめ玉ひしは、強ち怪しむべきにあらず[5]

  西はここで二つ重要なことを提示した。一つは、「西洋の言語文字を識ると雖も、悉く百科の事に通ずるに非ず」ということである。それは、西洋の言語ができるからといって、必ずしも西洋のすべての学問に通じているわけではないことと、もう一つは、「電気の工芸と繍縫の技巧」を操る「術」は役人の役割であり、学者が長けていることではないことである。このことから、西には、「学域」や「学」と「術」を区別すべきという意識がすでにその時から芽生えていたことが看取できる。

  西はここでさらに英語の概念を引き出し、「学術」と対照させて次のように論じた。

茲に、学術技藝といふあり、学術は、即ち洋語のscience and artなり、此の学の字の性質は、元来動詞にして、道を学ぶとか、或は文を学ぶとか、皆働く文字にて、是を實名詞に用ゆること少なく、實名詞には、多く道の字ヲ用ひ、(中略)学と道とは、其種をおなじうし、術の字は藝の字と同種なるものなり、それ故に、我が皇國にては、和歌の学、或は文(フミ)の学、言はずして和歌の道、或は文の道と言へり、術の字は、一ツの其目的となす所ありて、道を行くの行の字より生ゼしものにして、即ち術の形ちをなし、都合克つあてはめるといふの辞義なり、(中略)學術の二字は、技藝の二字を含蓄セしものなるが故に、後世その技藝の二字を省きて、唯ダ學術の二字を用へり。(同注4、p.46)

  「学術」は「学術技藝」から「技藝」を省略した用語であると指摘した。当時の学者は「学術」の他に、例えば中村正直は「支那不可侮論」(『明六雑誌』第35号)に「学術技芸」「学術器芸」を用いていることが確認できる。

  上記の論述を整理すると、「学」と「術」を次のようにまとめることができる。

学術 原 語 意 味 形而上・下 知・行
Science 知を積重ねった上で物事の真理を認識する。 知ることを望む。形而上。 学→知。知は感覚で外より内に。過去の蓄積が必要。
Art 行動をとる時に、物事の理を究め、良策を取る。 生ずることを望む。形而下。 術→行。行は知で内より外へ。未来に集約する。

  西はさらに、「学」に二つの区別があると論じたが、整理すると次のようになる。

用 語 原 語 意 味
学の別 単純の学 Pure science 理について論じる学。算数に例えば2+2=4の如き、単純の理に当たって用いる。
適用の学 Applied science 実事について論じる学。算数に例えば2犬+2鳥=4匹の如き、実事について用いる。

  明治17年の『哲学字彙』では、「science理学、科学」「applicate適用、応用」「application応用」が収録されているが、pure、appliedの項目は見当たっていない。

  次に、「術」について、西周は、「商売」につながる「技術」と、「奇麗」につながる「藝術」に分けた。

訳語 原語 意味 区別1 区別2
術の別 技術 Mechanical art 器械の術。技は支体を働かす辞儀。大工の如く。商売mechanical即ちTrade商い。 Useful art 必用 Industrious art 勉強
芸術 Liberal art 上品の術。芸は心思を働かす辞儀。詩文を作る如く。 Polite art 磨き、奇麗 Fine art 奇麗

  「学」と「術」の関係について、西は「才」と「識」を導入して、次のように述べている。即ち、

学は上面の工夫、術は下面の工夫たるは勿論にして、其学術に供するに二ツあり、skill()及びsagacity()なり、(中略)凡そ木を用ゆるには先づ之を切り倒し枝を打ち幹となし而して事に就き物に随ふて用立ツ是を才と云ふ、識は知ることの多く積み重なりを学とし、学に長ずる是を識となす。(同注4、p.59)

  学術の体系性を一早く注目したのも西周である。西は上記「学術」の才・学・知・識について論述した後、「学術」における体系と方法について問題を提起し、

其才識の二ツを学術に因て磨がくに、二ツの目的たるものあり、system(規模) method(方法)是なり(中略)。
総て学に規模なく術に方法なきときは、更に学術とは称しがたしとす。(同注4、p.60)

  と、具体的な学科名を取り上げて、数学・歴史・地理・文章などの学問は学術の共通性(common普通)を代表するものであり、本草学・窮理学などの学問は学術の特定性(particular殊別)を代表するものであると、二種類の学問があると論じた。

  1870年頃に書かれた『尚白箚記』の冒頭に、西は学術の統一観を次のように論じた。

凡ソ百科の学術に於ては統一の観有る事緊要たる可し。学術上に於て統一の観立ては人間の事業も緒に就き、社会の秩序も自ら定まるに至る可し。(中略)百科の学術に於て統一の観を立て、各自にその精微の極に臻る事より始まるなり、是学者分上の事業なり、それ以上は作業者の事業にて、学者の事には非らず、(中略)故に統一の観を立つるは哲学家の論究す可き所と()、学術の精微を究むるは各科の学術を専攻する者に存する也[6]

  これに続き、西はさらにオーギュスト・コントの「五学」を紹介した。

天上理学(天文学)、地上理学(格物学、化学)、生体学(バイオロジー)、社会学(ソシオロジー)と為す。(中略)然れども余は未タ其生理と性理との相連結するの理趣を講明して発見し得るの力に乏しけれは、姑く心理と物理とを両種と為して之を説き、唯事業上に就きて其統轄隷属する関係を説かんと為。(同注6、p.167)

  これに対し、植手通有(1972:63)は「明治啓蒙思想の形成とその脆弱性」において、

『尚白箚記』に数学・天文学・物理学・化学・生物学・社会学というコントの「実証科学のヒエラルヒー」の理論が引用されていることからもわかるように(ただし、何故かわからないが、西は数学を除いて「五学の模範」といっている)、統一体系の観念は直接的にはコントの影響をうけたものであるが、そのためもあってか、西においては、統一体系は思考の体系性としてよりは、むしろ既成の諸学科の体系と考えられ、根本原理は自然と社会にみられる諸法則の根本原理としてよりは、既成の諸学科の原理を貫く根本原理と捉えられる。

  と指摘しているが、西周の学術統一観を正確に捉えていないように思われる。なぜならば、西は(コントの)学術統一観から数学を除いたのではなく、数学を基礎的な学問として捉えているからである。西は明治6年(1773)に『生性発蘊』において、コントの学術「統一観ハ即チ哲学ナリ」という「三条ノ要訣」を取り上げ、次のように論じている。

其第二ハ、類別次序ノ要訣ナリ、此類別ニテ、各自ノ百学術、学術上ノ位階ニ於テ、各其当然ノ地位ヲ、占ムヘカラシメ、単簡ナル者ヲ初メニ学ヒ、以テ次キ々ニ学フ、学科ニ従事スルニ、便宜ナル器械タラシムルナリ、譬ヘハ、「数学(マテマチツク)星学(アストロノミー)ノ階梯トナリ、格物学(フィシツク)化学(ケミストリ)ハ、生体学(バイオロジー)ノ門戸トナリ、而〆生体学ハ、人間学(ソシオロジー)ノ廊廡トナルカ如シ。(同注6、pp.47-48)

  数学を基礎的な学問として捉えているという認識は、19世紀末の中国知識人も同じである[7]。また、今日の社会科学における諸科学の序列は、基本的にこの「実証主義」の精神を継承していると言える。ただ西周の場合には、最初から「哲学」が学術を統一する最高な学問であるとして捉えていたのであるから、啓蒙思想家として先覚者であると認めざるを得ない。

  西は『百学連環』において、「学術」について詳細に論じたが、明治7年の『明六雑誌』で発表した「知説」の中で、さらに「学術」体系論を発展させ、「学」と「術」との関係をより明晰に体系を整えて、一般的に読まれるようになったが、かかる『百学連環』や『生性発蘊』と比較して読まなければ、理解しにくい面もあるかもしれない。

4. 西周思想の底流――近世日本思想

  筆者は近世日本の政治思想に関心を持つようななったきっかけは、西周研究の中で、しばしば西の思想転換として提起された「徂徠学」は西周の時代でどういう位置づけだったのかということである。そして、なぜ彼だけが、講義や翻訳、執筆活動などの啓蒙活動を通じて、学術体系を日本に移植することができたか、といったところへと逢着した。

  江戸幕府による朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康の林羅山登用に始まり、徳川綱吉の湯島聖堂建設で頂点に達した。しかし、第8代将軍徳川吉宗は朱子学よりも実学を重んじた。朱子学を正学と定め、再び幕臣の教育を行うようになったのは寛政2年(1790年)に布令された「寛政異学の禁」から始まった。「異学の禁」は本来、昌平坂学問所などの幕府教育機関において異学の講義を禁じることであり、国内の異学派による学問や講義を禁じるためのものではない。また、諸藩の藩校における教育方針を規制するものではなかった。例を挙げると、致道館(庄内藩・山形県鶴岡市)の「古文辞学」の徂徠学、崇徳館(越後長岡藩・長岡)の古義学・古文辞学・朱子学・陽明学、盈科堂(古河藩・茨城県)の山崎闇斎・崎門学派・古学・朱子学がある。

  このように、幕府でさえ、260年の統制の中で同じ思想で貫いたのではないことが明らかだが、まして近世日本の思想体制は一貫して朱子学というイデロギーが主導し、いわゆる「幕府-朱子学」体制ではないことは明らかである。このように考えれば、亀井藩主が西周に「宋学古学固無別矣、同止脩身治国耳、(中略)雖然我藩自古尊信宋学、我願彼亦為宋学也」のように諭したのも、理解しやすい。宋学を正統としなかったら、古学がもっと高く祀られたはずで、決して「宋学古学固無別」とは発しないであろう。また「雖然我藩自古尊信宋学」というのも、言外に「宋学」を尊信しない藩もある現れである。

  にもかかわらず、「幕府-朱子学」体制という近世日本の政治思想の観点がなぜ確立されたのか。この問題について、平石直昭(2001:12)は、井上哲次郎(1909)が日露戦争後に発表した『日本朱子学派之哲学』で近代日本の発展を可能にした歴史的遺産として朱子学をあげ、「徳川氏三百年間我邦の教育主義となりて、国民道徳の発展上に偉大の影響を及ぼした」と、それを高く評価しているからだと指摘している。

  しかし、井上哲次郎(1926)は『日本陽明学派之哲学』(初版1900年)において、

徳川時代の儒教は朱子学派、陽明学派、古学派、折衷学派及び独立学派等の諸派に分類すべきであるが、其中陽明学派は少数の学者及び志士によって命脈を維持されたるもので、なかなか顕著なる特色がある。(中略) 日本の陽明学派は固より陽明に淵源するのであるけれども、然れども半ば藤樹学である。就中省察派における藤樹の影響は頗る多大である。(同書「重訂序文」)

  とあるように、徳川時代に朱子学派以外、陽明学、古学などの学派について論じてもいたのである。それだけではなく、井上哲次郎は『日本陽明学派之哲学』が刊行された後、さらに『日本古学派之哲学』(1902)、『日本朱子学派之哲学』(1905)を著したのである。平石直昭(2001:12)、「しかしとくに戦後の日本で、日本思想史学界だけではなく、他の分野の研究者の間にも、朱子学=幕府の体制教学という見方が広まったのは、丸山眞男氏の『日本政治思想史研究』によるところが大きいと思う」と指摘し、「近世日本における近代的な思惟様式の展開を、朱子学→素行、仁斎学→徂徠学→宣長学という変化の中で跡付けようとする。その前提にあるのは、近世初頭における幕府の体制教学としての朱子学という見方であった。氏によればそうした朱子学が、その後の経済発展の中で社会的な適合性を失い、静態的で道徳中心の朱子学にかわって、いわば危機の儒学として、政治中心の徂徠学が現れたというのである」と論じた。

  しかし、この一時期を画した丸山学説に対して、批判も少なくなかった。平石直昭(2001:13)によれば、戦前の日本でも、すでに津田左右吉が、中国から移ってきた儒教は知識人の思想に過ぎず、それが一般の日本人の生活のなかにどこまで深く浸透していたかは疑問だと指摘していたのである(『シナ思想と日本』初出、1938)。津田の見方は戦後、尾藤正英らの徳川思想史研究の中で生かされることになったことから、実証的にみるかぎり、津田らが正しく、西村らの説は成り立たないことが、今日の学界の通説だと言えるのである。しかし、程朱学は中国でもごく一部の知識人しか知らないという実際の情況を考えると、その軸で議論したら不毛な論争になる。

5. 終わりに――丸山眞男氏の「徂徠学」論を兼ねて

  荻生徂徠(1666-1728)は、伊藤仁斎の学問を継承しながらも批判し、独自の儒学を作ったのである。近世日本の儒教思想にとって大きな存在である。つまり、当時流行していた朱子学は、「古文辞」の経書に対して「今文」で主観的に解釈したにすぎないが、徂徠は秦以前の経書を理解するために、古文辞の原書を読んで理解しなければならない、という主張である。当然ではあるが、朱子学、仁斎学は、「今文」だから、必ずしも経書を正確に捉えているとは言えない理屈である。そのため、徂徠学の出現は、丸山眞男(1952:140)が指摘したように、「徂徠学の出現が思想界に絶大な共鳴を呼んだことは、その理論内容の時代性――反面からいえば朱子学的思惟の時代性――を顧慮すれば当然ではあるが、その共鳴の程度たるや、殆ど今日の想像を絶するものがあった」のである。

  程朱学は、理気学という合理主義の体系を構築した。しかし、徂徠は、程朱学を「今文」の解釈にすぎないと認識している。かと言って、徂徠学は程朱学に対抗できる体系を為し得たかというと、必ずしもそうではない。儒学の主要範疇と概念を再解釈した徂徠は、矛盾や非合理性の問題も露呈していた。これに対して、平石直昭(2001:72)は、丸山氏の「この合理主義がそのまま近代西欧の合理主義に接続していったわけではない。後者が日本人に受け入れられるためには、徂徠の非合理主義(さらには宣長のそれ)による前者の破壊が必要だったというのである。それは歴史発展のアイロニーを明らかにしたものとして、非常に優れた見方」として、高く評価している。しかし、徂徠学という非合理主義がどのように「近代西欧の合理主義に接続した」か、丸山氏はその後、朱子学と江戸時代の日本社会との関係に関する見解は大きく変わったとは言え、そのプロセスを示していなかったのではないか。そもそも、程朱学の合理主義が「近代西欧」に接続できなければ、それを破壊した徂徠学の非合理主義が、なぜ接続できるか、それ自体矛盾のように感じる。西周の西洋近代の学術思想を受け入れる原動力は、前掲した西周が『百一新論』(1874)において、「本邦デ徂徠ガ、道ハ先王ノ道ナリトカ、(中略)古ヲ尊ビ古ニ泥ムモノデゴザル故後人ノ発明ト云フモノガナク」と批判したことからも、決して徂徠学が近代西欧の接続に働いたわけではないことが明らかである。

  学術思想を表す抽象概念に限って言えば、西周が新造した近代漢語は、中国の知識人、中国社会の近代化に積極的な影響を与えたのが事実である。その伝播の過程は、西洋近代の学術観念は西洋言語から出発し、日本を経て中国へと伝播したということは、歴史的な経緯として厳然たる事実である。西周の啓蒙思想は、徂徠学から影響があったとすれば、それは朱子学と同じ、西洋近代の学術思想を受け入れる際、批判の標的となっていたことが明らかである。グローバル時代になった今日、西周が示した啓蒙思想はなお示唆的であり、高く評価すべきである。そのため、西周の創造した抽象概念の研究だけではなく、日本政治思想史を再考する研究課題にしたい。


脚注

[1] 程顥(ていこう)・程頤(ていい)と朱熹(しゅき)の学説。宋学(そうがく)ともいう。程顥と程頤は、中国宋代の兄弟の儒学者、二程子はその尊称である。

[2] 西周「徂徠学に対する志向を述べた文」(『西周全集 第一巻』p.5)。

[3] 西周『百一新論』(『西周全集 第一巻』pp.275-276)。

[4] 西周『百学連環』(大久保利謙『明治文学全集3』p.46)。

[5] 森林太郎『西周傳』(『鴎外全集第三巻』p.93)。

[6] 『西周全集第一集』pp.165-167。

[7] 例えば、厳復は『穆勒名学』(1905)で「近世言西学者動称算学為之根本/(近代、西学と言えばややもすれば算学を根本と称する)」と論じている(湯一介・杜維明『百年中国哲学経典・清末民初巻』海天出版社、1998年、p.311)。


参考文献

[1] 西周(1874)『百一新論』(大久保利謙編『明治文学全集3』筑摩書店1989年)

[2] 森林太郎(1898)『西周傳』(木下杢太郎 [ほか] 編『鷗外全集 第三巻』岩波書店 1972年)

[3] 井上哲次郎(1926)は『日本陽明学派之哲学』(明治33年初版)冨山房

[4] 丸山眞男(1952)『日本政治思想史研究』東京大学出版社

[5] 大久保利謙(1960)編『西周全集 第一巻』宗高書房

[6] ―――――(1989)編『明治文学全集3 明治啓蒙思想集』筑摩書店

[7] 植手通有(1972)「明治啓蒙思想の形成とその脆弱性」(『日本の名著 34』中央公論社)

[8] 平石直昭(2001)『改訂版 日本政治思想史―近世を中心に―』放送大学教育振興会




張 厚泉 東華大学