15/06/11
「難民」とフィルモア大統領国書の翻訳
                                                        

張 厚泉

 

内容紹介

  近世日本にとって、一番衝撃を与えたのはペリーの黒船来航である。ペリー来航の目的は日本に開国を求めることであるが、そのうちの一つは、携えてきたフィルモア大統領国書によると、難破した船と乗組員の救助と保護である。本論は、大統領国書の翻訳に用いられた「難民」という語に注目し、その意味と使用について検証したものである。結果として、
1. 「難民」は、箕作阮甫が中国の風説書[1]を転写した際、使いはじめた用語であること
2. 「難民」は、箕作阮甫がフィルモア大統領国書「蘭語副本」を翻訳した時、訳語として初めて公文書で用いたこと
3. 「難民」は、日本語も中国語も主に外国人の避難民を指すようになったこと
などの結論が得られた。

キーワード

黒船来航 国書 箕作(みつくり)阮甫(げんぽ) 難民 難民条約

本文

1.はじめに

    国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)本部が発表した年間統計報告書『Global Trends 2013』によると、「2013年末時点で紛争、迫害や人権侵害のため移動を強いられた難民、庇護申請者、国内避難民の数が5,120万人を超えた。」[2]とあり、第二次世界大戦後初めて5,000万人を超えた。しかし、「難民」という概念がいつ、どのように日本に入って来たか、という問題については、これまであまり論じられていなかったようである。

   「難民」という語は、アメリカのペリーが携えてきたフィルモア大統領国書の翻訳文に用いられていたことが、恐らく日本の公用文で確認できる初めての例であろう。

   アヘン戦争後、中国の植民地化においてイギリスに出遅れたアメリカは、アジア市場と植民地を獲得するため、東インド艦隊を清国と日本に派遣した。嘉永六年(1853)に日本に到着したペリー提督が幕府に呈したフィルモア大統領国書の「蘭文副本」の文(和解(わげ)本)によれば、黒船来航の目的を次のように求めているという。

和親・交易・石炭・食料及び合衆国難民の撫恤ハ、即其件々なり[3]

  つまり、①和親条約を結び、 ②開港、通商を求め、 ③アメリカ船の石炭、食料を補充し、④アメリカ船の難民を救済することである。そのうち、アメリカ人の「難民」を救済することは、開国と同じ主な事項として取りあげられていたことが看取できる。幕府に提出したペリー渡来の趣意書によれば、アメリカ人「難民」が日本で不当な処遇を受けたことがこうした問題の引金となったことが窺える。換言すれば、日本の近代化の方向を決める日米交渉は「難民」というキーワードのもとで進められたと言っても過言ではない。

以下、ペリーが携えてきたフィルモア大統領国書の翻訳に注目し、「蘭文副本」の和解文で用いられている「難民」という用語の形成について、検証を行う。

2.フィルモア大統領国書の本書と副本

ペリーの黒船来航は、日本近代史の重い幕を開けた。ペリー以前の外国船に比べ、ペリーは正式な使節としてアメリカ大統領フィルモア国書を携え、幕府と和親条約を締結し、日本を開国させることに成功した。しかし、この事件にまつわる最も重要な文献、すなわちフィルモア大統領国書についての語学的なアプローチはほとんどされたことがなく、等閑視されていた。

アメリカ艦隊が来航した原因について、幕府に提出したペリーの趣意書によれば、

吾君主久聞合衆之民自心要投貴地、或被狂風漂至海辺、該民等被貴処官民見之如仇敵、故吾君主心甚憂慮、今指数年前有三船名叫嗎唎口進、口辣嘟咖、口辣嗹吐等人船、漂到海辺、皆受許多委曲等由、本欽差奉諭面陳殿下、並請兪允定約、嗣後遇有合衆国人船漂至海辺、或被狂風吹進港口、不得以仇敵待之[4]。 (我が大統領は合衆国の人民が自分の意志で貴国に赴くと聞いている。時々、狂風に遇って御地の海岸に漂着した際、彼らは御地の官民に見付けられ、仇敵かのように扱われていた。故に我が大統領は甚だ憂慮している。今から数年前に、モリソン号、ラゴダ号、ローレンズ号三隻の船が貴国の海岸に漂着したが、皆不当な処遇を受けたから、本職は大統領の指示をもって使節として殿下に面会し、並びに条約を結ぶことを願いたい。今後合衆国の船と乗組員が海岸に漂着したり、狂風に港に流されたりしたら、彼らを仇敵のように接してはいけない)。

とある。数年前に難破したアメリカの船モリソンMorrison号、ラゴダLagoda号、ローレンズLawrence号が日本に漂着したとき、それらの乗組員があたかも仇敵のような処遇を受けたことも一因に見える。そして、同じ事態が再び起こらないよう、ペリーは日本に注文を付けたのである。

幕末までの日本では、正式な公文書は漢文である。そのためであろうが、ペリーが携えてきたフィルモア大統領国書の「本書」は漢文で書かれている。また、ペリー艦隊に羅森という清国人を随行させていたことは、漢字・漢文が日本で通用する事情をアメリカが把握していた証左である。「羅森日本日記」には、米国は嘉永6年に、石炭を補充するため、日本に通商を求めたが、実現できなかった。そのため、10月に羅森の協力を求めたという[5]。実際、フィルモア国書は「漢文本書」のほか、「蘭文副本」「英文副本」もあることはペリーの渡来趣意書で確認できる。すなわち、

奉上吾君主公書并欽差勅書、此二書現已鈔寫英字呵蘭字漢字等書、録呈御覧[6]。 (わが大統領の国書及び大臣全権委任状を呈します。この二通はすでに英文、蘭文、漢文で書いております。呈してご高覧ください)。

『幕末外国関係文書之一』「114 亜米利加合衆国大統領フィルモア書翰」には、「漢文本書」「同和解」「蘭文和解」の順で収録されていて、「英文副本」は付録として収められている。しかし、アメリカ大統領国書は英語かオランダ語で書かれているかのように、研究者の間でもよく誤解されている。例えば、斎藤(1977:10)は次のように論じている。

幕末の外交文書には、つねに、蘭文と漢文が添えられており、外国人が日本の官憲と会見する際には、オランダ語か漢文の筆談が用いられた。アメリカの場合も、大統領書翰や委任状は英文蘭文漢文の三通りであった。また、日米交渉の際にも、日本側の応接掛り主席は林大学頭で、儒者松崎満太郎・河田八之助がそれに従い、アメリカ側にも清国人が乗り込んでいた。しかし、実際の交渉で最も役立ったのは、日本側の堀達之助・立石得十郎・森山栄之助らの蘭通詞がペリーのつれてきたオランダ語通訳ポートマン(Portman)を介して折衝をすすめたことであった。

斎藤(1977)はアメリカ大統領国書「本書」が何語によって書かれているかを明確に指摘していないが、「つねに、蘭文と漢文が添えられており」という文脈から、「本書」は英語で書かれているかと思わせるような論じ方である。実際、「漢文本書」の方が先に翻訳され、「蘭文副本」はその数日後に箕作阮甫と杉田成卿によって翻訳された。「英文副本」は「蘭文副本」を翻訳する時に参考になっていたが、翻訳されていなかった[7]
 一方、大久保(1978:66)は、国書の言語を「欧文」と紹介している。

幕閣としてはこれを受理したうえはその対策樹立のためにまずその内容を検討しなければならず、それには英文の原国書を和解する必要があった。(中略)そこで、別に欧文の解読ができる洋学者を起用する必要があるので、天文方の山路弥左衛門に対して左の命が下った。

「左の命」とは、蘭書翻訳御用手伝役の杉田成卿と箕作阮甫を、「異国書翰横文和解翻訳御用係手伝」(呉1914:52)として徴用することである。しかし、大久保の説明は、「横文」を「欧文」に置き換え、阮甫があたかも「英文副本」を翻訳したかのように思わせる記述である。

フィルモア大統領国書について、斎藤(1977)、大久保(1978)のほか、緒方(1978:45)は次のように述べている。

この時の書面は蘭文で書いてあったので、幕府はとりあえず、幕府の知識あるものを集めて異国書翰和解御用掛をつくりましたが、蘭文のわかるものが一人もいないので、天文台の蛮書和解御用であった箕作阮甫と杉田成卿が翻訳の手伝を仰付けられました。

これも大統領国書が蘭文で書かれているとしか思えない解釈である。また、『広辞苑』(第五版)のCD-ROM版「ペリー」項目に収録されている「資料 ペリー来航大統領国書」には、『幕末外国関係文書之一』「蘭文和解」に基づいていることが確認できる。

このように、アメリカ大統領国書は漢文、蘭文、英文で書かれているが、そのうち、漢文が「本書」である。また、「漢文本書」と「蘭文副本」は、それぞれ「和解」され、翻訳されたのである。

3.「難民」――フィルモア大統領国書の翻訳

  「漢文本書」と「蘭文副本」は、それぞれ「和解」されたが、意味はほぼ同じだが、文体や用語は全く同じではなかった。特に用語は、「蘭文和解」には、今日、一般的に使われている「難民」という言葉が確認できた。これは恐らく公文書で初めて「難民」を用いられた例である。「蘭文和解」に「難民」を用いた箇所と同じ文脈の「漢文本書」と「漢文和解」を比較すると、蘭学者と漢学者の価値観の違いが浮き彫りにされる。

  まず、アメリカ大統領国書の「漢文本書」を調べると、「難民」に当たる表現は次のように、「鄙命者(ひめいしゃ)」を用いている。

又諭該欽差告陳殿前、毎年本国船離加理科口尓亜、駛往中国者甚衆、抑有猟鯨魚船、多有常近貴境、此等各船或遭颶風、撃砕在海辺、雖船身破、人貨両全、朕慮此等之鄙命者、因思貴国官民見此等人船、量必安撫恩待仁慈、而人物皆保留、俟有本国船到、即帯帰也、且憐本国之民、亦是五倫之内、豈君主不知乎[8]

  しかし、同翻訳文の「漢文和解」には、「鄙命者」に当たる語は次のように、「賤民」に訳されている。

扨又此欽差役之ものに申付候て、殿前に申上候ハ、本国の船加理科口尓亜を出帆、唐土に罷越候者極て多く、将又鯨猟の船も度々貴国の辺境に近つき候者を有之、此等の諸船は、もしや颶風に出合、撃ち砕ぶれ、海辺に漂ひ候節、船は打ちれ候へとも、乗組之者積荷ハ別条なき時ハ、我等に於て、此等賎民の性命を懸念致事ニ候、依之考へ候ニ、貴国の官吏民人など、此等の人と船とを見懸候ハハ、程能安堵撫恤を加へ、恩待して仁慈を施し、人も者も皆保護を蒙り、御留置に相成、本国船の来着を待請、連れ帰候様致度事也、其上本国の民とても、同し人類の事などハ、御垂憐可被下ハ、君主ニも御存なきのあるべきや[9]

  つまり、「漢文本書」の「朕慮此等之鄙命者」の「鄙命者」は、「漢文和解」では「賤民」として訳されたのである。「漢文本書」の「鄙命者」に蔑む意味のマイナスのニュアンスもあれば、「へりくだる」という謙遜の意味も読み取れる。しかし、漢学者の翻訳である「賤民」は「鄙命者」に比べ、漂流した船員を卑しめていう表現であることが明らかである。

  一方、「蘭文副本」は次のように訳されている。即ち、

予更に水師提督に命じて、一件の事を殿下に告明せしむ。合衆国の舶、毎歳角里伏尓尼亜より支那に航するもの甚だ多し。又鯨猟の為め、合衆国人日本海岸に近づくもの少なからず。而して若し颶風あるときハ、貴国の近海にて往々破船に逢ふことあり。若し是等の難に遇ふに方つては、貴国に於て其難民を撫恤し、其財物を保護し、以て本国より一舶を送り、難民を救ひ取るを待たんこと、是予が切に請ふ所なり[10]

  つまり、「漢文本書」の「鄙命者」、「漢文和解」の賤民と対照的に、「難民」という語を用いて翻訳されているのである。「蘭文副本」の和解はフィルモア大統領国書の翻訳文として、『広辞苑』に収録されていることから、その後の日本人の「難民」意識に少なからず影響を与えたことを指摘できる。

  なお、フィルモア大統領国書の「英文副本」は翻訳されていなかったが、「蘭文副本」の和解には、蘭・米・和の為替に関する説明が1箇所、「英文ニハ……トアリ」の注釈が5箇所施されていることから、蘭文を正しく翻訳するため、「英文副本」に比較して翻訳されたのが看取できる。ちなみに、上記「蘭文副本」の翻訳文で「難民」にあたる「英文副本」の部分は次のようになっていて、

I have directed Commodore Perry to mention another thing to your imperial majesty. Many of our ships pass every year from California to China; and great numbers of our people pursue the whale fishery near the shores of Japan. It sometimes haooens, in stormy weather, that one of our ships is wrecked on your imperial majesty's shores. In all such cases we ask, and expect, that our unfortunate people should be treated with kindness, and that their property should be protected, till we can send a vessel and bring them away. We are very much in earnest in this[11].

  つまり、アメリカ国民をgreat numbers of our people、台風など災害に遇った船員をour unfortunate peopleで表している。

  「英文副本」に比べ、「漢文正本」の「鄙命者」は漢文では第一人称として謙遜のニュアンスがあるとも解釈できるが、同「漢文和解」の「賤民」の訳は明らかに誤訳であるか、若しくは儒学者の西洋人に対する蔑視的なニュアンスが含まれていると指摘できる。これに対して、「難民」という用語は「難破」「遭難民」と関連した語で、今日、日本語として普通に使われていることから、もっともふさわしい訳であると言えよう。

4.「難民」は箕作阮甫の造語か

  「難民」の日本での使用は、フィルモア大統領国書を翻訳すること、箕作阮甫によってはじめて用いたと考えられる。

  箕作阮甫(1799-1863)は津山松平藩(10万石、岡山県)医の末子として生まれた。幼い頃、父と兄弟が相次いで亡くなり、12歳の若さで家督を継ぐことを許され、後に蘭学大家である宇田川玄真に師事し、天保10(1839)年、天文台の蛮所和解御用となったが、ペリー来航時に米大統領国書の翻訳や、また対露交渉団の一員として長崎にも出向いた。著訳は医学書から諸外国の歴史や地理、兵学、外交文書などにまで多岐にわたる業績を残し、番所調所の首席教授に命じられたという、洋学者の最高位に上りつめたことになる。

  アメリカ大統領国書の「蘭語副本」を翻訳したのは杉田成卿と箕作阮甫であるが、杉田はペリーが来航した時に、「攘夷論」を唱えて採用されなかったため引退してしまった。一方、阮甫は開国論の先覚者で、『虁庵筆記』[12]に収録された数多くの風説書、外国船報告書の内容からも窺えるように、蘭医者だけではなく、蘭学者としても西洋歴史、地理に目を向けて、いち早く世界の大勢を把握していたのである。「難民」という語も、阮甫が写した『虁庵筆記 三』にある「本邦難民数名伏侍人等上公司文案」で用いられている。弘化2(1845)年に写された同「文案」の内容からも分かるように、中国の風評である。

 聞難番甚助供、是日本国仙台島人、……舵工名叫世松、水手文與、重吉、次郎吉、喜非、文花、岩松、一共八人、在廿二年十月十五日、在本国、載了米穀四百五十袋、開往向來貿易之大坂地方、消換貨物、不料風色不順…柁工世松、水手岩松、溺死海中、幸遇過往一舩、号喊搭救得生、後來帯至廣東洋面他們舩上、見有夷舩、即将難番們送交、那知是𠸄夷的舩、承他収留(以下省略)。 本国法令最厳、向來不許与𠸄夷交接、違者梟首、今由𠸄夷轉送、尤恐国中聞知、返遭殺身、務求将来帰国給賜明文内、除去𠸄夷字様、免得難番們有殺之惨、深感天朝恩典、難番們六人就得生了[13]。  (難番甚助の供述を聞くと、日本国仙台島人である。……舵工は世松といい、水手は文與、重吉、次郎吉、喜非、文花、岩松という、計八人である。道光22年(1842)10月15日に、日本国で、米穀四百五十袋を載せ、貿易の名地大坂方面に向かって、貨物を交易する。図らず天候不順で…柁工世松、水手岩松が海の中に溺死し、幸い近く通過した一隻の船に遇い、叫んで救援を求め、生還した。後に廣東の海域に彼らの船に連れて行かれ、西洋人の船に遇い、即ち難番たちの面倒を見てもらったが、まさか英国船であったが、英国船が引き受けてもらったお陰で、……。 我が日本の法令は最も厳しい、従来から英夷と交接することを禁じてきた。それを違反した者は斬首される。今回、英夷から転送されたことが、尤も恐れていることは、もし国内に知られたら、帰国したら殺される。将来帰国の際、賜る公文の中で必ず英夷の文字を削除されるならば、我ら難番が殺される惨状を免れ、天朝の恩典を深く感じ、難番たち六人が救われるものである。……――筆者訳)。

  「廿二年」とは、清の元号の道光(1821-1850)22年のことである。日本商船の乗組員8人が中国廣東省の近海で難破し、二人が溺水で死亡し6人が救助された。日本の鎖国令は厳しいためイギリス人と接触した記録を削除してほしいという内容であった。中国語原文では日本人漂流者を「難番」「難番們」という語で表現しているが、「難民」を用いていない。「番」とは中国語では外国或いは外国人を指す意味であるが、よく軽蔑的な意味があると思われている。阮甫は「番」で日本人漂流民を表すのを嫌って、日本人を「民」に置き換えたのかは不明だが、語構成的、感情的ともに自然で正しかったと言える。

  阮甫の実筆『虁庵筆記』を調べてみると、漢文体では「遭難」「難番」「遇難之民」「遇難之人」「難人」などが見かけられるが、和文体ではまだ「漂流之日本人」「漂民」「漂流人」を用いていたが、「難民」を見当たらなかった。タイトルの「本邦難民数名伏侍人等上公司文案」にある「難民」は、漢文の風説書からそのまま写したというより、阮甫が付けたタイトルだと断定できる。しかし、それは阮甫の造語の可能性も否定できないため、阮甫の造語か、漢文からの借用かは特定できない。

  『大日本古文書 幕末外国関係文書之一』「116 六月二日米国使節ペリー書翰 我将軍へ渡来の趣意に就て」を調べた結果、同書簡は内容的には、「114 米利加合衆国大統領フィルモア書翰」と大筋でほぼ一致しているにもかかわらず、「蘭学副本」の和解文の用語とは大きな隔たりがある。例えば、「114 大統領書簡」は冒頭でペリーを「海軍第一等の将」と称したほか、本文では一貫して「水師提督」で貫いたのに対して、「116 ペリー書簡」はペリーを一貫して「外臣」で通し、最後の署名で「海軍の統帥」を用いた。また、「114 大統領書翰」では「難民」は三回ほど用いられているが、「116 ペリー書翰」は一回も使われなかった。両書簡で用いた異なった語彙からは、その翻訳が恐らく分担して行われていた可能性が十分考えられる。同時期の「箕作西征紀行」には、「難民」という語が何度も用いられていた[14]。少なくとも阮甫にとって、「難民」という用語の使用は、定着していたと断定できる。

  詰まる所、語彙使用の特徴という視点から見て、大統領国書とペリー書簡はそれぞれ、箕作阮甫と杉田成卿によって翻訳されたと推定できる。そして、阮甫の造語とは特定できないにしても、日本では、遭難した外国人を助けるべきだという西洋近代思想が、「蘭語副本」和解文の「難民」によって現れたものと指摘できる。

5.「難民」という用語の使用推移について

5.1国立図書館資料の視点で

  日中語彙交渉の研究領域において、「難民」という用語にはあまり注目されていないようである。「難民」という用語は日本語なのか、中国語なのか。そして、どのように使われるのか、日中両国の国家図書館の蔵書資料で比べて、その推移を明らかにしたい。

  まず、日本国立国会図書館で「難民」(「避難民」を含む)のキーワードで検索してみると、1824年から2015年3月まで、中国語資料を含めて、計10,845件ある。出版年のカテゴリーで分類された8,791件のうち、さらに10年ごとの枠で表にして、その特徴が一目瞭然である。

年代 1824 1877 1880 1890 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010
標本数 1 1 2 2 11 16 87 92 151 157 214 414 1264 1882 2704 1793

注:標本数は論文・著作の数である。2010年代の数字は2015年3月までのデータ

 

1824年の資料は、「福建省泉州府同安県難民墓碑 : −拓本」で示されたように、疑いもなく中国語である。一方、1877年(明治10年)の「議案簿」は、「琉球藩難民救助費ノ義(ほか)」というタイトルがあって、日本語の資料であるが、年代的にフィルモア大統領国書の翻訳より後だったので、「難民」は阮甫の造語かどうかという問題の決め手にならない。

一方、中国国家図書館のデジタル図書館サイト[15]で、「難民」と「难民」のキーワードで検索してみた結果、日本語資料を含めて、計3,700件あることが確認できた。さらに、「古文献」を「難民」と「难民」で調べたところ、それぞれ17件と11件があるが、一番古い資料はいずれも『熱河區受賑難民簽名冊』(1644)である。

しかし、近代中国の雑誌『東西洋考毎月統記傳』[16]には、「難民」のタイトルやそれに関する内容の記載があったにもかかわらず、「難民」のキーワードで検索しても現れてこなかった。例えば、『東西洋考毎月統記傳』「丁酉七月」(1837年7月)に「救難民」の項目があり、年代的には前掲した阮甫が写した風説書「本邦難民数名伏侍人等上公司文案」(1845)に近いが、内容的には異なっている。また、「箕作阮甫関係文書目録」には、『東西洋考毎月統記傳』を確認することもできないが、常に清朝の情報を収集している阮甫は、ほかの風説書から「難民」という用語が目に止まったこと可能性も否定できない。

佐藤(1986:214)は「『徳国学校論略』の語彙」において、「漢籍の典拠不明だが、幕末・明治初期の国語に存する語」として、「学期、行為、使徒、難民」などの用語を取り上げたが、「難民」については特に説明を施さなかった。『徳国学校論略』は花之安(Faber, Ernst.1839-1899)というドイツ植物学者の宣教師が中国で宣教する傍らに、西洋近代社会を紹介するために、1874に著した書物であるため、阮甫の「難民」使用と直接的な関連がないが、19世紀半ば頃、「難民」という用語は日本語も中国語も主に難破した船員のことを指す意味で用いられていたことが指摘できる。

「難民」はその後、戦前まで『議案簿』「琉球藩難民救助費ノ義(ほか)」(1877)、「難民救助取計方」(1883)、官報「難民救済方」(1918)、官報「露國避難民救恤品輸送」(1923)など示されたように、「難民」のほか、「避難民」も使用されている。

中国では、戦前まで、100年も続く戦火に見舞われたため、「難民」という言葉の使用頻度も高かったが、それより、「灾民(災民)」の使用頻度が7,000も数えられ、「難民」の倍近い高い数字である。また、「難民」もほとんど避難した中国人を指す意味で使われていた。上記した国家図書館で史料として、『江西省難民第二工廠一年来工作概況』(1939)などのように、1930年代から40年代のものが10件ほどあるが、そのうち、『難民垦殖実施辦法大綱』(1939)『绥靖区難民急振実施辦法』(1946)、『収復区各省市救済難民辦法』(1946)などから分かるように、国民党政府の訓令や法律である。「難民」はこれらの文献の中で、すべて戦火を逃れていた中国人を指す意味で用いられているのである。また、日本の国会図書館や東京大学図書館には、中国国家図書館にはない中華民国の資料も点在している。例えば、陳翰笙(ほか、1930)が編纂した満鉄調査資料である『難民的東北流亡』には、「難民簿」、「難民月報」、「山東難民」など「難民」の使用が確認できるが、本の原資料には「避難民」を用いる日本人著者・小澤茂一(1928)著『山東避難民紀実』(大連)も確認できる。さらに、例えば、沈起予(1945)著『難民船』(啓明書局)[17]で確認できるように、その37ページの日本語翻訳版では「難民」という語ではなく、終始して「避難民」を用いて貫いている。「難民」の日中両言語の使い方のズレを垣間見る感がある。

5.2辞書の見出し語の視点

「難民」は中国では17世紀、日本では18世紀の書物から確認できた。しかし、日本語においては、『和蘭字彙』(1855)やロブシャイトの『英華字典』(1866)、ヘボンの『和英・英和語林集成』(1867)や大槻文彦の『言海』(1886)、上田万年『大字典』(1920)などの辞書には見出し語として収録されていない。「難民」という概念は日本語としてそれほど日常的に使う言葉ではなかったであろう。「難民」はその後、『井上ポケット支那語辞典』(文求堂、1935)には、「〔難民〕災難ニアヘル人民」という見出し語があったが、同じ時期に刊行された『広辞林(新訂版)』(1934)には、「避難」の項目に「避難民」があったが、「難民」は収録されていなかった。国語辞書の見出し語として収録されるようになったのは、『広辞苑(初版)』(1955)が最初であったが、『難民条約』即ち『Convention relating to the Status of Refugees』(adopted July 28, 1951.entered into force April 22, 1954.)が締結され、『出入国管理及び難民認定法』(昭和26.10.4)にも用いられた後だった。

一方、中国では大型辞書である『辞海』(1979年、上海辞書出版社)でさえ、見出し語として収録されなかった。『現代漢語辞典』(1983年、商務印書館)では見出し語として収録されたが、解釈については粗末なものであった。「難民」の概念について慣習的・法律的に詳細な解釈を施し、さらに「難民」の概念は、19世紀20年代に形成されたという正確な経過の説明は、第一次世界大戦のマイナス遺産を処理するために、国連が難民事務高等弁務官を設け、難民援助に乗り出したという背景を披瀝するのは、1999年版の『辞海』を待たなければならなかった。

6..おわりに

「難民」という概念は、1951年の「難民条約」が締結されてから初めて確立されたのである。その後、国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)も設立されて、1967には、国際連合の「難民協定書」も採択された。しかし、日本は「難民条約」と「難民議定書」への承認と加盟は、1970年代末にピークを迎えたインドシナ難民が流出を受け、それぞれ1981年10月3日と1982年1月1日である。「難民」という用語も勢いよく使われるようになった。一方、「避難民」という用語は使用頻度が低いが、使われている。特に、3・11の東日本大震災が起きてから、復興庁は震災地から避難した人々を「難民」と「避難民」に区別し、「避難者」と称したことから、「避難者」の使用頻度が一気に高くなった。日本政府の気遣いが現れである。以下、「難民」「避難民」「避難者」の使用頻度を図表で示す。

年代 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 1970 1980 1990 2000 2010
難民 11 16 87 92 151 157 214 414 1264 1882 2704 1793
避難民 7 12 81 60 62 60 42 15 19 137 124 93
避難者 6 6 54 26 7 2 6 3 15 101 116 593

このように、「難民」という用語は、中国語として使われていることが指摘できる。しかし、日本語の場合には、箕作阮甫が中国の風説書から転写して用いはじめたが、その際、中国語の資料を見て用いたか、それとも「難番」の「番」を「民」に置き換えて、「難民」を作ったか、まだ確定できない状況である。さらに、日本語も中国語も、「難民」を一般用語として頻繁に使われるようになったのは、1970年代半ば以降、インドシナ難民問題が国際問題として注目されるようになってからであった。それらの問題が顕在化すようになってから、日本も前向きに受け入れるようになった。「難民条約」や「難民議定書」に加入して、「難民」はより身近な問題を表す言葉となったことから、日本語の意味はほとんど外国人難民を指す意味となる。一方、中国語の「難民」はもともと侵略を受けて戦争を逃れるために避難する人々を指す意味であって、ほとんど中国人を指す意味であったが、新中国が成立されてから、戦火を逃れる中国人の難民はなくなったのであるが、「災民」と同じ意味で用いる場合もある。また、海外から難民を受け入れたり、転送したりしているため、使用頻度が下がったものの、日本語と同じ、主に外国人の避難民を指す意味で用いられている。今日の「難民」は、Refugeeや、DP=Displaced personの対訳として用いているが、 近代の黎明期に生きた一蘭学者が、フィルモア大統領国書のunfortunate peopleに当てられた横文字の対訳語として初めて確立したと考えられることは、重要な日本の近代生成の意義があると考える。なお、中国語資料の問題点として、例えば、前掲した陳翰笙(1930)には、「難民」のキーワードで検索しても得られない資料が多いが、今後の課題としてさらに発掘し、究明する必要がある。


脚注

[1] 風説書(ふうせつがき)とは、鎖国後、幕命により、船の入港ごとに外国の情報を提出させたものを指す。「オランダ風説書」。ここでは、アヘン戦争、特にペリー来航以後のものを指す。「別段風説書」等。

[2] http://www.unhcr.or.jp/ref_unhcr/statistics/index_2014.html"、2015/03/03アクセス。

[3] 東京帝国大学文科大学資料編纂掛編纂(1910)『大日本古文書 幕末外国関係文書之一』「114」p.250。以下、『大日本古文書』シリーズを『幕末外国関係文書』と略す。

[4] 前掲『幕末外国関係文書之一』「116」p.255。

[5] 「癸丑三月、合衆国火船、于日本、商議通商之事、未遂允。依是年十月二十二日、有某友、請予同日本共議條約」。前掲『幕末外国関係文書付録之一』pp.633-634。

[6] 前掲『幕末外国関係文書之一』「116」p.255。

[7] 前掲『幕末外国関係文書之一』「119 米国使節ペリー書翰 我政府へ 白旗差出の件」では、「皇朝古体文辞 一通 前田夏蔭読之。漢文 一通 前田肥前守読之。英吉利文字 一通 不分明」(p.270)があり、この時点で、英文の判読ができなかったことを証左している。

[8] 前掲『幕末外国関係文書之一』「114」p.240、下線は筆者による。

[9] 前掲『幕末外国関係文書之一』pp.244-245、下線は筆者による。

[10] 前掲『幕末外国関係文書之一』p.249、下線は筆者による。

[11] 前掲『幕末外国関係文書之一』付録、下線は筆者による。

[12] 箕作阮甫の筆記。天保11年~安政2年(1840-55)間の風説書、外国船報告書等を収録した。全11冊、阮甫自筆多し、国立国会図書館「憲政資料室」所蔵。「虁(けい)庵」は阮甫の自称。

[13] 前掲『虁庵筆記 三』。

[14] 前掲『幕末外国関係文書付録之一』pp.447-448

[15] 中国国家図書館・中国国家数字図書館 http://www.nlc.gov.cn/2015年3月10日アクセス。

[16] 『東西洋考毎月統記傳』は癸巳年6月~戊戌年9月(1833年8月~1838年10月)の間に発行された中国の新聞紙である。黄時鑑(1997)「『東西洋考毎月統記傳』影印本導言」による。

[17] 沈起予著、上野三郎の訳だが、日本語訳はなぜか1939年、訳者も見開きでは土野三郎になっている。


引用・参考文献一覧

[1]東京帝国大学文科大学史料編纂掛編纂(1910)『大日本古文書 幕末外国関係文書之一』東京帝国大学
  「114 耶蘇紀元千八百五十二年十一月十三日(嘉永五年十月二日) 亜米利加合衆国大統領フィルモーア書翰(嘉永六年六月九日使節より浦賀奉行へ差出) 我将軍へ 使節派遣の趣意に就て」pp.238-251
  「116 六月二日米国使節ペリー書翰(九日浦賀奉行へ差出) 我将軍へ渡来の趣意に就て」pp.255-264
  「119 六月九日(?)(ママ)米国使節ペリー書翰 我政府へ 白旗差出の件」pp.269-270

[2]――――(1913)『大日本古文書 幕末外国関係文書付録之一』東京帝国大学

[3]緒方富雄(1978)「蘭学者箕作阮甫の人と学」(蘭学資料研究会『箕作阮甫の研究』思文閣、pp.23-58)

[4]大久保利謙(1978)「官学者・幕吏としての箕作阮甫」(蘭学資料研究会『箕作阮甫の研究』思文閣、pp.59-102)

[5]呉秀三(1914)『箕作阮甫』大日本図書

[6]斎藤毅(1977)『明治のことば―東から西への架け橋―』講談社

[7]佐藤亨(1986)『幕末明治初期語彙の研究』桜楓社

[8]杉田成卿(1885)『梅里余稿』杉田盛出版人

[9]陳翰笙(ほか、1930)編『難民的東北流亡』国立中央研究院社会科学研究所

[10]沈起予著、上(土)野三郎(1939)訳『難民船―戦火を避けて落ち行く難民の群を見よ』森本書院。

[11]箕作阮甫(1840-55)『虁庵筆記 三』国会図書館憲政資料室蔵、2001年10月調査

[12]黄時鑑(1997)「『東西洋考毎月統記傳』影印本導言」(『東西洋考毎月統記傳』影印本、中華書局)




張 厚泉 東華大学