15/03/06
  東西思想の邂逅――18世紀在華イエズス会士の報告を中心に
                                                        

新居 洋子

 

内容紹介

16~18世紀、中国にわたったイエズス会宣教師は「中国」をいかに翻訳したのか。そこに映し出されたものとは何か。アミオ『孔子伝』を中心に分析する。

本文

在華イエズス会士の報告とは

  東西思想交流史において、16~18世紀は実に画期的な意味を持つ。「東」の大国である中国と「西」のヨーロッパの間における思想交流が、それ以前とは比較にならないほど劇的に本格化した時代だからである。この交流の最も主要な媒介者は、中国で活動したイエズス会宣教師、いわゆる在華イエズス会士である。周知の如く、この時代に中国とヨーロッパを往来した人々のなかには、貿易商や旅行家、イエズス会以外に所属するカトリック宣教師も多く含まれている。しかし思想交流の領域に注目した場合、最も重要な役割を果たしたのは紛れもなく在華イエズス会士である。在華イエズス会士は、16世紀末に中国での活動を開始し、1770年代における教皇によるイエズス会解散命令、および当該命令の在華イエズス会士に対する発効を経て、19世紀初めに最後の在華イエズス会士が死去するまで、北京宮廷を中心に活動を継続した。

  彼らは、東インド巡察師ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539-1606)の意向をうけ、初期在華イエズス会士リッチ(Matteo Ricci, 漢名=利瑪竇, 1552-1610)らが確立した「適応政策」を基本方針とした。これは滞在地の文化、習俗を研究し、できる限りそれに適応した形で宣教を進めようとする独特の政策で、他のカトリック修道会からはしばしば妥協的という非難を浴びた。適応政策のもと、在華イエズス会士は古今中国の思想や歴史、文化、政治体制について、漢文/満文で書かれた様々な中国文献を利用しながら研究した。その成果は、(1)漢文/満文による西学書(ヨーロッパの学術や自然科学、カトリックの教義を解説した書物)の出版、(2)中国に関する膨大な報告の作成およびヨーロッパへの送付、という形で現れた。(2)に関しては、これらの報告がヨーロッパで出版され、広く流通することも少なくなかった。在華イエズス会士の報告は、当時のヨーロッパにおける中国理解の基礎となった。

  すなわち16~18世紀ヨーロッパ人は、常に在華イエズス会士というプリズムを通して、「中国」を見たのである。この「中国」がいかなる像を結ぶかは、大部分、在華イエズス会士が中国をいかに翻訳するかにかかっていたといえよう。そしてこの、在華イエズス会士による翻訳は、当時の中国とヨーロッパ双方の思潮と相互作用しつつ、練り上げられた。つまり、在華イエズス会士が翻訳した「中国」は、他ならぬ在華イエズス会士自身を様々な仕方で映し出している。本稿ではその一端を示したい。

本稿の題材

  本稿の主な題材は、18世紀後半に活動したフランス出身在華イエズス会士アミオ(Jean-Joseph-Marie Amiot, 漢名=銭徳明, 1718-1793)による『孔子、すなわち俗にコンフュシュス〔孔夫子〕と呼ばれ、中国の哲学者のうち最も名高く、古代の教えの復興者である人物の生涯(La vie de Koung-tsee, appellé vulgairement Confucius, le plus célébre d'entre les philosophes chinois, et restaurateur de l'ancienne doctrine, 以下『孔子伝』)』である。アミオ『孔子伝』は、孔子の言行を年代順にまとめた長大な伝記で、1784年にヨーロッパへ送られた。その手稿はフランス国立図書館所蔵、資料番号=BN: ms. NAF 4420、全468頁にわたる。さらに、1786年発行の『中国人の歴史、科学、技芸、風俗、慣習などに関するメモワール(Mémoires concernant l'histoire, les sciences, les arts, les mœurs, les usages, &c. des Chinois, 以下『メモワール』)』第12巻にも収録された。『メモワール』全16巻(1776-1814)は、18世紀後半に北京宮廷で活動した在華イエズス会士を主とする報告集で、彼らと盛んに文通を行ったフランス国務卿ベルタン(Henri-Léonard Jean Baptiste Bertin, 1719-1792)の指示により、パリで出版された。

『孔子伝』以前の諸著作と典礼論争

  アミオ『孔子伝』以前にも、孔子を主題とする著作がヨーロッパで流通していた。その最も主要なものは、『中国の哲学者孔子(Confucius Sinarum Philosophus)』(1687)である。これは、17世紀の在華イエズス会士による共同著作である。その思想的内容については、各先行研究(Mungello, Curious Land; Thierry Meynard, Confucius Sinarum Philosophus (1687), 2011; 井川義次『宋学の西遷』2009年)に詳しい。これら先行研究の大きな成果は、当該著作が朱子学的内容を反映していることを解明した点にある。『中国の哲学者孔子』の著者たちは、朱子学者=「無神論者」などと呼び、宋学的理気論を否定的に捉えるにも関わらず、張居正の『直解』シリーズに依拠し、(『孟子』を除く)四書の翻訳を主体とした。孔子を儒教の確立者、すなわち中国を代表する「哲学者」として、特に高く評価した背景には、こうした朱子学の影響があったといえよう。

  『中国の哲学者孔子』の影響力はまことに大きく、17~18世紀前半には、この著作を主な情報源とする孔子関係著作が、ヨーロッパ知識人によって多く編まれた。ただしこれらは、様々な形で典礼論争に巻き込まれた。典礼論争の発端は、初期在華イエズス会士が適応政策のもと、儒教経書に現れた「天」や「上帝」はキリスト教の神に等しいとする天主=上帝説を打ち出し、中国人キリスト教信者の孔子崇拝、祭天儀礼や祖先祭祀の実践を許容したことにある。これがイエズス会内外で激しい非難の的となり、18世紀前半には、歴代教皇によって中国人信者による祭天儀礼および祖先祭祀が禁止された。また『中国の哲学者孔子』と同じく著名な、在華イエズス会士ル・コント(Louis le Comte, 漢名=李明, 1655-1728)の『中国の現状に関する最新報告(Nouveaux Mémoires sur l'état présent de la Chine)』(1696)が、天主=上帝説に連なる内容を多く含むとして、パリ大学神学部(ソルボンヌ)の検閲対象となった。

  こうしたなか、例えばフランス高官のシルエット(Étienne de Silhouett, 1709-1767)は『中国人の政治と道徳に関する一般的知識(Idée générale du gouvernement et de la morale des Chinois)』(1729)を著した。恐らくは宗教的論争から距離をとるため、主に「政治と道徳」ならびに自然法の大家として孔子を評価する、という慎重さを見せたにも関わらず、シルエットはジャンセニストによる非合法誌『教会新報』から激しい批判を浴びる羽目に陥った。その理由は、シルエットが、自身の参考文献として公言した『中国の哲学者孔子』のみならず、隠れてル・コントの著作にも依拠したために、教皇ならびにソルボンヌの決定に反する内容が多く紛れ込んでいる、というものだった。

  またヨーロッパ在住のイエズス会士デュ・アルド(Jean Baptiste Du Halde, 1674-1743)も、著名な『中国およびタタール中国の地理、歴史、年代学、政治、そして自然に関する地誌(Description géographique, historique, chronologique, politique, et physique de l'Empire de la Chine et de la Tartarie chinoise)』(1735)のなかで、主に『中国の哲学者孔子』に依拠しつつ、四書五経、および孔子の伝記について解説している。デュ・アルドの筆致で注目すべきは、水を万物生成の原理としたタレスや、魂の神性と死後の応報を説いたピタゴラスの如く「自然の不可知である秘密」や「普遍の信仰に関する問題」について云々することなく、議論の対象を「全ての人間にとっての原則」すなわち道徳に限定した、という点において孔子を評価したことである。このように、孔子を世俗的領域における偉人(哲学者)として描き、カトリックの神聖性と矛盾しないことを暗示するのは、シルエットの著作と共通する特徴である。

アミオ『孔子伝』と中国文献の対照

  1742年、教皇ベネディクトゥス14世(Benedictus XIV, 1675-1758)が、中国人信者による孔子や天、祖先の祭祀を禁じ、在華宣教師にその遵守を誓わせる勅書を発するに至り、典礼論争はいったん決着を迎え、以後徐々に沈静化する。そのなかで出版されたのが、アミオ『孔子伝』である。

  アミオはいかなる中国文献に依拠したのか。紙幅の関係上、ここでは分析の結果のみ簡潔に述べる。アミオ自身は、lun-yu(『論語』)、Kia-yu(『〔孔子〕家語』)、ché-Ki(『史記』)、Ché-Ki-ché-Kia(『史記集解』)の他、Kiué-ly-tché(陳鎬輯、孔子第63代孫孔貞叢著『闕里誌』)、Chen-men-ly-yo-toung(張言行『聖門礼楽統』)、See-chou-jin-ou-Pè-kao(許胥臣『四書人物備考』)といった明清代の出版物を参照したと述べる。確かに『孔子伝』はこれらの文献に一致する内容を多く含むが、これらは断片的一致であり、規模と構成の点で全体が一致する文献は無い。実は、アミオが挙げたものの他に、内容、規模、構成の点で大部分一致する文献がある。それが明代以降、様々な版本が派生した『孔子聖蹟図』である。管見の限り特に近いのは、全九十九図を備え、1994年に湖北教育出版社から影印出版された長陽県図書館所蔵本である。その一方で、『孔子聖蹟図』と一致しない内容および構成も若干見られるが、その多くは『聖門礼楽統』孔子世家に一致し、この文献が補足的に用いられたことが推測される。

  しかし『孔子伝』には、『孔子聖蹟図』にも『聖門礼楽統』にも対応箇所の見当たらない部分がある。興味深いのは、これらの部分に一致する内容が、『孔子家語』の郊問、好生、問礼、大昏解、五儀解の五篇に集中して見られるばかりでなく、原文から逸脱した翻訳もこの部分に集中的に現れる、という点である。郊問以下の五篇は、主に天子の祭祀儀礼をめぐる孔子の議論から構成されるが、『孔子家語』原文とアミオ『孔子伝』における翻訳を比較すると、主に以下二つの点で『孔子伝』が原文から大きく逸脱していることが分かる。(1)原文は「上帝」と「天」の可視性/不可視性を問題としないが、『孔子伝』における孔子は、天を自然物としての蒼天と上帝の両義から成る存在とする。すなわち、ここでの天とは、目に見える様々な天象によって、不可視の上帝の意志と恩恵を表現する。(2)原文は、天子による祭天儀礼(上帝祭祀)と祖先祭祀について、祖先を上帝に配することで「共に祭る」ことに重点を置くが、『孔子伝』における孔子は、逆に両者の区別を明確にし、前者を第一の義務、後者を第二の義務として両者の等級を明確に上下する。さらに、この等級の上下の目印として、犠牲奉献の有無、すなわち祭天儀礼が犠牲奉献を伴い、祖先祭祀が伴わないことを強調する。このように、祭天儀礼のみが犠牲奉献を伴うといった記述は『孔子家語』原文には見当たらない。

  以上の逸脱は、他の大部分が中国文献に忠実であるのと鋭い対照をなす。すなわち、この部分が意図的に、アミオの独創によって改変されたことは明らかである。

アミオの翻訳が反映するもの

  上記の、アミオの独創による(1)(2)の逸脱は、結局何を示すのか。実は両方とも、典礼論争と強い関わりを持つ。前述の如く、典礼論争においてカトリック教会は天主=上帝説を否定したが、その主な理由は、儒教における天=可視的、自然物としての蒼天に過ぎず、天ならびに天と等しい上帝を祭ることは偶像崇拝に他ならない、すなわちカトリックの神と同一であるはずがない、とみなされたことにある。また中国における犠牲奉献も、主な論争の的だった。カトリックにとって「真の神を持たない崇拝儀礼は全て偶像崇拝」であり、天地祖先に対する犠牲奉献は全て「瀆聖的偶像崇拝」にあたる。そのため、中国皇帝による犠牲奉献を伴った天地祖先に対する崇拝儀礼も、キリスト教に反する偶像崇拝とみなされた。

  上の内容に、『孔子伝』の当該部分を対置させると、アミオの主張は明らかとなる。つまり、中国における祖先祭祀が犠牲奉献を伴わない、祖先に対する「純粋な感謝の表明」だとすれば、カトリックの神への信仰と矛盾しない世俗の祭りに他ならず、偶像崇拝にはあたらない。その一方で、犠牲奉献を伴う祭天儀礼は、目に見える蒼天、天象を経由して、実は不可視の創造者に対する崇拝を表明する祭りであるとすれば、やはり偶像崇拝とは言えない。こうした説明の仕方は、目に見える自然物の生成変化を通して神の実在が証明される、とするカトリックの自然神学的証明を彷彿とさせるものでもある。アミオが天ならびに上帝を不可視の創造者と解釈する以上、それがカトリックの神と結び付く可能性は濃厚である。すなわちアミオの天ならびに上帝に対する翻訳は、かつてカトリック教会によって否定された天主=上帝説の再提示と捉えられるものを含んでいるのである。

  さらに前述の如く、シルエットやデュ・アルドは、カトリック教会との正面衝突を避けるため、もっぱら孔子の業績における世俗的側面を強調した。これに対しアミオは、『孔子家語』のなかから天子の祭祀儀礼に関する内容を集中的に追加し、さらに上述の如くカトリックの神を彷彿とさせる天、上帝解釈を孔子に語らせている。ここに描かれた孔子像は宗教的色彩を濃厚に帯びている。これはアミオが参考文献とする『孔子聖蹟図』や『聖門礼楽統』、『闕里誌』などに表れた、明清代中国における孔子のある種の神聖化を反映しているのかもしれない。いずれにせよ、『孔子伝』に置いて練り上げられた孔子像が、当時アミオを取り巻いていたヨーロッパと中国双方の思想的背景を濃厚に反映していることは、確かである。




にい ようこ:東京大学東洋文化研究所CPAG特任研究員
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