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文明の比較から境界の学へ ――13世紀北西イランにおける数学・天文学テクストから「他者理解」に迫る―― |
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内容紹介 本文 いま我々は「グローバル化の時代」に生きているとされる。その含意が何であるにせよ。それ以前の時代に比べてはるかに他国籍・他文化の人々と接する機会が増えたことに異論の余地は無いであろう。こうした時代に、文化的背景の全く異なる「他者」と如何に向き合い、理解しあい、共生していけばよいのか。地球規模で解決すべき問題が山積する昨今、「他者理解」をめぐる問題は、我々にとって愁眉の課題である。究極的には人間理解を目的とする人文知に、その解決――あるいは少なくともその道筋をつけること――が求められている。こうした「他者理解」に迫るべく人文知がとる方法論は幾多もある。文献から過去の事例を引き出し、検討していくことも、そうした方法論の1つだ。現代の趨勢は、もちろん過去の認識なしには理解できず、さらに時を隔てるにつれ利用できる資料は限られたものとなってくる。ましてや映像や音声が残る世紀以前の話ともなると、書かれたものに多くを頼らざるを得ない。いわゆる「歴史学」がカヴァーするのは多くの場合、こうした過去であり、状況なのである。そしてこの場合に歴史学が扱うことになる文字や言語というもの自体が、それを育んだ集団心理なり社会背景なり――これらに「文化」という言葉を充てることもできるだろう――に強く規定されている。従って、書かれたものは、こうした書き手の文化を強く反映したものにならざるを得ず、その埒外にある異質なものを表象する際には、「他者理解」のありようというものがそこに顕在化することになる。こうした事実から、過去に書かれたものを通じて「他者理解」の様相を読み取ることの意義や有用性と言うものをそれなりに主張することが出来るかもしれない。 歴史学と言ってもその対象は実に様々であり、テーマを「他者理解」に限っても、さまざまな時代・地域を設定しうる。ここでは、そのなかでも13世紀から14世紀にかけてユーラシア規模で空前の陸上帝国となったモンゴル帝国から「他者理解」の様相を捉えることを試みたい。モンゴル帝国は、その規模ゆえにこれまで全く異なる伝統のもとで文化を培ってきた域圏同士が政治的に統合され、接触を持った時代として特徴付けられる。従って、この時代に書かれたものからはさまざまな形で「他者理解」が現れてくる。 そして実際のところ、これまでにもモンゴル帝国時代のユーラシアに関して、「他者理解」の様相はさまざまに描かれてきた。それはまず、人によって伝播(diffusion)されることとなった物や情報についての研究として立ち現われる。19世紀中葉から20世紀初頭にかけて、それは多言語に精通した「オリエンタリスト」の勇躍する研究領域であり、例えばモンゴル時代にユーラシア東西を旅したマルコ・ポーロについてのポール・ぺリオ(1878–1945年)の詳細なノートはこの種の洞察に満ちている(※1)。しかし、1950年代以降、文化人類学の領域において、伝播した事物以上にそれを伝え、受け取った人間の変容に重きを置こうとする研究が現れ始める。異文化や他者との接触によって、人間は相互に影響を与えあい変容を被ることとなる。アカルチュレーション(acculturation)と名付けられたこの種の現象を捉えようとする研究が、伝播よりも「文化接触/他者理解」に迫る方法として重視されていった。モンゴル時代に関しては、この時代の西アジア史研究を牽引したジャン・オバン(1927–1998年)が、その地域の社会動態研究にこの概念を援用し、侵入者であるテュルク・モンゴル系の為政者と在地のイラン系官僚との相互接触を二重の文化受容/変容(double acculturation)として叙述した(※2)。ただし、この時代の文化変容は多地域・多要素・多言語に亘り、基本的には一対一のケースを扱うアカルチュレーションの議論が必ずしも馴染む局面ばかりではなかった。これに自覚的であったトーマス・オルセンは、モンゴル時代ユーラシアの文化接触を幅広く扱った傑作『モンゴル期ユーラシアにおける文化と征服』(※3)のなかで、為政者であったモンゴルを媒介(agency)と見なし、彼らが関わることで接触・変容していくこととなったこの時代の人・物・情報を包括的に論じ、この書は以後現在に至るまでこの分野の参照軸となっている(※4)。 ただ、この記念碑的著作が刊行されてすでに15年近くが経とうとしており、我々がそれを乗り越えていくべきこともまた自明となっている。この作品の問題点は――歴史学そのものの問題点と言えるが――書かれたものに見られる文化接触を補足した結果として、帝国の西と東、ペルシア語テクストと漢語テクストの比較が主となり、結果としてその言語圏に結び付けられるイランと中国との文化交渉という構図となってしまったことが挙げられる。先に地域や言語圏あるいは「文明」のような“硬いもの”を措定したうえでそれらの相互比較を行う手法は、その域圏が言語・文字の別とも対応していることが多く、文字史料を扱う歴史学的な分析に極めてよく馴染む(※5)。しかし、こうした比較は時としてその域圏の内側にある多様性を捨象し、本質主義的な前提でもって比較に臨んでしまう危険性を孕んでいる。そもそも一見自明なものに見える地域概念も、その多くは近代期に「必要に応じて」概念形成されていったものであった。その目的は国民国家の形成であったり、歴史の勝者を目的論的に理由づけるためであったりと様々である(※6)。例えば秦代以降に多様性に富む広域な地域を漢字圏として包括していった「中国」や、「イラン」という言葉では括りきれないほど広域にリンガ・フランカとして通用していたペルシア語が表象する世界を、「中国」や「イラン」の語でまとめあげることは難しく、ましてやそれら二者を前提として比較を行うことの限界には自覚的でなくてはならない(※7)。 では、いかにしてこの種の問題を乗り越え、「他者理解」の問題に迫ることが出来るのか。こうした「文明の比較」のような構図を超えて「他者理解」の問題を取り扱う手段として「接触領域(interface)」というものをここでは取り上げたい。「接触領域」とは、地理的・政治的その他さまざまな要因でもって、異質な文化要素やそれを体現する人々が混じりあった場である。そこでは異文化接触が恒常的に起こっており、文明のような比較軸を措定することなく、その場のコンテクストを前提に「他者理解」の様相に迫ることが出来る。もちろん、この種の試みは歴史学でもすでに為されている。モンゴル帝国にも密接に関わる事例としては、森安孝夫が遊牧民と定住民が交錯する地帯を、東方ユーラシア史の展開を見る上で極めて重要な役割を果たしてきた“接点”と見なし、これに「農牧接壌地帯」の名を付している(※8)。 ただし、文化接触の問題を集中的に見るうえでは先の「農牧接壌地帯」のような帯状に広がる広域な地帯よりも、より場を絞った方が生産的であるように思われる。そして、モンゴル帝国期にはこのような分析に適した「接触領域」が存在する。それが現在の北西イランに位置するマラーガ天文台ということになる。モンゴル帝国のイラン政権であったイル・ハン朝の治世下(1256年頃–1336年以降)において中心都市として繁栄を享受したマラーガ(Marāġa)には、当時世界に類を見ない規模の天文台が敷設された。天文台には多くの学者や書籍が集められ、一大学術センターを形成してゆく。天文台は学者たちの往来の拠点となり、少なくとも50年以上に亘ってさまざまな背景を持つ人々が集う「接触領域」であり続けた(※9)。 そして、このマラーガ天文台という「接触領域」において「他者理解」を知る上で鍵としたいのが「幾何学で宇宙を表現する」という思考/志向ということになる。2世紀のアレクサンドリアにおいてプトレマイオス(Πτολεμαῖος: 83年頃–168年頃)が数理天文学の集成である『アルマゲスト(Μαθηματική σύνταξις)』を完成させて以降、彼が体系化した幾何学による天体モデルは、西方ユーラシアの広範な地域において非常に強い影響力を持つこととなった(※10)。モンゴル時代において学術の中心地となったマラーガ天文台に集った学者たちの多くが最も関心を寄せていた問題も、この「幾何学で宇宙を表現する」という思考/志向に関わるものであったのである。まず、イラン生まれのムスリム知識人で君主のブレーンとなり、マラーガ天文台の建設を主導したナスィール・アッディーン・トゥースィー(Naṣīr al-Dīn al-Ṭūsī: 1201–1274年)は、9世紀にはアラビア語訳されていたエウクレイデス(Ευκλείδης: 紀元前3世紀–)の『原論(Στοιχεία)』やプトレマイオスの『アルマゲスト』およびこの二大書の間に学ぶべき諸テクストを「再述(taḥrīr)」し、同時代の人々に幾何学的天文体系を学びやすく、また先人たちのモデルの問題点をも明示した(※11)。従って、この「再述」テクスト自体が時代を超えた「他者理解」の一類型と言えるが、この再述テクスト群についての研究はまだまだ不十分なものに留まっている。 さらに、同時代においても、トゥースィーによるこの種の成果を学びに来た学者は、ムスリムだけではなかった。シリア正教会のバルヘブラエウス(Barhebraeus: 1286年没)はマラーガ天文台を訪れ、そこで――おそらくはトゥースィーによって「再述」された――『原論』と『アルマゲスト』を「解決した(ḥalla)」ことを伝えている(※12)。彼の手になるシリア語天文テクストを詳細に研究することで、彼の学び捉えた宇宙論を知ることが出来るだろう。加えて、マラーガ近郊の政治・商業拠点であったタブリーズ(Tabrīz)においては、ビザンツ帝国から来たギリシア語叙述家グリゴリオス・キオニアデス(Γρηγόριος Χιονιάδης: 1320年頃没)が、おそらくは「シャムス・アッディーン・ブハーリー(Šams al-Dīn al-Buxārī)」と読めるサンプス・プハリス(Σάμψ Πουχαρής)(※13)から天文学・占星術を教授され、その成果が後代ギリシア語『ペルシア集成(Περσική σύνταξις)』としてまとめられたとされる(※14)。この「シャムス・アッディーン」については従来、アラビア文字で書かれた(であろう)彼の著作は知られていないとされてきたが、近年この人物をイル・ハン朝の後期に活躍した天文学者シャムス・アッディーン・ワーブカナウィー(Šams al-Dīn Muḥammad al-Wābkanawī)に比定する案が提示された(※15)。彼の手になるペルシア語天文表『スルターンの正されたる天文表(Zīj-i Muḥaqqaq-i Sulṭānī)』(1320年頃編)と先の『ペルシア集成』との比較検討が、この異文化対話の実相について新たな光を投げかけてくれるに違いない。 加えて、マラーガ天文台の学者と接触した人物たちの中には宇宙は幾何学で表現される“べき”とはそもそも全く考えていなかった者もいた。キタイ(Qiṭā; 北中国の意)から来た「フー・ムン・チィ(傅孟質?)」もそういった学者たちの一人である(※16)。先述のトゥースィーは、この人物との「天文対話」を通じて中国暦を習い、それを自らが編纂した『イル・ハン天文表(Zīj-i Īlxānī)』(1272年編)に組み入れた(※17)。その中に見られる1要素は、トゥースィーが「キタイの賢人」から習ったものではなく、自らの天文表からとったものである可能性が高いことが明らかになっている(※18)。そして、先のワーブカナウィーと同じくイル・ハン朝の後期に活躍した学者であるニザーム・アッディーン・ニーサーブーリー(Niẓām al-Dīn al-Nīsābūrī: 1330年頃没)は、トゥースィーの天文表のペルシア語注釈書『イル・ハン天文表の真実の解明(Kašf-i Ḥaqā’iq-i Zīj-i Īlxānī)』(1308/09年編)において、まさにその部分を幾何学的な円運動モデルでもって解釈しているのである。この部分のテクストは、全く異なる天文学的伝統で育まれたものを、自らの幾何学的宇宙のうちに理解しようとした営為の一端を明らかにするものであり、是非とも研究してみたい。 このように、「接触領域」たるマラーガ天文台やその近隣領域において幾多存在する「他者理解」の実相を知るための史料のほとんどは、依然として研究されていない。これらの実例を、マラーガ天文台という場の社会・政治・文化的文脈と併せて精査していくことで、当代の「他者理解」のあり方が相当程度鮮明に見えてくるに違いない。そのありようがいかなるものとなるのか、現時点で言えることは少ないが、「他者理解」という人類普遍のテーマに資するものとなることは疑いない。13世紀北西イランの天文台という極めて限定的ながら、多くの興味深い事例に満ちた「接触領域」についての研究紹介をここでは、ある種の「最前線」として提示させていただきたい。 ※1 Paul Pelliot, Notes on Marco Polo. 3 vols. Paris: Imprimerie nationale. 1959–1973. ↑ ※2 Jean Aubin, Émirs mongols et vizirs persans dans les remous de l'acculturation. Paris: Association pour l'avancement des études iraniennes, 1995. ↑ ※3 Thomas Allsen, Culture and Conquest in Mongol Eurasia. New York: Cambridge University Press, 2001. ↑ ※4 今年(2014年)の6–7月にエルサレムで行われたモンゴル帝国史の国際カンファレンス“Mobility and Transformations: New Directions in the Study of the Mongol Empire”においても、オルセンの功績が折に触れて強調されていた。 (http://mongol.huji.ac.il/projects/international-conference) ↑ ※5 文化世界としての文字圏の相互比較が持つ可能性は、例えば近刊の鈴木董のエッセイにおいて強調されている(鈴木董「比較文化史的人類文明史としての「世界史」への展望と文字世界としての文化世界」『史学雑誌』123/1 (2014): 35–37)。 ↑ ※6 「イスラム世界」という概念が、他の地理概念との比較を可能にするような「世界」として近代期に創造されていった過程を追う羽田正のモノグラフは、この問題を考える上で極めて示唆に富んでいる(羽田正『イスラーム世界の創造』東京大学出版会, 2005)。 ↑ ※7 特に「イラン」の事例に関して、森本一夫が論じる「ペルシア語文化圏」とは、ペルシア語を書く/書かないことに焦点を絞り、この言語が歴史的に有した広がりを見通すことで、ペルシア語を公用語とする現在の国民国家イランによる、過去の誇大解釈に再考を促すものともなっている(森本一夫「序章 ものを書くことから見たペルシア語文化圏――その面的把握をこえて――」森本一夫(編)『ペルシア語が結んだ世界――もうひとつのユーラシア史』北海道大学出版会, 2009, 1–36)。 ↑ ※8 森安孝夫『シルクロードと唐帝国』講談社, 2007, 59–62. ↑ ※9 マラーガ天文台については、いまだにイスラム圏の天文台を包括的に扱ったアイドゥン・サユルの古典的業績のなかの記述が、最も詳細なものと言える(Aydın Sayılı, The Observatory in Islam and Its Place in the General History of the Observatory. Ankara: Türk Tarih Kurumu Basımevi, 1960, 189–223)。インターネット上では例えばUNESCOのサイトが、その位置や簡史を載せている。 (http://www2.astronomicalheritage.net/index.php/show-entity?identity=29&idsubentity=1<) ↑ ※10 プトレマイオスによる天体モデルについては、例えばライス大学のガリレオ・プロジェクトにある解説が参考になる (http://galileo.rice.edu/sci/theories/ptolemaic_system.html)。 ↑ ※11 イスラム圏の数学教育についての論稿のなかで、ソーニャ・ブレンチェスは、トゥースィーによる『原論』の再述テクストを幾何学の教書の「ベストセラー」と評している(Sonja Brentjes, “Teaching the Mathematical Sciences in Islamic Societies: Eighth-Seventeenth Centuries.” In Handbook on the History of Mathematics Education, edited by A. Karp & G. Schubring, 85–107. New York: Springer, 2014)。 ↑ ※12 Hidemi Takahashi, “Barhebraeus: Gregory Abū al-Faraj.” In The Biographical Encyclopedia of Astronomers, Springer Reference, eds., T. Hockey et al., 94–95. New York: Springer, 2007. (http://islamsci.mcgill.ca/RASI/BEA/Barhebraeus_BEA.htm) ↑ ※13 この人物ギリシア語名およびその転写表記に関しては、坂本邦暢氏の協力を得た。ここに記して感謝申し上げる。 ↑ ※14 キオニアデスや、この時代におけるペルシア語とギリシア語の天文学文献の関わりについては、アリグザンダー・ジョウンズによる古代後期およびビザンツ天文学についての概説が参考になる(アリグザンダー・ジョウンズ, 山本啓二(訳)「ギリシア後期およびビザンツの天文学」クリストファー・ウォーカー(編), 山本啓二 & 川和田晶子(訳)『望遠鏡以前の天文学――古代からケプラーまで――』恒星社厚生閣, 2008, 101–116)。 ↑ ※15 Mohammad Mozaffari & Georg Zotti, “Ghāzān Khān’s Astronomical Innovations at Marāgha Observatory.” Journal of the American Oriental Society 132/3 (2012): 395–425. 2007年刊行の『天文学者事典』においては、別人物としてそれぞれ項が立てられている(Raymond Mercier, “Shams al-Dīn al-Bukhārī.” In The Biographical Encyclopedia of Astronomers, Springer Reference, edited by Thomas Hockey et al., 1047–1048. New York: Springer, 2007: http://islamsci.mcgill.ca/RASI/BEA/Shams_al-Din_al-Bukhari_BEA.htm; Benno van Dalen, “Wābkanawī: Shams al-Munajjim [Shams al-Dīn] Muḥammad ibn ʿAlī Khwāja al-Wābkanawī [Wābkanawī].” In The Biographical Encyclopedia of Astronomers, Springer Reference, edited by Thomas Hockey et al., 1187–1188. New York: Springer, 2007: http://islamsci.mcgill.ca/RASI/BEA/Wabkanawi_BEA.htm)。 ↑ ※16 従来まったく明らかでなかったこの人物について、宮紀子は新出史料と「字(あざな)」への注目から、この人物の比定に重要な新説を提示した(宮紀子「東から西への旅人:常徳――劉郁『西使記』より――」窪田順平(編)『ユーラシア中央域の歴史構図――13–15世紀の東西――』総合地球環境学研究所, 2010, 167–190)。 ↑ ※17 Yoichi Isahaya, “The Tārīkh-i Qitā in the Zīj-i Īlkhānī: the Chinese Calendar in Persian.” SCIAMVS 14 (2013): 149–258. ↑ ※18 Isahaya, “The Tārīkh-i Qitā in the Zīj-i Īlkhānī,” 202. ↑ |
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★ いさはや よういち:東京大学東洋文化研究所所属日本学術振興会特別研究員.研究分野:科学史・モンゴル帝国史. | ||
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