14/08/29 | ||
『京報』と外国人 −1870年代の中国飢饉の情報伝播を中心として
|
||
|
||
内容紹介 本文 『京報』とは、中国明朝から出された法令や奏聞などをまとめて掲載した小冊子である。起源は唐代にあり、宋代に公式に発行される『邸報』という官文書となった。清朝政府は明朝の伝統を発展させ、北京における『報房』という民間の印刷所に『京報』の刊行と販売の権限を与え、それから、『京報』は半官半民(semi-official)の出版物になった。『京報』は1907年に『政治官報』に、さらに1911年に『内閣官報』と名称を改められ、西洋人はこれを『Peking Gazette』と呼んだ。 『京報』の体裁や価格などが時代によって変動した。清朝同治年間以後(1860s)に刊行された『京報』のは、通常、木版活字で10〜12葉、表紙は黄色だが、そこに赤色で『京報』の印が押されている。はじめに皇族の動向が、次に勅諭が掲載され、さらに官僚らの奏聞が続いた。全ての内容は当日の「邸報」で掲載された内容の抄録であった。今までの研究において、清朝光緒年間(1870s〜20世紀初頭)に、『京報』が毎日一万近い冊を刊行され、定価は毎册十文だと思われている。「清朝光緒年間に、江南地域において、下層労働者の一食は五十文ぐらいだった」という社会状況を参照し、同時代の一般的人々にとって、『京報』は値段が高い物ではないと見えただろう。 『京報』の読者達が身分により二つのグループにわけられる。一つ目の中国人の読者は、主として官僚及び男性知識人であり、さらに商人や知的な女性も読者の一部と思われる。二つ目は外国人の読者である。明朝から清朝末まで、中国に渡ってきた韓国人、ロシア人、フランス人、イギリス人、アメリカ人などの外国人のうちに、『京報』を読んだり、翻訳したり、利用したりした習慣を有する人々があった。 今までの研究において、『京報』の最初の翻訳者はフランスの伝道師Cyr Contancin(1720年代)、次は1740年代のロシアの翻訳官Илларион Калинович Разсохинだと思われている。19世紀初頭から、『京報』の翻訳者はイギリス人の宣教師と外交官が担うようになった。第一次アヘン戦争の頃に、『京報』の訳文は広州や香港などのイギリス人が経営した雑誌と新聞紙に掲載された。1870年代以後、東アジアで最も影響力のあった新聞の一つ『The North-China Daily News』(上海発行の英字紙)は『The Abstract of Peking Gazette』(『京報摘要』、1871〜1899)というコラムを設定し、定期的に『京報』の訳文を掲載するようになった。そのコラムは最も影響力がある『京報』翻訳本になった。 19世紀のイギリス人などの西洋人の間に、『京報』の性質に対する認識が微妙に異なっていたようだ。Peking Gazetteという訳名から見ると、『京報』は当時のイギリス人にとって政府公報(Gazette)の類いのものと思われていた。また、『京報』はイギリス人の新聞紙(Newspaper)の類いのものと考えられていた。 それでも『京報』は最も重要な清朝の官方情報源(source of official information) であるという認識を、19世紀のイギリス人、さらにはヨーロッパとアメリカ人が共有していた。19世紀の英字新聞では、「中国人の本音は『京報』から見える」、「『京報』は中国の皇帝の代弁者だ」、「中国人は、皆が『京報』の読者であっている」という風に様々な評価があった。ここで記した新聞の内容はすべて史実ではないかもしれないが、その評価から19世紀のイギリス人から見る『京報』の価値をある程度見ることができる。 19世紀後半に、イギリス人などの西洋人の『京報』に対する認識を中西交渉に影響を与えていくことになるのである。第二次アヘン戦争(1850〜1860)の頃に、英仏聯軍は北京から撤兵を準備していた時、総司令官のBruceは「清朝側は、条約の議定に関する事情など「京報」で掲載させる後、こちらが撤兵します」と強く要求した。それを初めとして中西交渉の場合、イギリスやフランスなどの国の外交官らは、しばしば「清朝側は、今回の交渉に関する事情などを京報に掲載するように」と要求した。こうして、イギリス人やフランス人の外交官らにとって、『京報』は「情報源」であったのみならず、「外交手段」の一つともなっていた。 1870年代以後、『The North-China Daily News』は定期的に『京報』の訳文を掲載するようになった。そのため、政治家以外の一般的なイギリス人が、中国に関する情報をえるようになり、中英外交に大きな影響を及ぼした。ここでは、1870年代の世界的な飢饉の際にみられた、イギリス人の対中救援活動を例として、当時の中英外交の形の一端を明らかにしたい。 1870年代後半、世界の各地でエルニーニョが引き起こした旱魃と飢饉が同時発生的に起きた。中国の北部(山東、山西、直隷(今の河北と内蒙古の一部)、湖南などの省)、韓国の南部、インド、アフリカ、南アメリカの各地で、数百万に及ぶ死者が出た。その中に、中国は最悪の被災地だったようだ。当時のアメリカの新聞は「中国北方の飢饉は、過去50年の間に、人類にとって最も怖い経験と言える」(※1)と評論した。 中国の被災地での救援組織は三つに分かれていた:一つは政府側の救援組織、すなわち清朝朝廷と被災地の地方政府である。同時に、中国商人、知識人などが、地方の有力者をリーダーとして民間救援組織を設立した。まだ、在中イギリス宣教師をリーダーとして、外国人の救援組織が設立され、中国、日本、シンガポール、イギリス、アメリカなどの世界各地の英字新聞紙を通じて国際社会に呼びかけて救援金が募られた。 その際に、イギリス人にとって、中国の被災情報の取得は大きく分けて二通りの方法で行われるようになった。第一は、中国東南諸港町(当時の条約によって、それはイギリス人が暮らしていける地域)に滞在していたイギリス人の報告である。中国の飢饉が起きた最初の一年半間(1876年〜1877年)、イギリス人が直隷省の天津と山東省の芝罘(今の烟台市の一部)の地元の宣教師や駐在通信員らの報告によってのみ中国の被災状況を理解していた。結局は、中国において、内陸の山西省は最悪の被災地であったが、1877年秋以前に、外国人の救援活動が山東、直隷省に限られていた。 第二は、『京報』からの情報である。1877年6月初頭、鮑源深という山西省の巡抚(地元の官僚)からの飢饉関する奏聞を『京報』で掲載された。この奏聞には、地元の天気状況と難民の悲惨な生活状況に対して詳しく述べていた。6月16日、その奏聞の訳文をThe North-China Daily Newsで掲載された。史料によって、当時の中国のイギリス人が、内陸の被災状況についてその奏聞から初めて知ったので、結構衝撃を受けた人が多かったようだ。1877年7月以後、英字新聞が『京報』で掲載された内陸地域、特に山西省の被災情報を注目しだけではなく、宣教師ら外国人の救援組織の要求により、山西、河南などの内陸被災地へ移動し、上記の地域の状況について報告した。1877年末に、内陸の被災状況を考えて、外国人の救援組織が募金の範囲が広めていた(1876年〜1877年:東アジアと東南アジア、1877年末〜1878年:東アジアと東南アジア、英本国、アメリカ)。まだ、外国人の救援活動の参加者の人数が大幅に増えながら、数多い中国とイギリスの官僚達もその救援活動の協力者になった。 各地の英字新聞での中国飢饉救援に関する史料を照合すると、他の地域の英字新聞に比べて、中国の英字新聞と英本国の新聞が、西洋人の救援活動の効果、特に中国の難民、知識人、官僚などの人々がその救援に対する如何に反応することを注目していたようだ。 この特徴が現れた理由について説明したい。当時の救援組織と救援の協力者の記録から見ると、イギリス人にとって、その救援活動は人道主義のためのみではなく、新しい中英関係のために展開していた。1870年代までに、当時の中国の東南沿海において、条約により清朝は、キリスト教の布教、及び西洋商品の輸入自由化などを認めた。しかし、当時の中国において、イギリス人などの西洋人は野蛮人だと考えられることがあった。そしてアヘン戦争(1840年代)以後、中国人がイギリス人に対して敵意を抱くようになった。結局は、布教や貿易などは行われなかった。この状況を変えるため、イギリス人は中国人に対して良いイメージを作ることが必要となった。飢饉への救援は、その良いイメージを作る手段の一つになった。 ここで1870年代の中英外交の新しい形の一端を明らかにしてみよう。先ずは、19世紀前半以前、イギリスの面において、イギリス政府は中英外交活動の唯一のリーダーであった。19世紀の大飢饉に代表された事件において、イギリス人の宣教師と商人らをリーダーとして、海外の一般市民が、政府よりも早く救援のために動いた。そして、イギリス政府と清朝の政府の重要成員が、それぞれ上記の活動を受ける形で行動した。あるいは1870年代以後、外交官以外の一般的なイギリス人は、英字新聞紙の中国の報道及び新聞で掲載された「京報」の訳文に頼って、最新の中国の情報を得たり、中英関係を判断したり、自主的に行動したりした。そして、そのことが中英政府の行動に影響を与えた。次は、19世紀の中英外交の形によって、戦争と紛争などの「硬い」面があったが、支援と協力などの「柔らかい」面も注目に値する。 (※1)“The Intelligencer”, The Wheeling Intelligencer,1878-5-8. 参考:
The Great Famine. Report of the Committee of the China Famine Relief Fund, Shanghai, 1879, p.13
“THE FAMINE IN CHINA”, Aberdeen Weekly Journal,1878-7-19. |
||
★ 趙瑩、復旦大学歴史系博士三年生、2013年9月〜2014年9月東京大学東洋文化研究所所属訪問研究員。研究分野:19世紀中英関係史、中国新聞史。 | ||
|
||