13/01/18
「植民地官僚」研究の現在――英領インドの「パンジャーブ学派」を巡って
                                                        

三瀬 利之

 

内容紹介

近年の帝国史研究では、植民地官僚を一括して捉えるのではなく、個々の官僚の肖像や、省庁や部局毎の性格を、実証的に再検討する作業が進められるようになった。近現代インドに大きな刻印を残している英領インドの行政官の場合、どのような議論が浮かびあがってくるのだろうか。「パンジャーブ学派」と形容される、ある官僚集団の研究から考えてみた。

本文

  近現代インド研究における植民地時代の重要性を、ここで改めて論じる必要はないであろう。インド亜大陸は、ヨーロッパ勢力との接触や、植民地化の期間、規模、文化的影響の深度において、「アジア」のなかで突出した地域の一つである。なかでも「インド高等文官」は、帝国行政におけるあらゆる政策的な枠組みの立案者であると同時に、村落部における支配者としても君臨し、「新しい支配カースト」と形容された。彼らの存在を無視して、現代インドの社会的諸制度ばかりか、文化的実践をも語ることは困難であろう。

  このことは、われわれ人類学者が対象としてきた、インドの伝統的な社会集団や文化的な制度に関しても同様である。このような事情で、筆者は、カースト集団やインド社会をみる概念的な枠組みが、歴史的にいかに形作られてきたを明らかにするために、政府が主導でおこなった民族誌調査や国勢調査の実態を、公文書やマニュスクリプトなどを紐解きながら研究してきた。その過程で興味を惹いた対象の一つが、パンジャーブ州の官吏、いわゆる「パンジャーブ学派」という存在である。

英領インドの「パンジャーブ学派」

  インド亜大陸の陸の玄関口、旧インド帝国の版図の西北部に位置するパンジャーブ地方は、その名(「五つの河」)が示すように豊かな水利条件に恵まれた広大な平原地帯であり、古来より、インドへの侵入者が去来した「文明の十字路」であった。19世紀以降は、対ロシアの軍事的要衝地、世界有数の灌漑農業地帯、インド軍の一翼を担ったスィク教徒の故地、多様な宗教や言語が共存する「インドの火薬庫」・・・。パンジャーブは、イギリス東インド会社の併合(1849年)以来、イギリスが最重視した戦略的、行政的な要衝地の一つである。とりわけ、インド大反乱後の地域行政の安定化は急務でもあり、当時の「優れた」人材が多く投入された。彼らは、共通の道徳観や社会的バックグラウンドを有するだけでなく、植民地統治やインド社会についての独特の理論的前提を共有していたため、一般的に「パンジャーブ学派Punjab School」と形容される存在となっている。

  特に際立っているのが、1870年代以降に地域行政の第一線で活躍した「第二世代」である。彼らは、「父権的温情主義」に特徴づけられる、カリスマ的な「第一世代」の行政スタイルから、行政の脱個人化と合理化を試み、法治主義の徹底、科学的な地租査定、土地の所有関係の把握、正確な人口情報に基づいた食料の配給、教育、公衆衛生などを試みた。理数系専攻出身者も多く含まれていた彼らの行政手法は「科学的行政」とも呼ばれた。

  この行政の一環として位置づけられるのが、C. Tupperのパンジャーブ慣習法調査やD. Ibbetsonのカーナル県地租査定、パンジャーブ州人口センサス(1881)である。これらの社会調査活動は、後述するように、近代的なフィールドワークの先駆的形態として位置づけられうるものであるだけでなく、H. Maineの比較法学・法進化論の影響下で、従来のインド認識や当時の支配的な言説を打破し、新しいインド社会論を打ち立てようとする知的な対抗運動でもあった。行政史・人類学史においては、この独自のインド社会観を展開してきた「パンジャーブ学派」の研究は、C. Dewey(1991)やC. Morrison(1984)などの一部の例外を除くと、真剣に取り組まれてこなかったが、彼らの活動はのちのインド人類学、カースト研究の礎の一つとなっていたのである。

  インド亜大陸では、有史以来、アーリヤ系、スキタイ系、トルコ系、アフガン系、ペルシア系などの外来の集団も支配階層を形成し、混住してきた。イギリス人もそうした人々の一つであり、そこでは「インドの人々the People of India」としてのイギリス人、インドの一部としてのイギリス帝国という視点が重要になると考えられる。しかし、M. FoucaulやE. Saidの権力論の登場以降、国家や植民地システムを一枚岩的に捉える視点が一般的になり、その結果、帝国内部の少数派の存在や、主流派への対抗的な立場の存在は見落とされ、「帝国主義」のやや平板なイメージが流通している感が否めない。体制内部のさまざまな「学派」や「閥」の存在と、その対立・対抗関係を手掛かりに、彼らの活動とその影響を明らかにすることは、近現代インドの地域的特性の理解のためだけでなく、「帝国の時代」という人類の歴史の負の遺産から反省的に学ぶためにも、重要な作業であるように思われた。

「アジア」を研究するとは

  ところで、こうした学問的な関心とは別に、いくつか気付いた点がある。

  まず、「パンジャーブ学派」のような存在は、当時の「インド高等文官」全体のなかでは、数のうえで少数派であっただけでなく、「異質」な存在として捉えられていた節があるという点である。数量化と体系化に特徴づけられる「科学的行政」は、当時のインドの人々だけでなく、イギリスの人々にとっても「異物」であったようだ。例えば、国勢調査のような、徴兵や賦課に関わらない社会調査は、インドでもイギリスにおいても、村落部では開始当初、理解を超えた、文字通りの「災厄」をもたらす呪術的行為として捉えられていたことが資料から伺われる。そして、こうした「異物感」は、イギリスの支配層にとっても同様であったようである。そもそも「パンジャーブ学派」の「第二世代」は、縁故採用によりリクルートされた「第一世代」とは異なり、オックスブリッジ出身者が中心の、「公開試験」(なかでも上位通過者)の世代である。社交パーティーや、狩猟や乗馬などの野外活動での人間関係よりも、「紙」のうえでの整合性を追求する彼らは、前世代から、「話」が通じない、「公開試験野郎the competition wallah」と揶揄された集団でもあった。しかしそれは、彼らが、「暗黙の了解」という名のもとでの恣意的な裁量を排し、数字や言葉による明文化と、そこでの一貫性と整合性を重視したからでもある。

  一般に、「アジア」における「帝国主義」研究は、「近代主義」や「啓蒙主義」の批判という形をとりやすい。しかし、近代的な合理主義を「アジア的」でないとして排除し、「伝統的」で「個性的」なものだけを称揚するとしたら、ある種の「オリエンタリズム」に陥っている可能性がある。そもそも、われわれ「研究者」「知識人」も、近代的な教育の産物である。そして、安易な「近代の超克」論が、「偏狭な」ナショナリズムと結びつきやすいということを、多くの歴史が証明している。「アジア」、「西洋」、「近代」を概念的にどのように関連づけるのか。研究対象に向き合う、姿勢の部分が重要であると感じた。

  さらにもう一つ、印象に残った点がある。それは、彼らの調査活動に見られる、「現場」での実証性への拘泥である。

  「パンジャーブ学派」の社会調査の手法は、「質問票」調査という、今日の人類学では、一般的に陳腐で形式的な調査の代名詞とされる古典的な方法である。しかし、時代状況に照らして考察してみると、これがかなり画期的な調査法であったことが伺われる。

  それまでの一般的な方法は、個人の経験や価値観に由来する、一連の主観的な連想によって調査を組み立てるやり方である。しかし、事前に練られた「質問票」は、理論的な関心と全体的な整合性によって、調査者の主観性や価値観を排する。同時に、調査者は、自分の「関心外」の調査も実施することになる。自らの内部にはなかった「疑問」との遭遇によって、自らの関心の拡がりを経験した可能性は、きわめて高いのではなかろうか(例えば、行政官や理系出身者にとっての、伝統的な親族組織、呪術や民間信仰に関する調査項目)。

  この点でいえば、彼らの調査活動には、人類学的なフィールドワークの要件の一つと考えられる、「他者」との遭遇による「自己」の「認識論的前提」の更新(もっとも端的な例が「目から鱗が落ちる」経験)の契機が多く含まれていたといえそうである。文献研究ではなく、現場に赴くことで遭遇するインド社会の現実、そして、「質問票」の問いかけが提示する、「社会」というものの「客観的」なイメージ。

  「パンジャーブ学派」の活動には、その目的にも内容自体にも多くの問題がある。しかしそれは、もともとある理論にデータを肉付けするだけの社会調査ではなく、「現場」の実証的な観察から、理論や枠組みを組みたてる知的な運動でもあった(その内実については、稿を改めて論じたい)。そして、「社会」の研究における、こうした実証性への拘泥には、同時代性があった。当時、草創期の人類学者やフランスの社会学者は、理論や枠組みの問題はもちろん、いかにして「科学的」な方法論を構築するかという問題に腐心していたからである。

  翻ってみて今日、「民族誌論」や「言語論的転回」の議論の登場によって、「実証主義」の絶対性が疑問に付された。しかしそれは、われわれが何かの「方法」によってしか物事を認識しえないという、人間の認識の本来的な限界を示しているのにすぎない。むしろ、それゆえにこそ、学術研究においては、一定の視角で「現実」を切り取っているという「方法論」の意識が重要なのではなかろうか(この点については、拙稿(2002)を参照)。

終りに

  本稿では、英領インドの植民地行政官、とくに「パンジャーブ学派」と呼ばれた官僚集団について述べてきた。最後に付言しておきたいことは、彼らは、異質な少数派ではあったが、決して「窓際族」ではなかったという点である。例えば、Ibbetsonは、「下層階層の福祉に関心」があり、同僚から「変わり者」扱いされていたが、時の総督Curzonが、その政権中枢のなかで最も信頼した人物であった。「パンジャーブ学派」ではなかったが、人類学的活動をおこなっていた行政官には、「ベンガル分割」を主導し「マキャベリスト」と形容されたH. Risleyのような人物もいるが、E. Gaitのように、インドの農民の窮状に理解を示し、M. K. Gāndhīに「よき統治者」と形容された人物もいた。いずれも帝国主義期のインドで、閣僚・知事・次官クラスの地位にあり、政策決定において大きな影響力を持った。しかし今日、彼らの思想や事歴の中身どころか、その存在すらほとんど知られていない。このことは、行政官集団の研究に、いまだ大きな余地があることを示しているだろう。同時に、「ポストコロニアル論」の流行以降、再び「コロニアルなもの」をどう理解するのか、そして「アジア」の「個別性」や「近代」を、いかに専門科学として研究するのか。これらのことが問われているようにも思う。


文献

Dewey, Clive 1991 The Settlement Literature of the Greater Punjab:A Handbook, Manohar.
Morrison, Charles 1984 “Three Styles of Imperial Ethnography: British Officials as Anthropologists in India”, Knowledge and Society, 5: 141-169.
三瀬利之 2002 「史料の歴史学――英領インド国勢調査資料の由来」、森明子編『歴史叙述の現在』、人文書院。




みせ としゆき 清泉女子大学 非常勤講師・三瀬 利之