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「植民地官僚」研究の現在――英領インドの「パンジャーブ学派」を巡って
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内容紹介 本文 このことは、われわれ人類学者が対象としてきた、インドの伝統的な社会集団や文化的な制度に関しても同様である。このような事情で、筆者は、カースト集団やインド社会をみる概念的な枠組みが、歴史的にいかに形作られてきたを明らかにするために、政府が主導でおこなった民族誌調査や国勢調査の実態を、公文書やマニュスクリプトなどを紐解きながら研究してきた。その過程で興味を惹いた対象の一つが、パンジャーブ州の官吏、いわゆる「パンジャーブ学派」という存在である。 英領インドの「パンジャーブ学派」 特に際立っているのが、1870年代以降に地域行政の第一線で活躍した「第二世代」である。彼らは、「父権的温情主義」に特徴づけられる、カリスマ的な「第一世代」の行政スタイルから、行政の脱個人化と合理化を試み、法治主義の徹底、科学的な地租査定、土地の所有関係の把握、正確な人口情報に基づいた食料の配給、教育、公衆衛生などを試みた。理数系専攻出身者も多く含まれていた彼らの行政手法は「科学的行政」とも呼ばれた。 この行政の一環として位置づけられるのが、C. Tupperのパンジャーブ慣習法調査やD. Ibbetsonのカーナル県地租査定、パンジャーブ州人口センサス(1881)である。これらの社会調査活動は、後述するように、近代的なフィールドワークの先駆的形態として位置づけられうるものであるだけでなく、H. Maineの比較法学・法進化論の影響下で、従来のインド認識や当時の支配的な言説を打破し、新しいインド社会論を打ち立てようとする知的な対抗運動でもあった。行政史・人類学史においては、この独自のインド社会観を展開してきた「パンジャーブ学派」の研究は、C. Dewey(1991)やC. Morrison(1984)などの一部の例外を除くと、真剣に取り組まれてこなかったが、彼らの活動はのちのインド人類学、カースト研究の礎の一つとなっていたのである。 インド亜大陸では、有史以来、アーリヤ系、スキタイ系、トルコ系、アフガン系、ペルシア系などの外来の集団も支配階層を形成し、混住してきた。イギリス人もそうした人々の一つであり、そこでは「インドの人々the People of India」としてのイギリス人、インドの一部としてのイギリス帝国という視点が重要になると考えられる。しかし、M. FoucaulやE. Saidの権力論の登場以降、国家や植民地システムを一枚岩的に捉える視点が一般的になり、その結果、帝国内部の少数派の存在や、主流派への対抗的な立場の存在は見落とされ、「帝国主義」のやや平板なイメージが流通している感が否めない。体制内部のさまざまな「学派」や「閥」の存在と、その対立・対抗関係を手掛かりに、彼らの活動とその影響を明らかにすることは、近現代インドの地域的特性の理解のためだけでなく、「帝国の時代」という人類の歴史の負の遺産から反省的に学ぶためにも、重要な作業であるように思われた。 「アジア」を研究するとは まず、「パンジャーブ学派」のような存在は、当時の「インド高等文官」全体のなかでは、数のうえで少数派であっただけでなく、「異質」な存在として捉えられていた節があるという点である。数量化と体系化に特徴づけられる「科学的行政」は、当時のインドの人々だけでなく、イギリスの人々にとっても「異物」であったようだ。例えば、国勢調査のような、徴兵や賦課に関わらない社会調査は、インドでもイギリスにおいても、村落部では開始当初、理解を超えた、文字通りの「災厄」をもたらす呪術的行為として捉えられていたことが資料から伺われる。そして、こうした「異物感」は、イギリスの支配層にとっても同様であったようである。そもそも「パンジャーブ学派」の「第二世代」は、縁故採用によりリクルートされた「第一世代」とは異なり、オックスブリッジ出身者が中心の、「公開試験」(なかでも上位通過者)の世代である。社交パーティーや、狩猟や乗馬などの野外活動での人間関係よりも、「紙」のうえでの整合性を追求する彼らは、前世代から、「話」が通じない、「公開試験野郎the competition wallah」と揶揄された集団でもあった。しかしそれは、彼らが、「暗黙の了解」という名のもとでの恣意的な裁量を排し、数字や言葉による明文化と、そこでの一貫性と整合性を重視したからでもある。 一般に、「アジア」における「帝国主義」研究は、「近代主義」や「啓蒙主義」の批判という形をとりやすい。しかし、近代的な合理主義を「アジア的」でないとして排除し、「伝統的」で「個性的」なものだけを称揚するとしたら、ある種の「オリエンタリズム」に陥っている可能性がある。そもそも、われわれ「研究者」「知識人」も、近代的な教育の産物である。そして、安易な「近代の超克」論が、「偏狭な」ナショナリズムと結びつきやすいということを、多くの歴史が証明している。「アジア」、「西洋」、「近代」を概念的にどのように関連づけるのか。研究対象に向き合う、姿勢の部分が重要であると感じた。 さらにもう一つ、印象に残った点がある。それは、彼らの調査活動に見られる、「現場」での実証性への拘泥である。 「パンジャーブ学派」の社会調査の手法は、「質問票」調査という、今日の人類学では、一般的に陳腐で形式的な調査の代名詞とされる古典的な方法である。しかし、時代状況に照らして考察してみると、これがかなり画期的な調査法であったことが伺われる。 それまでの一般的な方法は、個人の経験や価値観に由来する、一連の主観的な連想によって調査を組み立てるやり方である。しかし、事前に練られた「質問票」は、理論的な関心と全体的な整合性によって、調査者の主観性や価値観を排する。同時に、調査者は、自分の「関心外」の調査も実施することになる。自らの内部にはなかった「疑問」との遭遇によって、自らの関心の拡がりを経験した可能性は、きわめて高いのではなかろうか(例えば、行政官や理系出身者にとっての、伝統的な親族組織、呪術や民間信仰に関する調査項目)。 この点でいえば、彼らの調査活動には、人類学的なフィールドワークの要件の一つと考えられる、「他者」との遭遇による「自己」の「認識論的前提」の更新(もっとも端的な例が「目から鱗が落ちる」経験)の契機が多く含まれていたといえそうである。文献研究ではなく、現場に赴くことで遭遇するインド社会の現実、そして、「質問票」の問いかけが提示する、「社会」というものの「客観的」なイメージ。 「パンジャーブ学派」の活動には、その目的にも内容自体にも多くの問題がある。しかしそれは、もともとある理論にデータを肉付けするだけの社会調査ではなく、「現場」の実証的な観察から、理論や枠組みを組みたてる知的な運動でもあった(その内実については、稿を改めて論じたい)。そして、「社会」の研究における、こうした実証性への拘泥には、同時代性があった。当時、草創期の人類学者やフランスの社会学者は、理論や枠組みの問題はもちろん、いかにして「科学的」な方法論を構築するかという問題に腐心していたからである。 翻ってみて今日、「民族誌論」や「言語論的転回」の議論の登場によって、「実証主義」の絶対性が疑問に付された。しかしそれは、われわれが何かの「方法」によってしか物事を認識しえないという、人間の認識の本来的な限界を示しているのにすぎない。むしろ、それゆえにこそ、学術研究においては、一定の視角で「現実」を切り取っているという「方法論」の意識が重要なのではなかろうか(この点については、拙稿(2002)を参照)。 終りに 文献 |
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★ みせ としゆき 清泉女子大学 非常勤講師・三瀬 利之 | ||
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