12/01/24
中国台頭時代の中国研究
                                                        

益尾 知佐子

 

内容紹介

中国社会に活力がみなぎり、中国の台頭が国際的な注目を集める中で、中国研究者に求められる社会的任務や、中国研究の手法や視角は急速に変わりつつある。暗中模索する一中国研究者が、自分の試行錯誤をふりかえったエッセイ。

本文

「中国はどこに行くのか?」 最近、本屋に行けば、こういうテーマの本がたくさん並んでいる。いやわざわざ書店まで行かなくても、東京の地下鉄の吊り広告には、中国をネタにして売り上げを伸ばそうとする過激な見出しがあふれている。日本のメディアでは、中国はすっかり悪役キャラとして定着しているようだ。確かに、中国の過去10年くらいの変化はかなり激しく、そこから絶え間なくあふれ出してくる奇妙なストーリー群は、日本だけでなく世界の関心を引き付けてきた。他方、そうしたストーリーの中身は日本人一般の想像の範囲をはるかに超えていて、社会の隅々に「中国ってわけがわからない」という印象が広がることにもなった。

でも日本にとって、中国の重要性は高まる一方である。一昔前なら、中国が嫌いなら距離を保てばよかった。現在、日本をめぐる厳しい現実には、そうした選択肢はない。2000年に日本の三分の一程度のGDPしかなかった中国は、過去10年で急速な発展を遂げ、2010年には日本を追い越して世界第2位の経済大国に浮上してしまった。アメリカよりずっと近く、東シナ海をちょっと行ったすぐ先に、13億以上の人口を抱える「いけいけドンドン」な大国が台頭し、すさまじい影響力を行使して世界の秩序を変えつつある。好きとか嫌いとかではなく、日本が社会の活力を維持し、現在の経済水準を保っていくには、中国とうまく渡り合って共存の道を見つけ出す以外にない。こうした状況で中国研究者には、中国を「わけがわかる」ように説明するという社会的任務が、急にずっしりとのしかかるようになってきた。

では日本の中国研究者には、どれくらいそういった準備ができているのか? 手の内を明かすようだが、率直にいって私には、かなり心もとない状況に見える。日本の中国研究は、現在の中国を分析するための方法論を確立できていないし、人数も、専門性も、チーム力も足りない。中国の変化が激しすぎて、学者がとてもついていけてないのだ。(そもそも研究者の人材養成なんて、最短でも10年かかるものだ。)

私が知っているこの15年ほどの範囲でも、中国研究の手法は大きく様変わりしてきた。1997年に私が学部の卒業論文を書いていたとき、駒場の国関・相関の図書室で借りて教科書にした先行研究の多くは、中国が「竹のカーテン」に閉ざされているということを前提に、『人民日報』などの記事を統計的に処理して中国の指導者の認識や政策決定を内容分析するといった類のものだった。翌年大学院に入ると、中国研究の先達に、中共や中国政府が自らの「声」として用いている新聞や雑誌を定点観測し、彼らの認識の変化を丁寧に追っていく手法を教えていただいた。これらの手法は今でも一定程度有効だし、私もおりにふれて使っている。

ただし若い大学院生として、そういう手法がなお主流を占めていることには、すでにやや違和感があった。私は1996年から1年間、東大教養学部の交換留学生として北京大学に留学し、学生や市井の人たちと政治や外交問題についてさんざん議論(口論?)していた。中国人というのはそもそも、とても元気な人たちである。一握りの政策決定者だけでなく、13億人のエネルギーが総体としての中国をどのように変えつつあるのか、もっと分析していく必要があるのではないか? そのような思いから、同世代の研究者と同様、私も中国社会に分け入り、希少な資料を探し歩いたり、いろいろな人に聞き取り調査を試みたりしてみた。だから中国研究の先輩の中には、若い人は言葉を話せて、どんどん中国人の中に入っていけるからうらやましいと言ってくださる方もいる。でも中国の移り変わりのスピードは猛烈で、今やスマートフォンのツイッターが猛威をふるう時代である。私が初めて滞在した96年には、中国では白黒コンピューターにコマンドを入力してアルファベットの電子メールを送るのがせいぜいだったというのに…。(こんなことを書いていると、中国の友人たちには「化石」と笑われそうだ。)方法論が確立する前に研究対象が動いてしまうのだから、中国研究の成果は、学術的というより現状分析的なものに留まりがちである。

それに中国の存在感があらゆる分野で世界的に拡大したことで、中国研究に問われる質そのものが変化している。研究者の世界では、昔は中国の内実はわからないというのが前提だったし、中国が日本におよぼす影響も小さかったから、中国を「特殊な国」としてとりあつかい、仲間内の議論を続けることが許された。だがこれだけ中国に関する情報量が増え、中国の行動の対外的な影響が他国の社会の中でも観察されるようになってくると、中国の事情を世界の他の人にもわかる言葉で、可能な限り具体的に解析し、解説していくことが社会的に求められてくる。ところが他方で、活力にあふれた中国のすべてのイシューを個々の中国研究者がフォローするのは不可能になっている。いったい中国ほど、歴史認識やら毒ギョーザやらレアアースやら高速鉄道やら、地域研究者に頭の体操を強いる国がほかにあるだろうか。

でも考えてみれば、いずれの分野にもそれぞれ専門家がいるのだから、中国研究者が次なる大事件を予測して、分析に必要な知識を蓄えておく必要はほとんどない。(というか、そんなことできない。)研究者としては、政治学とか経済学とか社会学とか国際関係論とか、自分のディシプリンを保って独自の研究を深く掘り下げていくことは大切だ。ただし中国研究者にはそれに加えて、さまざまな分野の人と柔軟に付き合い、他分野の専門的見解を吸収し取りまとめていく総合的な能力が、ますます必要になっていると感じる。

例えば私が研究している外交の分野では、中国の対外活動の活発化、複雑化、専門化に伴い、経済や安全保障などの隣接分野や、中国以外の国の研究者の教えを請うことが急速に増えてきている。毛沢東や鄧小平は外交問題に鶴の一声を発することができたが、それ以降の最高指導者にそれほどの権威はない。経済力や軍事力が中国の国際的なパワーの源になれば、国家を動かす経済官僚や、防衛を担う人民解放軍などの外交問題への発言力が拡大するのは当然で、外交部などの影響力は相対的に低下傾向にある。中国国内の多様な諸アクターがそれぞれどのように対外問題に関わっているのかわからなければ、その対外行動は理解しがたい。ただし、こうした状況を全体的に把握するのはなかなか難しい。

どうするのが最善なのか、私も暗中模索しているが、手に届く範囲の努力として、最近は中国の国境の内側と外側をできるだけたくさん見て回るようにしている。中国の対外活動の活発化が、どのような経路で、どのように周辺国と結びついて地域秩序を変えつつあるのか、具体的に確かめていくためである。雲南省の昆明から中国商人と乗合バスに乗ってラオスに向かったときには、中国のラオスへの経済進出の大半が(日本でよくいわれているような)国家ベースではなく、個人ベースで行われていることを、身をもって知った。また広西チワン族自治区や雲南省を訪ねた際には、中国が周辺国との経済協力を進めていくにあたり、地方政府がときには北京の中央政府を動かすほどの主体性を発揮することも教えてもらった。これらを中国の対外行動の文脈に落としていうなら、中国が東アジア地域協力に積極的に取り組む際には、北京の政治的意図だけではなく、地方政府や個人商人の経済的な利得計算が強く反映されているということになる。こうした作業は地味ではあるが、今日の中国の対外行動の複雑で重層的な性格を把握するために不可欠である。

先達がほとんど入ったことのない地域で、しかも伝統的な「外交」専門家が扱わなかったようなテーマについて調査を進め、その成果を分析していくのは、手がかりがないからわりとたいへんである。それでも今のところなんとかなっているのはなにより、隣接分野の専門家や各国の政府関係者から、貴重なアドバイスやご協力をいただけたおかげである。(こちらの側でも、多少の語学力と、どこにでものこのこ入っていく度胸と、どこでも幸せに暮らせる丈夫な胃袋を準備するようにしている。)私が2008年に提出した博士論文は、改革開放初期に中国国内で対外政策がどのように再検討されていったかということがテーマだったが、隣接分野の方々のご助力によって、最近はより広い視野で中国を捉えることができるようになり、研究している私自身もとても楽しい。

中国の台頭が世界的な現象になっている以上、その行動を世界の動きの中で相対化していかなければ、中国に関する説得力のある研究成果は出せなくなっている。中国研究者には、多様で複雑な問題群を全体的に見渡して分析する総合力が必要だ。今の私の力ではまだ手が届かないが、もっと経験を積んだ暁にはいつか、隣接分野の専門家のご協力を得て、重層的に中国を分析するチームを組んでみたいと考えている。




ますお ちさこ 九州大学大学院比較社会文化研究院・准教授・益尾知佐子
拙著『中国政治外交の転換点 ――改革開放と「独立自主の対外政策」』東京大学出版会、2010年、を参照。