08/02/06
ポスト・スハルト期の国家法と慣習(法)への人類学的アプローチ
                                                        
高野さやか



「2008年1月27日、スハルト元大統領の訃報が全世界に伝えられた。権力の座を退いてから10年が経過しているとはいえ、その功罪をめぐる議論はインドネシアにおいてさらに活発になっている。大統領としての在任中には、安定と開発の達成を掲げて、強固な中央集権体制が築き上げられた。しかしそのひずみは、1990年代に入って、経済不安や民主化を求める暴動となって現れる。そして1998年に政権が崩壊すると、一転して急激な地方分権化の動きが起き、社会のさまざまな領域に大きな影響を及ぼしつつある。このことは当然、インドネシア研究者の高い関心を集めている。

地方分権、アダット(慣習)、フクム(法)
この地方分権化の流れにおいてもっとも直接的に変化したのは、大統領権限が縮小されたのちの地方行政のありかたであり、それについては政治学者たちによる積極的な調査研究が進められている。しかし、こうした地方分権が人々の日常生活にどのような影響を与えているのか、ということもまた非常に興味深い点ではないだろうか。こうした観点から地方分権の動きをとらえるうえで、筆者はインドネシア国内各地で進行している「アダット(慣習)復興」が、ひとつの焦点になると考えている。
 

インドネシア語の「アダット」とは、一般に「慣習」と訳されるほか、伝統・儀礼・文化の意味も持つ、幅の広い概念である。地方分権は、このアダットにも新しい位置づけを与えた。中央集権体制のもとでは、アダットの語を用いて民族集団ごとの差異に光をあてることは、ともすれば体制に抗し分裂を導く可能性をもはらむものとして、避けられる傾向にあった。しかし近年、近代化とグローバリゼーションの中で消滅の危機に瀕しているアダットを再評価しよう、という動きは国内各地で強まっている。
 

大きく変貌を遂げているこのアダットを、研究の対象として確立したのは、20世紀初頭のオランダ人法学者フォレンホーフェンである。フォレンホーフェンは当時、オランダ領東インド全域に共通する法典の制定に向かう政策を批判する立場から、各地域のアダットの多様性を尊重することを主張した。彼を中心とするオランダ慣習法学派から、「アダット法」についての膨大な蓄積が生まれる。これは、成文法を対象とするいわゆる実体法学への批判から出発し、慣習や規範などを国家法と同等のものとして扱うという、法人類学の展開を方向付ける業績のひとつとなった。
 

しかし、すでに見たようにその後のスハルト体制のもとでは、国家法が大きく影響力を増すことで、アダットは相対的に力を弱め、法としてよりもむしろ、伝統や文化といった領域に押し込められていたのである。では、この地方分権の流れのなかで、再びアダットの語が光を浴びた時、それは中央集権的なものとしての法(フクム)との間で、どのような関係をもつようになるのだろうか。筆者はこのことについて、フクムとアダットの接点としての地方裁判所をフィールドに、調査を進めている。

北スマトラ州メダン地方裁判所
筆者の調査地である北スマトラ州メダンは、人口200万人を超す、スマトラ島第一の都市である。そこではジャワ人、華人、バタック人などさまざまな民族集団の背景を持つ人々が暮らしている。そのメダンの街の中心部にある地方裁判所は、植民地時代に建設された威厳のある建物で、行かないですむにこしたことはない、場所もよく知らない、という人も多い。しかし、この地方裁判所も、この10年の間に位置づけを変化させつつあり、いくつかの訴訟においては、中央・国家と、伝統的なものとの間の葛藤を垣間見ることができる。その一つの例が、次に示す土地所有をめぐる訴訟である。

争点としての「スルタン租借地」
この訴訟は、現在のメダン周辺を17世紀から19世紀にかけて支配していた、デリ王国の王族の末裔によって提起されている。そしてここには、アダットにもとづく権利主張を行っている先住民の団体も関与している。

BPRPIは、メダン近郊において、インドネシア共和国独立直後に、先祖伝来の土地「アダットの土地」が国有化されたことを争点にしてきた団体である。批判の対象は、現在にいたるまで土地を占有している国営の農園会社であり、その状況を容認しているインドネシア政府である。そのため、係争の具体的手段は従来、デモを中心とした抗議行動、そして、その先鋭化したバージョンとしての、係争地への集団移住という実力行使のかたちをとってきた。また、1999年以降は、国際的な先住民保護運動のなかに、自らの主張の正当性に対する裏付けを見出していく。


そして、BPRPIが先住民運動の流れに加わるのと、ほぼ同時期に活発化したデリ王国とその関係者は、土地紛争に異なる観点を導入する。彼らが問題視するのは、プランテーションの土地が国有化されたことそのものではない。彼らにとっての問題は、国有化の手続きが、土地から利益を得る権利としての用益権の延長であったにも関わらず、その後、土地が転売された、ということである。この場合、アダットは後景に退き、明確な境界をもつ土地が、もともと「スルタン租借地」であったのか否か、ということが問題になる。


BPRPIがよりどころとしていた、先祖伝来の「アダットの土地」というロジックは、土地の境界と、共同所有の主体を明確に示すことの困難さゆえに、行き詰まりをみせている。2000年代後半には、事態の打開をめざすBPRPIと、証拠の強化を望むスルタン・サイドが近づくことによって、両者のあいだに連携関係が結ばれつつある。結果として「スルタン租借地」が争点化し、19世紀にまでさかのぼる、こうした法的手続きが問題になることによって、提起された一連の訴訟群は長期化している。
この訴訟が示すのは、先祖伝来のアダットをめぐる権利を主張するために、フクムに依存せざるをえない、という、フクムとアダットの間の錯綜した関係である。

おわりに
このように、フクムとアダットは、地方分権の進展という大きな変化の中で、どちらかがどちらかを包摂しきるということはなく、双方が依存しあいながら、それぞれの独自性を維持している。さらに本稿ではふれられなかったが、国際的な法整備支援によるADR(裁判外紛争処理)などの先端的な理論の導入は、状況をさらに複雑なものにしている。筆者は、事態の推移をこれからも見守っていきたいと考えている。


高野さやか(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)