はじめに
筆者は2004~2006年に科学研究費補助金(基盤研究B、代表:太田出)の採択を受けて、山本英史(慶応義塾大学)、稲田清一(甲南大学)、陳來幸(兵庫県立大学)、佐藤仁史(滋賀大学)ら諸氏とともに江南デルタ農村調査班を編成し、中国江蘇省・浙江省・上海市に跨る太湖流域、特に汾湖周辺の呉江市・嘉善県・青浦区の農漁村においてフィールドワークを実施した。その研究成果の一部はすでに太田出・佐藤仁史編『太湖流域社会の歴史学的研究──地方文献と現地調査からのアプローチ』(汲古書院、2007年)として公開され、フィールドワークそれ自体は現在もなお継続中である(1)。
本調査班では地方文献(地方新聞・地方檔案・郷土史料)の博捜と、フィールドワークとりわけヒアリングの試行・実施に重点が置かれた。地方文献についてはメンバーの1人である佐藤仁史が当アジア研究情報gatewayに「近代中国の地方文献についての覚書」と題する記事を掲載しているから、ここではヒアリングを通して観察しえた汾湖周辺の農漁村について文献史料には登場しない「非文献」の世界を中心に素描してみたいと思う。
1 大長浜村の農民たち──ヒアリングの事例1
筆者らがヒアリングにあたって注意したのは、太湖流域低郷地帯の複数の村で広くインフォーマントを集めると同時に、将来的な皆悉調査をも含めた定点観測を実施しうる村をさがすことであった。これは簡単そうでかなりの困難を伴う作業である。学術上最適な村を選ぶのみならず、行政との関わりや村民との関係の構築なども視野に入れる必要があったからである。そして最終的に定点観測の村に決定したのが江蘇省呉江市の大長浜村であった(写真1)。本村は呉江市北厙鎮の西北西ほぼ3㎞の大長圩上に位置する自然村で、大長浜(だいちょうひょう)というクリークを挟んで家屋群が列するいわば低郷地帯の典型的な村落形態を呈している。筆者らが本村を定点観測の場に選んだ理由は別の機会に詳述するが、理由の1つとして本村が通訳を務めた楊申亮氏の出身村であった点があげられよう。かれら楊姓は徐姓とともに本村の大姓であり、楊申亮氏の父君である楊前方氏も今なお健在で本村に居住しているため、調査の遂行に有利であると判断したからであった。本村における定点観測は現在も進行中であり、一定の段階に達したら何らかのかたちで正式な調査報告を発表する予定だが、ここではいくつかの興味深い点を簡単に紹介してみたい。
(写真1)大長浜村
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太湖流域の村々で筆者らがしばしば目撃したのは復活した劉王廟(劉猛将を祀る)であった。大長浜村も例外ではなく、大長浜から四方蕩という水面に出る地点に蓮花庵と呼ばれる小廟が建てられており(写真2)、旧暦正月2・3日の「出会」「過年会」「水会」、旧暦7月1日の「青苗会(待青苗)」には藝人を招いて宣講宝巻してもらう等の娯楽活動が行われている。かかる村廟の歴史については残念ながら文献史料で追うことは殆ど不可能であり、たとえ郷鎮志レヴェルであっても村廟やその廟会、神々にまで言及することはめったにない。では検討は放棄せざるを得ないかといえばそうではなく、ヒアリングを用いれば1930年代の解放前の状況をだいたい把握することができる。
(写真2)蓮花庵と劉猛将像
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たとえば「出会」「青苗会」では現在、劉猛将の神像が抬ぐいわゆる「抬老爺」は行われていないが、解放前には実際に「抬老爺」が行われていた。問題は大長浜村の村民が神像を抬いでどのような路線を練り歩いたかである。同地域の明清時代の状況については濱島敦俊氏が文献史料から近隣市鎮の城隍廟(ないし東嶽廟)への「解銭糧」慣行の存在を明らかにしており(2)、筆者らもそうした慣行の継続あるいは残滓を想定しながらのヒアリングとなった。しかしインフォーマントの口から出た路線は意外にもそれとは異なるものであった。「出会」では、翁家港村など周辺村落を訪れて接待を受け、各村廟の神々と挨拶を交わすことを目的とした路線が採られ、一方「青苗会」では、大長浜村本体とその周辺の耕地を含む一定範囲内を一周する路線が採られており、2種類の路線の存在が確認されると同時に、いずれも市鎮にまで神像を抬ぎ込んでいなかった事が判明したのである。筆者らも「解銭糧」を意識して「市鎮にまで行かなかったのか?」としつこくたずねたが、いずれのインフォーマントも否定した。つまり1930~1940年代の蓮花庵をめぐる宗教活動について、インフォーマントは大長浜村の村界いわば村落内部に向かって〝村の領域〟を確認する「青苗会」と、周辺村落との村落間関係を確認する「出会」を記憶していたが、さらに外側に向かって拡大する「郷脚」(費孝通が用いた呉江の方言。市鎮─農村間の市場圏を想定(3))の世界を表出したものと考えられる「解銭糧」については全く記憶に留めていなかったのである。この記憶の欠如はいったい何に起因するのだろうか。残念ながら現在のところ明確な回答は得ていないが、今後のヒアリングの興味深い課題であることは間違いない。1920年代以降の農村の疲弊を念頭にたずねてみたいと考えている。
また、解放前の蓮花庵の運営に関してヒアリングしてみると、実務を取り仕切る人物として会首(大会首)が選出されていたことがわかった。しかも大長浜村は4つの「段」に分けられ、各段輪番で会首を選出していたのである。では会首に選出されたのは如何なる人物だったのであろうか。佐藤仁史が述べるように、ヒアリングでは具体的な人物名として保長を務めた楊少山が登場し、そこに富農層(楊少山は戦後、階級区分の際に個人地主に分類されたが)を中核として秩序づけられた村落社会の存在を読みとることが可能である。
ところで、実はこの会首、かつて華北農村慣行調査の分析から村落共同体の有無が議論された所謂「平野─戒能論争」の重要なキーワードの1つであった。すなわち香頭とも呼ばれ村廟を中心とした祭祀の主宰者であった会首をめぐり、平野義太郎は村民の内面的支持と自然的生活共同態の存在を主張し、戒能通孝は支配的な性格を強調して共同態を否定したのである(4)。当然に比較には地域的差異を十分に考慮せねばならぬが、華北農村の基層社会における政治宗教面で重要な役割を担ってきた会首(ないし香頭)が太湖流域でも確認されたわけであり、その性格は慎重に検討するに値しよう。
ただし大長浜村の場合、華北農村の事例と異なるのは、会首と香頭とを分けて考える必要があるように思われる点である。なぜなら宣巻などの行事を組織する女性が会首とは別に存在し香頭と呼ばれていたからである。また大長浜村では一般の女性が香頭にあたったが、他村では仏娘という宗教的職能者である事例が多数確認された。かかる会首と香頭の区別は近年逆に華北農村でも確認されており、Thomas
David DuBois氏がヒアリングによりながら超自然的な能力で治療行為を行っていた香頭を紹介している(5)。伝統中国の基層社会における組織・結合を解明するうえで、会首や(宗教的職能者としての)香頭は1つの重要なキーワードたることは間違いない。今後さらなる事例の集積が期待されよう。
2 陸上がりした漁民たち──ヒアリングの事例2
解放前の太湖流域には、農民の「陸上世界」とは異なるもう一つの世界が存在した。それは漁民の「水上世界」である。かれらは陸上に家屋や土地を直接所有せず小舟を住居として暮らし、水産物を中心とする各種の採取に従いそれを販売もしくは農産物と交換しながら一定の地理的な範囲内を移動し生活していた。まさに日本の「家船」(エブネ、エンブ)である(写真3)。戦後、共産党政権が誕生した後もしばらくかような水上生活を営んでいたが、1968年の漁業的社会主義改造(漁改)の実施により陸上がり(陸上定居)が進められ、現在のいわゆる漁業村(捕撈村、水産村)が成立することになった(写真4)。しかし陸上がりは必ずしも順調には行われず、試行と失敗を繰り返しながら現在に至っており、今もなお高齢者を中心に船上生活を続ける漁民も少なくない。
(写真3)船上生活漁民の船内
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(写真4)北厙鎮漁業村風景
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かつての漁民はかなり貧しかったらしく社会主義改造の際には安定した農業へのシフトが図られた時期もあったが、現在では有名な大閘蟹の養殖を中心に水産業で発財する場合も多く、「農民よりわれわれ漁民の方が豊かだ」と豪語する者もいるほどである。
かかる漁民の歴史を文献史料に求めると、農民以上に期待できないことがわかってくる。文献史料はいわゆる「陸上世界」の人々が記したもので、日常生活において殆ど接触することのない「水上の民」に関する情報が少なかったとも考えられるが、むしろ全く無関心だったといった方がよい。さらに解放前の場合、両者間の関係は無関心よりも差別─被差別の関係にあったといいうる。すなわち漁民に農民との関わりをヒアリングすると「農民や鎮の居民は漁民を軽蔑して「網船鬼」「船上人」と呼んだ」と自らが蔑視の対象であったことを記憶していた。「船上人」の語に対応して、漁民は農民たちを「岸上人」と呼んでいるが、「網船鬼」は明らかに蔑称である。こうした蔑視の対象となる者を文献史料に記載することは殆どなく、かりにあったとしてもそれはかなりのバイアスがかかったものとなっており、そこから漁民の歴史を復原することは容易ではない。したがってヒアリングによる情報の収集が不可欠になるわけだが、筆者の感覚では、解放前のそうした環境の影響もあってか、漁民は外部者に対する警戒感が強く、容易にはヒアリングを受け入れてくれないように思える。根気強い関係づくりが求められる。
さて、ヒアリングを進めていくと、農民の場合と同様、漁民にも解放前から香頭がいたことが判明する。香頭は現在もなお存在し「社」「会」と称する組織を編成して様々な宗教活動の顔役となっている。筆者らは幸運にも太湖興隆社徐家公門の徐貴祥氏、嘉興南六房老長生分会の劉小羊氏、平望北六房の孫根栄・孫紅弟父子の4名の香頭にヒアリングを実施し様々な情報を入手できた。
たとえば、これら4名の香頭の下には多数の漁民が香客(参拝客)として参集しているが、その香頭─香客間の結合の紐帯は農民のように現住の村落、すなわち漁業村(捕撈村、水産村)にはなかった。1968年に政策的に命じられた陸上がりで成立した漁業村──今後、具体的な成立過程を検討する必要があるが──に地縁的な結合を求めるのは無理があった。では、いったいどこにその紐帯を求めうるか。それは両者間に共有され続けてきた蘇北以来の関係、いわば「共有された移住の記憶」であった。太湖流域の漁民の多くはそれぞれ祖先が蘇北から遷移してきたという移住伝説を有している。具体的な人物名・地名を伴うもので、そうした蘇北以来の関係が香頭─香客間の基底に流れていると考えられる。
そして香頭は特定の姓──太湖興隆社徐家公門なら徐姓、嘉興南六房老長生分会なら劉姓という具合に──という条件のもと信任の厚い者が選出される。ここにいう信任の意味は識字など一定程度の教養のほか、かつては治病行為など巫術のごとき特殊な能力を有するか否かも重要であったと考えられる。「神漢」と呼ばれるような宗教的職能者が香頭になった事例は少なくなく、香頭の本来的な職能たる神霊とつながりが重視された結果ではないだろうか。ともあれ、筆者らがヒアリングできた香頭の事例はあまりに少ない。今後かれらのライフストーリーを含めてヒアリングを継続していく必要があろう。
また実際にヒアリングの現場にいて面白いのは、漁民が蘇北からの移住以来すでに数世代をへているにもかかわらず、今もなおその口音(発音)に蘇北訛りを残している点である。時には太湖流域の人々にも聞き取りにくいほど、蘇北訛りがひどい場合もある。こうした「蘇北人」性の保持は一見すれば、かれらのアイデンティティの表象であるともいいうるが、一方でそれはかれらが移住以後、太湖流域の在地社会に溶け込めきれなかったことをも意味するものと考えられる。とりわけ「網船鬼」などと呼ばれ差別されてきた漁民にとっては当然の帰結だったのかもしれない。こうした事例は有名な客家など中国各地でさがし出すことができる。なぜ「蘇北人」意識が保持されてきたか、それは中国人特有の自己同定認識のあり方を考える1つの事例となりうるであろう。
おわりに
以上、文献史料にはなかなか記されてこなかった「非文献」の世界についてヒアリングの成果を取り込みながら紹介してきた。筆者らのヒアリングを含むフィールドワークは今なお継続中であり、ここに記したものは整理できたもののほんの一部でしかなく、今後さらに踏み込んだヒアリングが必要な部分も少なくない。しかしそうした現状にあっても歴史学においてヒアリングが有効であることは言を俟たぬであろう。歴史学の中にヒアリングという手法をどのように位置づけるか。今後も飽くなき挑戦を続けていきたい。
(1) 以下、特に断りのないかぎり、本書所載の佐藤仁史「一宣巻藝人の活動からみる太湖流域農村と民間信仰──上演記録に基づく分析──」及び拙稿「太湖流域漁民の「社」「会」とその共同性──呉江市漁業村の聴取記録を手がかりに──」による。
(2) 濱島敦俊『総管信仰──近世江南農村社会と民間信仰』研文出版、2001年
(3) 費孝通「小城鎮 大問題」『江海学刊』1984-1
(4) 平野義太郎『大アジア主義の歴史的基礎』河出書房、1945年、戒能通孝『法律社会学の諸問題』日本評論社、1943年
(5) Thomas David
DuBois 2005. The Sacred Village: Social Change and Religious
Life in Rural China Honolulu, University of Hawai’i, Press
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