07/04/02
日韓音楽関係史にみるポストコロニアリズム −日本での鄭京和−
                                                        

藤井浩基




はじめに

2007年1月、東京で「日韓中友好特別記念『友情の架け橋』コンサート2007」と題した室内楽の演奏会が開かれた。指揮者・鄭明勲チョン・ミョンフンのピアノと皇太子殿下のビオラに、日中韓の若手演奏家が加わって、シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」他が演奏されたという。日本の皇太子と世界的な韓国人音楽家との共演は、2004年の「日韓友好特別記念」同コンサートに続き、今回も話題となった。鄭明勲はこれまでもアジア各国の演奏者を集めたアジア・フィルを創設するなど、「日韓」、「日中韓」、「アジア」といった枠組みを積極的に設定してきた。

その枠組みが強調される時、筆者は鄭明勲の実姉でバイオリニストの鄭京和チョン・キョンファの姿を遠景に見る。姉弟でありながらその向き合い方は対照的である。鄭京和の40年に及ぶ演奏生活は、むしろそうした枠組みの払拭と相克の道のりでもあった。1960年代は、欧米の楽壇に切り込んで行った最初期の「東洋」の音楽家として、サイード的なオリエンタリズムに対峙しなくてはならなかった。そして、70〜80年代の日本での評価にも、「東洋」、「アジア」、「韓国」が枕詞のようについてまわり、その演奏について喧しい論議が起こった。

日韓音楽関係史を研究する筆者の関心は、音楽からみた日本人の韓国・朝鮮観にあり、目下植民地期朝鮮の事例研究に取り組んでいる。朝鮮では1920年代の「文化政治」期以降、音楽が植民地支配の見えざる制度として機能する中で、朝鮮人と音楽を結びつける言説が日本人によって数多く交わされてきた1)。戦後、ポストコロニアリズムの中でその傾向はどうなっていったのか。小論では、70年代以降の鄭京和をめぐる日本での批評を手がかりに検討していきたい。

1.米国の音楽的ヘゲモニーとの相克


1948年ソウルに生まれた鄭京和は、幼少からバイオリンの優れた才能をみせ、12歳でニューヨークのジュリアード音楽院に留学した。1967年、19歳で出場したカーネギーホールでのレーヴェントリットコンクールでは、イスラエル出身のピンカス・ズッカーマンと最後まで判定がもつれ1位を分け合っている。その後、1970年にロンドンでのデビューで大成功をおさめ、40年にわたって世界の第一線で精力的な演奏活動を展開している。母国・韓国では国民栄誉賞を受けるなど、同国の誇る世界的音楽家の代名詞としての存在であり続けている。

新人の登竜門として知られたレーヴェントリットコンクールでは、ズッカーマンを支援するアイザック・スターンなどユダヤ系を中心とした音楽関係者に、鄭京和は様々な妨害を受けた2)。東洋人音楽家に対する米国楽壇の音楽的なヘゲモニーに対峙しなければならなかった鄭京和は「60年代に、私がアメリカで最初に演奏家として活動をし始めたころは、東洋人の音楽家は極めて少なかった。……弦楽器奏者として国際的に注目されたのは、私が最初でした。そのころは……東洋出身の音楽家が高いレベルにあることが奇妙な現象に映っていた」といい、「以前、アイザック・スターン氏が訪中し、中国の人々にモーツァルトについて何をご存じなのか、と聞いたことに大変憤慨したことがありました。……こんな質問を、なぜ西洋人が鼻高々で浴びせるのか。若いころは、そんな西洋人のごう慢さ、偏見にものすごく腹を立てていました。」とその相克を振り返る3)。しかし「現在でも、韓国人なのになぜこんな音楽ができるのかと、ばかげた質問をうけることもあります。」4)というように鄭京和にとってその状況は最近まであまり変わっていない。

2.「東洋の他者」−日本における70年代の批評から−


1971年、欧米では新しい時代の寵児となっていた鄭京和が、アンドレ・プレヴィン指揮ロンドン交響楽団のソリストとして来日した。演奏を絶賛する声が多い中、鄭京和をめぐる音楽評論家たちの批評のキーワードは「東洋」であった。「東洋の新進に大した期待もかけずに会場に足を運んだ」という岩井宏之は「東洋の他の地域から有力なライバルが出現した形跡がなかったものだから、ことヴァイオリンに関して、われわれの耳目が東洋にそそがれることはなかったのが実状だが、チョンの出現がそれを変えるきっかけになるだろうことは疑いの余地がない。……潮田益子の強力なライバルが出現した」と当時日本のホープであった潮田益子を引き合いに出し、「東洋の他者」の存在に気づいた驚きを隠さなかった5)。すなわち「東洋」という枠組みの中で日本人演奏家を相対化する姿勢が萌芽したのである。それは反対に厳しい評価をした大木正興の「自己顕示欲の強さと大胆さは日本人演奏家の持ち合わせぬもので、西欧で珍とすべき異端として受けることも想像に難くはない」6)という批評にも共通している。

「東洋」という枠組みは、1973年に来日した際、中国出身のピアニスト、傅聰フー・ツォンとのデュオリサイタルで一層際立つこととなる。傅聰は1955年のショパンコンクール3位入賞で国際的な名声を獲得し、日本でも60年代から「東洋のピアニスト」として知られていた。この演奏会について中田有彦は「われわれ東洋人のみが持ちうる肌目の細かさで印象的な音楽を作り出していた。熟達された西洋音楽には人種的な違いも豊かに作用するのだろう、息の合った演奏が満足感を与えた」7)と批評した。一方、小石忠男は「西欧の伝統や様式を拒否する異端への道をたどっていた」8)と手厳しい。

このように「東洋」が強調される文脈で見えてくるのは、「西洋」(「西欧」)に対する「東洋」、そして「東洋」の中での「日本」と「他の地域」という2つの図式をめぐるオリエンタリズムである。大木、小石とも「西欧」を基準としてかざすことにより「異端」と断じ、中田は東洋人らしさを肯定的にとらえつつも、最終的には人種の違いを寛大に包み込む西洋音楽の「熟達」に還元している。そして「東洋」の他地域に先んじて「西欧」に展開していると自負してきた日本が、視野に入ることのなかった「東洋の他者」の出現に驚いている。傅聰との共演を解説した辻井英世が「中国や韓国での音楽の状況がどのようなものか私はまったく知らない」9)と書いたのが現実だったのである。

3.「韓国のエスニシティ」−日本における80年代の批評から−


1983年に鄭京和は10年ぶりの来日をはたす。35歳の鄭京和は欧米でまさに飛ぶ鳥を落とす勢いでキャリアを重ねていた。1980年のエリザベート王妃国際コンクールではメニューイン、シェリングらの巨匠に並んで審査員を務め、1982年には英国サンデータイムズより「過去20年で最も活躍した器楽奏者」に選ばれている。

それにもかかわらず、日本では70年代にもなかった屈辱的な対応が待っていた。来日前には、N響理事が「『ドイツ音楽に異種のにおいを持ち込む』という意味の発言をして、N響との共演を断った」というニュースが報道された10)。また「日本の一部には、彼女が韓国出身という理由だけで認めようとしない人がある」11)、「隣の音楽家……日本ではあえて無視されている」12)と写真週刊誌までが彼女を話題にした。絶賛する批評が多い中、「韓国人」のエスニシティを強調した批評、そして音楽評論家だけではなく幅広い分野の文化人から鄭京和論が聞かれたことは、70年代と大きく異なる点であった。

中でも、作詞家のなかにし礼は鄭京和を「民族の血の意識にもえ、韓国人であることに自己のアイデンティティを持とうとしている演奏家」、「キムチと焼肉を食べて世界を股にかけている音楽家」とし、「ドレスの色はもちろん『白衣の民族』を象徴する純白なのだが、両脚がO脚型ガニマタに開いているとはっきりわかるような身のちぢめ方をして猫背になってみたり……バイオリンを真横にかまえてふんぞり返り傲慢ともいえる顔に悲しみの表情をうかべる」13)と酷評した。一方、作曲家の間宮芳生は批評の中で「彼女の演奏の性格が、東洋人、それも韓国の出だからと説明されるのがぼくは好きじゃない。」14)と書いた。逆説的に読めば、それだけ「東洋人」、「韓国人」が強調して語られていたのである。作家の井上ひさしは「この頃韓国からものすごいヴァイオリニストが出てるでしょう。それは韓国の方々が、いろいろな歴史的条件で、きつい目に遭っているせいらしいんです。ヴァイオリンに感情がいちばん出るそうですね。その音色が一番、人の声に近いですから。それで、今、韓国のヴァイオリニストというのはすごい。」15)といったが、暗に鄭京和を指していると思われる。そこには日本の植民地支配やその後の南北分断、朝鮮戦争等、韓国の激動の時代が投影されているように読み取れる。

おわりに

1988年にソウルオリンピックが開かれた韓国は、高度経済成長を遂げて世界の注目を集めていた。鄭明勲がパリの新オペラ座バスティーユの音楽監督に抜擢され頭角を現し始めたのもこの頃である。韓国からは他にもバイオリンのサラ・チャン(張永宙)、ソプラノのスミ・ジョー(゙秀美)らが世界の舞台に彗星の如く現れた。1984年に結婚した鄭京和は80年代後半相次いで2児を出産し母となった。出産、育児のため活動をセーブしていたところに、若い世代の韓国人音楽家が続々と台頭してきた。その頃から鄭京和を「東洋」、「アジア」、「韓国」という枕詞つきで論じる傾向は多少減ったように見受けられる。

日本の楽壇は、戦後の「東洋」への視点の「不在」から70年代の鄭京和の出現を一つの契機に「東洋の他者」の存在に気づいた。80年代になるとその認識は「東洋」から「韓国」へと収斂していく。この認識はポストコロニアルな時代における日本人の東洋、アジア、そして韓国認識のひとつの縮図であり、そこに伏流するのは、西洋と東洋、アジアと日本、韓国と日本の各図式におけるオリエンタリズムではなかろうか。

ところで鄭明勲も、音楽と国際情勢の複雑な関係の中で生きてきた。1974年のチャイコフスキーコンクールピアノ部門で2位となった時は東西冷戦の最中であった。この快挙にソウルでは凱旋パレードが行なわれた。1994年にはフランス国内の政治的な理由で、心血を注いだ新オペラ座・バスティーユの音楽監督を解任されるという経験もしている。

鄭京和の演奏に韓国のエスニシティを投影する批評が多かった反面、鄭明勲の指揮する演奏に対してそのような批評は少ない。それは欧米や日本のオーケストラを指揮していることや、自ら音を出さない指揮者の属性にも起因していよう。姉が払拭しようとしてきた「東洋」、「アジア」、「韓国」を、鄭明勲は今あえて再設定しようとしている。それは歴史認識や領土問題他でぎくしゃくする東アジアの政治関係を少しでも和らげたいという音楽家の社会実践であると同時に、音楽のグローバル化や「韓流ブーム」の中で急速に失われつつある姉・鄭京和の相克の記憶を、辛うじて私たちの脳裏に留めようとするポストコロニアルな営為に見えるのである。


1)例えば、拙稿「近代の日本人における朝鮮音楽観−1910〜1945年を中心に−」『日本音楽教育学会妙高ゼミナール報告書』2005
2) 李元淑『世界がお前たちの舞台だ』(藤本敏和訳) 中央公論社 1994
3)『日本海新聞』1998年5月8日
4) 同上
5)『音楽の友』1971年6月号
6) 大木正興『大木正興音楽会批評集(下)』 音楽之友社 1980
7)『朝日新聞』大阪本社版 1973年4月14日(夕刊)
8)『音楽の友』1973年6月号
9)『鄭京和&傳聡ソナタの夕べ』プログラム冊子 大阪フェスティヴァル協会 1973
10)『朝日新聞』1983年7月30日(夕刊)
11)『音楽の友』1983年9月号
12)『フォーカス』1983年10月18日号
13)なかにし礼『音楽への恋文』共同通信社 1987
14)『朝日新聞』1983年11月9日(夕刊)
15)「現代文学の無視できない10人シリーズG 井上ひさし」『すばる』1986年8月号 


 ふじいこうき 島根大学教育学部准教授(音楽教育)