07/03/23
ベトナムの今―「南学日本語クラス」から思うこと―
                                                        
田中 健郎



「末っ子の世代になってやっと学校に行かせられるようになったんだよ」

 街中はバイクの洪水、街角にはモノが溢れる、このような風景は近年ベトナムの都市部で急速に「消費文化」が浸透していることを映し出している。ドイモイ政策から20年、カンボジア問題終結から15年の今、ベトナムは「高度経済成長期」にあるのだ。しかし、表面的には豊かさを謳歌しているように見えても、他方で過去の苦難からようやく抜け出し、新しい時代の中で懸命に苦学する若者が生まれつつあるのも、また今のベトナムである。冒頭に挙げた言葉は、筆者の友人の父親がある時語ってくれたものである。
 
 筆者は、2005年4月より2007年3月までの2年間、ベトナム南部のホーチミン市(旧サイゴン)に留学した。本小文では、留学中筆者の交友関係の中心であった「南学日本語クラス」(以下「南学」と省略)を題材にし、「南学」の歴史、筆者の目に映った学生達の様子を通じて、「ベトナムの今」の一面を紹介する。
 
 「南学日本語クラス」とは

 同校は1991年10月にホーチミン市総合大学(現同市人文社会科学大学)に開設された同市初の公的な日本語学校であり、設立および後援者は戦中にサイゴンに存在した旧制専門学校、「南洋学院」のOB達である。
 
 まず簡単に「南洋学院」の説明をしておこう。同学院は日本外務省管轄の下、1942年から45年までの3年間存在し、約110名の学生が南方経済や熱帯農業といった科目に加えてフランス語とベトナム語を学び、ほとんどが終戦後日本へ帰還した。戦後45年経った1990年、彼らは同窓会の場で青春を過ごしたベトナムの地に日本語学校を設立することに同意したのだ。(注:「南洋学院」については、亀山哲三『南洋学院』〔芙蓉書房、1996年〕、および宮脇修『愛国少年漂流記』〔新潮社、2003年〕といったOBによる回想記の他、白石昌也「サイゴン『南洋学院』について」田中宏『日本軍政とアジアの民族運動』〔アジア経済研究所、1983年〕の研究論文をご参照願いたい。)
 
 こうして設立された「南学」は2年制のフルタイムの日本語学校で、何より独特なのは学費等が一切無料という点である。おりしも当時はドイモイ政策が軌道に乗り、西側諸国との対外関係も改善に向かいつつある時代であった。この時代背景の中で開校された初の公的な日本語学校、しかも学費が無料である。何と20人の合格枠に2000人以上が応募したという。当時の日本の新聞もこのニュースを取上げ、「カンボジア問題も明るい見通しで、解決できれば米国の経済制裁も解かれ、日本もおおっぴらにベトナムと関係を深めることができる。そんな近い将来を見越しているから、日本語熱もすごい」(『東京新聞』1991年9月2日)とその様子を伝えた。
 
 熱狂的に迎えられた「南学」であったが、支援者側の高齢化と資金難によって活動は次第に苦境に立たされていく。1998年には一時学生の募集を中止し、2年遅れで開校した中部地方フエの日本語クラスも閉校せざるをえなかった。以後運営を他のNPO団体に譲渡することで活動を続けるものの、2004年の募集を最後に、2006年8月、同校は15年間の幕を降ろしたのである。
 
 「現代っ子」と「新時代人」

 筆者が「南学」を初めて訪れたのは、留学開始から間もない2005年4月末のある午後だった。校舎の一室を割り当てられた「南学」の図書室には10人ほどの学生達が賑やかにしていたのを憶えている。その日「卓球をしに行こう」と誘われたのをきっかけに、その後2年間にわたる学生達との交友関係が始まった。

 彼らの大半はいわゆる「現代っ子」だった。つまり都市部の富裕層の子弟達で、現在の経済成長の恩恵を受けて、バイクや携帯電話を持ち、カフェでおしゃべりに興じ、休みになると海や山に旅行に出かけるような若者である。彼らは既に大学等の高等教育を修め、英語やITといった専門を備えた上で日本語を学んでいた。それゆえに、「南学」はエリート学校であり、2番目の専門を学ぶ場という意識があったようにうかがわれた。
 
 他方、一見地味だが目立って日本語がうまく、ハングリー精神を感じさせる学生も少数だがいた。その家庭環境や経歴を知るに連れて彼らを「新時代人」なのだと思うようになった。つまり、彼らは地方のさほど裕福ではない家庭に生まれ、勉強したくともできなかった父母や兄姉を持ち、しかし自分は家族から勉学を許された時代の若者である。
 
 筆者の友人、ディエップは1980年にメコンデルタ・キエンザン省のある運河沿いの小さな町に生まれ、「抗米戦争」を戦った小農家の父の下、22歳も年が離れた長男をはじめとする9人兄弟の末っ子として育った。地元の高校を卒業後、ホーチミン市の貿易短期大学で学び、以後同市のビニール製造会社で働くかたわら、大学の夜間部で日本語および日本文化を学び始めた。この機会に日本語を学ぶ意欲を強め、「南学」が最後の学生募集を行うという話を聞いた彼は、応募を決意。見事、合格した。「ベトナム人に対する日本人のイメージを変えたい」。その想いを胸に日本語の習得に励んだ彼は、2006年、「南学」最後の学年の一人として卒業し、さらに2007年5月からは日本でベトナム人労働者の管理担当として働くことになっている。
 
 本小文冒頭の言葉を思い出していただきたい。筆者が彼の実家を訪問した際、70歳を越える父親が語ってくれた言葉である。この言葉を聞いた時、ハッと気づかされた。ホーチミン市で高等教育を受け、ましてや日本語学校に通ったのは兄弟の中で彼一人だ。それは、彼以外が勉強嫌いであった訳でもなく、家庭を取り巻く「時代」が許してくれなかったからである。彼は、学ぶ意思があれば可能性が与えられる「新しい時代」に生きる若者なのだ。
 
 「ベトナムの今」とは

 「南学」の閉鎖は15年間の社会変化の一つの象徴であろう。「南学の前に南学はなく、南学の後に南学はない」。設立者の一人が語った言葉である。なぜなら支援者側の高齢化と資金難という問題以外に、ベトナムでは経済発展とともに日本語学校間の競争も厳しくなり、結果として「南学」が「ブランド化」する中で設立当初の役割はもう消え失せてしまったからだ。
 
 しかし、「ベトナムの今」とは、経済発展の申し子である「現代っ子」ばかりでなく、苦難の時代から抜け出した「新時代人」が誕生する社会変化の過渡期にあるというのが筆者の見方である。そしてまだ経済的に余裕がない彼らの受け皿となるためにも、またハングリー精神のある彼らの中から将来の日越関係を担う人材を育てるためにも、「南学」の様な日本語学校は今後も必要であると言えるだろう。このような立場からこれまで日越関係の一翼を担ってきた「南学」を思うと、その早すぎる終焉が惜しまれてならない。

たなか けんろう(東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻修士課程)