07/01/05
2004年インド洋大津波後のタイ南部を歩く
                                                        
市野澤潤平



2004年インド洋大津波

 研究者として何年もある特定の国や地域に関わっているうちには、一度や二度は、あっと驚くような大規模な事件や事故を見聞きするものだ。タイをフィールドとする筆者の場合は、インド洋大津波がそれに当たる。

 2004年12月26日、タイを含むインド洋沿岸を、スマトラ沖地震によって発生した大津波が飲み込んだ。タイ南部ではタイ人・外国人を含めて、確認されただけでも8,000人を超える死者・行方不明者を出し、経済的な被害も甚大となった。

 この事態を受けて、被災地の状況を視察して欲しい旨の依頼が、国立民族学博物館から筆者の元に舞い込んだ。建物や車がマッチ箱のように流されていく、津波被災時の衝撃的な映像がTVニュースで続々と流されていた、2005年1月のことである。筆者は、津波や災害については素人だ。しかし当時は緊急事態、災害専門家の手が足りないのなら、地域の「専門家」が出張るしかないではないか。この未曾有の災害を目の当たりにして、微力ながら何らかの助力になればという思いで、被災したタイ南部の視察を受諾した。

津波後のピピ島

 バンコクから夜行列車に揺られてタイ南部のスラタニへ、そこからバスに乗り換えて、アンダマン海に面する中規模都市クラビへ、そしてさらにフェリーに乗り換えて、レオナルド・ディカプリオ主演の映画「ザ・ビーチ」で一躍有名になった観光地のピピ島へ。事前の情報によれば、ピピ島はタイ南部でも一二を争うほどの甚大な被害を受けたという。まずはそこへ乗り込んで、被災状況や防災体制などについて、情報を集めたかった。

 2005年2月、訪れる観光客もなくなったピピ島へ向かうフェリーは不定期運行となっていた。クラビで二日間の足止めを食らったあげくにようやくたどり着いたピピ島の船着き場で目にしたものは、飴のようにひしゃげた桟橋と、きれいに押しつぶされた事務所のトタン屋根。ガラスが無くなって吹き抜けになった電話ボックスがもの悲しい。

 ピピ島のトンサイ湾エリアに形成された中心街はもろに津波をかぶってほぼ壊滅状態となっていた。そこは北側をローサマ湾、南側をトンサイ湾に挟まれた細長いエリアで、津波はローサマ湾側からトンサイ湾側に抜けていった。湾奥にあり、かつ両側を山に挟まれた形になっているので、波高が高くなり被害が甚大になったようだ。津波から二ヶ月後の訪問当時、未だに廃墟のなかで瓦礫を片づけている状況であり、進行の早いところは重機により更地化されていた。トンサイ湾エリアのうちでも、北側(津波が進入してきたローサマ湾沿い)と西側の地区は比較的更地化が進み、(抜けていった側の)東南側の地区は廃墟と瓦礫の山が残っていた。こういった瓦礫処理状況の地区ごとの格差は、東南側においては波の勢いが弱まり建造物が流出することなく残されたことに加え、土地建物の権利関係に絡み、行政の直接管理下にあるか否かにもよるという。一階部分はその周辺に商業集積を形成していた木造平屋もしくは二階建ての商店・飲食店・ゲストハウスなどは、流されこそしなかったものの、大きく破損しほとんどが放棄された状態であった。トンサイ湾の東端の地区では、津波による破壊が小さかったために、ゲストハウスや食堂・商店などが営業を再開しており、少数のバックパッカーとダイブ・ボランティアの外国人などが滞在していた。また、ピピ島の北西部には幾つかのビーチリゾートホテルが点在するが、これらに関しては物理的な被害は限定的で、通常営業に戻っているようだった。

ピピ島における津波被災者

 当時、筆者はタイ南部の土地勘を全く持たず、今回の調査も実質のところ徒手空拳で行った。コネも協力者もなく、頼りになるのは自分の足と五感だけ。炎天下、閑散とした瓦礫の中をただひたすら歩き回り、物理的な被災の状況を検分しつつ、行き会った人間に片っ端から話を聞く。聞き慣れない南タイ方言、しかも感極まって泣きながらまくし立てられたりすると、正確な聞き取りどころか概略をつかむのさえ難しい。それでも、5人10人と話を聞くうちに、津波来襲時の状況がある程度は飲み込めてきた。

 現地のタイ人の話を聞く限り、津波というものの存在自体を全く知らなかったというのが大半であった。トンサイ湾エリアにおける聞き込みで共通していたのは、事前に津波のことを知っていた・いないに関わらず、あまりに突然のできことだったために、津波来襲時にできる対応は極めて限られていたということだ(事前の警報・注意報はなかったため、実際の津波の来襲をもって初めて危機の発生を知るというのが実情であった)。朝の10時半ということで、建物の中にいた者も多いが(トンサイ湾エリアの建造物の多くは平屋か二階建てである)、その多くは訳も分からぬまま波に押し流されてしまった。僥倖にも当時屋外にいたものは、遠くから波がやってくるのを察知し、状況を理解できぬままにとにかく高所に駆け上がるなどの対応を取ることができたケースもある。ただし、多くはやはり(手近に高台がなかったこともあって)適切な方向へ逃げることができず、波に呑まれた。ここで生死を分けたのは偶然である。

 トンサイ湾エリアにおいては、津波来襲直後は生き残った者はひたすら泣き叫びながら家族や知人の安否を尋ねて回っていたという。ただし廃墟の中をやみくもに歩き回るしかできることがない。トンサイ湾エリアに救援のヘリコプターがやってきたのは夕方5時ごろ(次の日という証言も多かった。住民たちが救助の状況を把握し切れていないことを伺わせた)で、救助者の誘導により近くの高台(多くは山の斜面)に避難して夜を明かした。救助者の絶対数が少なかったために全ての被災者に対する適切な誘導はできなかったようだが、多くの者たちは津波の再来をおそれて直感的に高所へと移動した。津波という事象に対する知識が行き渡るまでには時間がかかったようだが、フォーマルなルートよりも、たまたま以前に津波に関するテレビを見て知識があった者が情報のハブとなるなど、口コミによる側面が強かったようだ。

観光インフラの被害状況

 今回の津波災害の特徴のひとつとして、その物理的被害が選択的だったことがあげられよう。すなわち、地形や津波の進行方向に対する角度などの諸要因から、各ビーチリゾートにおいて物理的被害の程度が大きく異なったのである。たとえば、ピピ島においても、中心街とは対照的に、島裾に散らばるリゾートホテルの多くは無傷に近い状態であった。

 タイ南部に点在する主要なビーチのうち、壊滅と言える状態になったのは、ピピ島のトンサイ湾エリアと、パンガー県のカオラック・ビーチであった。カオラック・ビーチ沿いの主なエリアは完全に波にさらわれ、大きな建造物が幾つか残っている以外は、瓦礫もほぼ撤去されてほとんど更地化していた。ビーチの数百メートル内陸を走る国道沿いには商店やゲストハウスが並ぶが、これは津波に流されたエリアと被害を受けていないエリアにはっきりと二分されていた。メインのビーチを挟む形で準プライベートビーチを形成するビーチリゾートが点在しているが、これらのほとんどが完全に波をかぶり放棄された状態となっていた。

 しかしながら、このように壊滅的な打撃を受けた地域は、どちらかと言えば例外的である。タイ南部の最大の観光地はプーケット島であるが、島内に点在するビーチのうち、全面的といえる打撃を受けたのは、比較的小規模なリゾートであるカマラ・ビーチのみにとどまった。プーケットのなかでも最も賑わうパトンビーチでは、ビーチ沿いにこそ、建造物が破壊されたまま残り、営業していないホテルや店舗が点在していたものの、津波後二ヶ月の時点ですでに復旧は急ピッチで進んでおり、着々と通常営業に戻りつつあった。ビーチロードから内陸側にはいると、最も被害がひどかった南端のエリア以外では建造物の破損などはほとんど目立たない。ビーチそのものへの被害は特に見受けられず、護岸が一部崩れている程度である。

 ピピ島のトンサイ湾エリアとカオラック・ビーチに関しては、宿泊施設や商店などのインフラが壊滅しているため、観光客の受け入れは難しくなっていた。復旧には相当の時間を要すると思われた。プーケットで最も大きな被害を受けたカマラ・ビーチは、しかしながら瓦礫の撤去はほぼ完了し、ホテルが営業を再開、商店・ゲストハウス街なども急ピッチで再建中だった。プーケットのその他のビーチは被害が軽微で、観光地としての機能的には問題がない。津波後二ヶ月の時点で、インフラに注目して被害状況を整理すると以下のように大別できる。1.完全に壊滅しているため復旧までに年単位の時間を要する(ピピ島トンサイ湾エリア、カオラック・ビーチ)。2.被害は甚大だったが、数ヶ月で復旧の見込み(プーケットのカマラ・ビーチ)、3.被害は残るものの観光地としての機能は既に回復(ピピ島北西部、プーケットのその他のビーチ)。

プーケットの風評災害

 観光は、タイ南部最大の産業と言っても過言ではない。津波来襲当時、ピピ島には約3,000人の住人が住んでいるといわれたが、そのほとんどは観光産業の従事者であり、また多くは島外からの出稼ぎ者であった。働き場を失った彼らのほとんどは県外などに脱出した。直接の物理的被害を受けなくとも、観光客の減少によるビジネスの落ち込みを理由に現地を離れた者が多い。同様な傾向はプーケットの各ビーチやカオラック・ビーチにも言える。つまり、これらの地域においては住人のほとんどが何らかの形で観光収入に依拠した生活をしている。従って、津波被害の社会的影響は、生活の基盤となるコミュニティの崩壊という以上に、むしろ経済的な基盤となる市場の縮小という形で言い表す方が妥当であると思われる。

 2004年に400万人以上の観光客を集めたプーケットでは、観光インフラの復旧はきわめて迅速に行われたが、激減した客足がなかなか戻らなかった。筆者が話を聞いたホテルやレストラン従業員、日本人の観光関連事業者たちの実感では、例年の2-3割の売り上げしかないという。結局、2005年の一年間を通して、プーケットを訪れた観光客は、前年の半数以下にとどまった。プーケットの観光ビジネスは季節性が大きく、クリスマス休暇から日本のゴールデンウィークまでの間に年間の七割程度を売り上げるという。それが津波来襲の年に限っては、ハイシーズンの売り上げが激減したため、仮に夏頃になって客足が戻ったとしても、少なくとも小規模事業者にとっては資金繰りが苦しい状況が続くこととなったのである。

 津波後のプーケットを訪れる観光客属性の特徴として、リピーターがほとんどで新規の観光客が極めて少ないことが挙げられる。これは、マスメディアや旅行代理店などを通じて間接的に得るプーケット情報やイメージに頼る消費者たちが、旅行商品の購入を手控えていることを示す。筆者は、こうした問題を「風評災害」と呼ぶ(Ichinosawa, J., 2006, "Reputational disaster in Phuket: The secondary impact of the tsunami on inbound tourism," Disaster Prevention and Management, Vol.15-1)。建造物の破壊や住人の死亡・負傷などの物理的なダメージが津波の一次被害・直接被害とするなら、観光客の激減による経済的な落ち込み(風評災害)は、二次被害・間接被害である。大規模な自然災害に際しては、このような長期的は間接被害が、ときにきわめて重大となることがある。そうした間接被害の影響を強く被るのは往々にして、津波や地震の物理的被害と同様に、小規模事業者やインフォーマルセクターにおける被雇用者などの社会的に脆弱な層である。

 被災者支援に関するピピ島やプーケットの人々の語りで印象に残ったのは、(被災直後において対応が遅い・不充分ということに加えて)中長期的な援助の可視性のなさもしくは偏りということである。報道などで、巨額の財政的・人的・物的リソースが復興につぎ込まれているということは見聞きするものの、少なくとも観光地で働き暮らす者たちにはそれが実感として感じられない。筆者の理解としても、こうした不満は必ずしも的はずれのものではないと思われる。観光産業における風評災害はあくまでもビジネス上のことと見なされ、金銭的・物的な直接支援の対象とはされていないという実情がある(政府主導の観光プロモーションなどの間接支援的は行われている)。「自然災害=生活基盤の崩壊」のパターンにはまらない被害に関しては援助が振り向けにくい、という硬直した構造と関係者の認識とが、その背景にあると考えられる。

おわりに

 今回の津波災害に関しては、タイ国内外から多数の研究者が現地入りして、被災および復興状況の調査を行った。社会科学系の研究者に関して言えば、コミュニティ復興、生活基盤を奪われた被災者への援助活動、物理的な被害を予防・低減するための知識・文化・情報、といったところが主な関心のようだ。観光産業への打撃は、タイ国内においては重大な問題として受けとめられているが、この方面への研究者の関与は、経営学・観光学系の研究者によるマーケティング的な視点からのものに限られる。日本人のタイ研究者や学生も多くが現地を短期調査に訪れたようだが、風評災害へと視点を向ける者はいない。

 自然災害は単なる一過性の物理的打撃ではなく、被害を生む背景となる弱さ(脆弱性)が社会の一部に蓄積される過程から被災後の復興における種々の混乱まで、自然環境・文化・社会・政治・経済などの諸要因が複雑に絡み合った過程として生じる――というのが近年における社会科学的な災害観である。災害をそのような長期的かつ複合的な過程として捉えるとき、旧来的な視点からは思いもつかなかったような雑多な事象が災害の問題として立ち現れてくることに、我々は気付くだろう。学術研究における専門分化が進めば進むほど、研究者は尺沢の鯢となりがちで、巨大で複雑な事象の全体を見通すことが難しくなる。ゆえに、災害のような対象を扱うには、異なる視点を持つ多方面の研究者の協力が不可欠となるのである(手前勝手になるが、今回の風評災害に筆者が注目し得たのは、従来的な被災調査の枠にはまっていなかったからである)。災害研究はいままで主に災害それ自体を専門とする研究者たちによって推進されてきたが、上記のような観点に立てば、必ずしも災害研究を専門とするわけではない、地域研究や文化人類学などの研究者が寄与できる余地も少なくない。近年、大規模な災害が多発する中、アジア研究者による災害研究への貢献が、今後いっそう求められることになるだろう。

いちのさわ じゅんぺい(東京大学大学院総合文化研究科博士課程)