05/12/28 | ||
現地を歩いて気付くこと |
||
|
||
「海外調査研究の最前線」が与えられたテーマだが、あいにく自分は紹介できるほど「海外調査研究」の最前線にいるわけではない。日本・中国・韓国の三ヶ国の歴史に中途半端に手を出しているため、特に海外調査の場合は、もっぱら海外の先生方の協力をお願いし、その成果を学ばせてもらう立場で臨んでいる。もちろんそこから得ることは多いのだが、それについて自分が語る資格があるかは、あまり自信がない。そこで今回は、最近の日本国内の調査の話を書くことで責をふさぎたいと思う。 1 高知県清水湊と対外交流 3年前のことだが、数人で高知の史跡などを数日まわったことがあった。対外交流の上で注目されることの少ない地だが、戦国時代になると、遣明船の派遣をめぐる細川氏と大内氏の対立の中で、従来の神戸―瀬戸内海―博多―五島列島―寧波(中国浙江省)というルートの他に、堺―高知―太平洋―鹿児島―五島列島―寧波というルートが開拓されたことで、高知は中国への重要な中継地点となる。特に16-17世紀には、世界的な海上貿易の活発化により、太平洋側への漂流民が多く確認されるようになり、高知についても多くの事例が知られる。もっとも有名なのは、現在の高知市街地の外港に当たる浦戸に漂着したスペイン船サン・フェリペ号だろうが、中世においては西部の幡多がむしろ重要であった。16世紀に中国で作成された地図でも、幡多の中村や清水湊周辺が特に強調されて描かれているし、江戸時代の史料には、1574年に長宗我部元親が幡多を平定した時、清水で湊の広大な様を見て、「異国の大船数度入船せしも理なり」と述べたとある。 清水湊は深く湾入した地形で、周囲を高い丘陵で囲まれ、船が風をよけるのに最適のロケーションである。中浜(ジョン万次郎の出身地)の西の遠見崎から北上し、奥に入って東に向かっており、「L」を上下に反転させた形になっている。北の突き当たりの丘陵には蓮光寺という浄土宗寺院がある。中世以来の寺院であり、明治に廃仏毀釈で破壊されたが、後に復興した。ちょうど清水湊を見下ろす立地であるが、中世の港は寺院・神社などの宗教施設を備えることが多く、清水湊もまさしくその条件を備えた湊といえる。1480年、蓮光寺建立のための寄付を募る古文書に、「海にのぞみて往来の商客を、利益の風をわけて南北の舟人を送迎す」とあることは、湊の付属施設としての寺院の性格を如実に示している。また境内に「寺井戸」という古来の井戸があるが、良質の水の補給も、遠洋航海船の立ち寄る港には必須の条件だった。 蓮光寺がかつてこの地域の中心だったことを示す事実として、1616年のスペイン船来航の時の話がある。1686年に老婆の記憶を書き取った文書によると、このスペイン船は7月13日の激しい風雨で浜に打ち上げられたが、スペイン人はこの原因として、同日に浦中の者が蓮光寺に集まり施餓鬼会を行ない自分たちを調伏したためと考えていたという。集落中の人々が忌まわしき異教の儀式に参加する様は、スペイン人に恐怖と猜疑心を与えたのであろう。また蓮光寺は、外から漂流して身寄りなく死んでしまった者を供養する場でもあったようで、現在でも境内には1705年に漂着した琉球船の船員や、1781年に漂着した和歌山県印南浦の漁民の墓が残っている。 さて、清水湊の東の突き当たりは浦尻というが、大碇谷・小碇谷・船場・御古倉など、船に関する小字名が多い。大碇谷・小碇谷などは、「大イカリ」「コイカリ川」として長宗我部氏の検地帳に登場し、中世以来の地名であったことが知られる。そうした地名の中でも興味深いのは、「唐船島」である。1946年の南海大地震で80センチ隆起したことで、地質学上の見地から国指定天然記念物に指定されている。江戸時代の史料では、「唐船」が沈没した場所であると説明されている。小さな小島で、人が住むような大きさではない。海岸からは大して離れておらず、島と海岸の間に船を繋留するとちょうどいい風よけになり、実際に今でも漁船が何艘か泊められていた(下掲写真参照)。 おそらくここは昔から船の繋留場として利用されたのであろう。その中で沈没した「唐船」があったとしてもおかしくはない。もちろん江戸時代の「唐船」沈没説は必ずしも鵜呑みにはできないが、江戸時代初期までしばしば外国船の来航が見られたという地元の記憶や、船の繋留場としての島の役割から、そのような話が定着したのだろう。なお「唐船」は外国との間を往来する船一般を言う言葉で、朝鮮船でもヨーロッパ船でも日本の外洋船でも「唐船」と呼ぶ(さらには外国品を積んだ日本船も「唐船」という場合がある)。 2 「唐船島」をめぐって さて、話は変わって去年、科研費の調査で大分へ行き、中世の港町を中心に現地を踏査した。周知の通り、大分では16世紀後半、大友氏の支配下で海外貿易が盛んに行なわれた。入港地としては別府湾南岸の豊後府内が有名であるが、北岸の日出湊もポルトガル船の来航があったことが知られる(ザビエルは日出のポルトガル船の船長を頼って大分へ行き、宗麟と面会することになる)。日出湊よりも西、別府湾の北西角あたりに、豊岡港がある。江戸時代には頭成湊といった。1694年に頭成に来た貝原益軒は、「頭成は船の付所也。大船も繋ぐ」と記している。明治初年の統計では、一年の出入船は数百艘に及んでいる。 踏査中、「唐人島」という島がこの付近にあることが、地名辞典に記されていることに気付いた。この時は時間もなく、どこにあるのかよく分からなかったが、帰ってから調べてみると、豊岡港から少し東に行ったところにある陸繋島のことで、現在は「島山」ということがわかった。小さな岬のようになっていて、先は丘のように盛り上がっている。やはり風よけに適した場所で、現在でも島影に船が泊められているようだ。「化舟島」ともいうが、船を仮に泊めておく島という意味だろう。航海神の事比羅神社があり、港のシンボルのような存在だったと考えられる。「唐人島」という名称について近世の地誌は、平安時代に唐船が来たという説を載せている。これは後世の付会であろうが、海岸近くの船の繋留場であること、かつて近くに外国船の来航が見られたことから、「唐人島」という名称が定着したものと思われる。 興味深いのは、「唐人島」が清水の「唐船島」と同様の立地にあり、同様の名称で呼ばれていることである。あるいはこうした島は、他にもあるのではないか。そう思って、手元の辞典・地図・インターネットなどで簡単に調べてみたら、いくつかの「唐船島」が検出できた(「唐人島」は見つからなかった)。実際に行ったわけではないので、詳細ははっきりしないところも多いが、事例のみ以下に紹介しよう。 一つは、熊本県上天草市大矢野町である。天草諸島はいくつかの島で構成されるが、宇土半島から天草諸島へ入る入口に、大矢野島がある。1545年に「唐舟」の来航があったことが知られ、16世紀には貿易船入港地の一つだったらしい。この大矢野島の北西の対岸に野釜島がある。その北の方に「唐船ヶ浜」という砂浜があり、今では海水浴場となっている。その対岸に「唐船島」という小島がある。ただし地図を見る限りでは、海岸から1kmほど離れ、また「唐船ヶ浜」から島の周辺まで浅瀬が続いており、清水の「唐船島」や豊岡の「唐人島」のように風よけの繋留場として考えて良いのかは、疑問もある。 次は、福井県小浜市の内外海(うちとみ)半島である。東から内外海半島、西から大島半島で囲まれた小浜湾の西岸には、小浜湊がある。ここは日本海から京都へ至る最短の窓口だったこともあり、中世には日本海交通の中核として機能した。青森県十三湊や長崎県対馬などとの往来もあった。15世紀初頭には二度にわたりスマトラ島のパレンバンの船(華僑による操舵)が来航し、足利義持に進物の献上を行なっており、また16世紀後半にはルソン壷を取引する廻船商人や、唐人の居住も確認できる。内外海半島の南岸に「泊」という地名があるように、この半島は小浜湊へ入る中継地としての役割を果たしたと思われる。この半島の北岸は岸壁が続いており、「若狭蘇洞門」と呼ばれ、景勝地として国定公園に指定されているが、その西端の海岸近くに、「唐船島」と呼ばれる奇巌があり、外国船が船をつないだという伝承がある。「朝鮮島」ともいう。 三つ目は、広島県廿日市市豊田郡安芸津町である。中世以来の湊である三津湾の西岸に木谷村があり、江戸時代に海運・漁業で栄えた。この南端に二馬手という土地があり、江戸時代に舟船建造時の波よけのために設けた埠頭もある。この対岸数kmのところに「唐船島」がある。最後に、兵庫県赤穂市尾崎の赤穂海浜公園の西南端に「唐船山」がある。かつて「唐船島」と呼ばれ、江戸時代に開発された塩田と陸伝いになっていた(塩田の海岸部は唐船浜という)。塩田は現在完全に埋め立てられ、公園の一部になっている。この二例はいずれも瀬戸内海の海岸から少し離れたところに位置する小島である。遣唐使・遣明使などの遣外使節や外国の使節が九州と京都・江戸を往来する場合、瀬戸内海を経由することが多かったが、二つの「唐船島」も何らかの関係があるのかもしれない。なおついでまでに、赤穂市尾崎のすぐ西には、古代以来の瀬戸内海交通の要衝で、朝鮮使節などもしばしば立ち寄った室津があり、対岸には地唐荷島・中唐荷島・沖唐荷島と呼ばれる小島がある。『万葉集』にも見える島で、奈良時代成立の『播磨国風土記』に拠れば、韓人の船荷が漂着したことによる地名という。 これらの「唐船島」の立地条件や港との関係については、実際に行って地理条件などを見て、さらに文献や古地図などの調査もしないと何ともいえないが、いずれも対外交通と関わる土地であることは、興味深い事実である。その中のいくつかは、「唐船」との関係をうかがわせる伝説を持ち、地元の人々が対外交流と関わるイメージをこれらの小島に対して持っていたことは疑いない。地名から何を読み取ることができるかは、近年日本史学の中でも議論されているが、ただちに史料として用いることができるかどうかは措くとしても、興味深い素材であることは間違いないだろう。こうした素材の存在に気付くためには、やはり机の上で本だけ見るだけではダメで、現地を踏査しなければならない。 またこうした調査が年々困難になっていることにも、注意しなければならない。一つには開発による景観破壊(赤穂市尾崎の例など)の問題もあるが、近年特に目立つ問題として、大規模な市町村合併による行政区の変動や、それにともなう地名の変更・消滅がある。もちろん研究の障害になるから合併するなとは言えないが、消え行く地名の早急な収集の必要性も認識されてきている。近年の成果として、服部英雄『二千人が七百の村で聞き取った二万の地名、しこ名 : 佐賀平野の歴史地名地図稿』(花書院、2001年)の大著があるが、こうした地道な作業は、今度ますます必要となってくるだろう。 |
||
★えのもと わたる 東京大学東洋文化研究所助手 | ||
|
||