05/12/21
「38度線」以北のフィールドワーク─韓国村落の過去と現在―
                                                        
中野 泰
 2005年の秋、短い休みを利用して、私は韓国東海岸北部の漁村Dマウル(村落)を再訪した。Dマウルは、私が長期のフィールドワーク(2003年〜)を行った村だ。折しも開かれた青年会の定例会議へ1年ぶりに顔を出すと、新入会員が1人来ていた外、顔馴染みの者ばかりで安堵する。目新しい話題は、数日前に漁網へ迷い込んだ鯨を売って大金を得た漁師(青年会員)が、青年会への寄付を迫られていたことであった。そして、小さな変化であったが、会議室の壁には、デモをする青年会を映した写真が額縁に飾られてあった。撮影者は私である。いつも机の上に置かれたままだったその写真が、会議室の壁を飾ると妙に気恥ずかしさを感じる。会議後、酒を飲みながら、写真に話を向けると、私が「名誉会員」だから、会議には可能な限り出席しなければならないと冗談で話をかわしてきた。
 
 Dマウルの港で水揚げされた魚は、1970年代中頃より、刺身として売られ始め、1990年代には都市圏から多くの客を集めるに至った。観光化の流れを受け、国の海洋水産部と地元の行政は、Dマウルの総合港湾開発を推進することとなった。しかし、行政側の不充分な説明のため、マウルからは反対の声が次第に高まっていった。幸か不幸か、私の長期調査中にその反対運動は1つのピークを迎えていた。青年会も、この反対運動の一翼を担い、開発をめぐる討論会(テレビ局の番組で生放送する際)に出席する外、起工式へのデモなどを行っていた。青年会に顔を出していた私は、この状況へ自然に巻き込まれることになったのである。フィールドワークにありがちだが、依頼されたのは写真撮影だった。

 ところで、Dマウルの総会は、外部の者をシャット・アウトして行われていた。当時、港の開発については、それを推進する側と反対する側との間で情報合戦が繰り広げられていたからだ。例えば、行政側が開発の合法性と適合性を説けば、マウルの自治団体が手続きの不充分さを批判する。新聞やインターネットもその場を提供した。更に、外部からは環境保護団体が加わり、開発計画に反対活動を展開していた。1990年代前半に創立したこの団体は、環境運動連合へと成長し、広域的に活発な運動を展開していた。マウルは、環境団体と連携する形で開発へ反対していたのである。当初は、これこそが現代韓国社会の性格を象徴的に表していると思った。

 総会の在り方は、一見、マウルの強い結束による閉鎖性と受け止められるかもしれない。だが、参席してみると事態は単純でなかった。反対運動は、マウル全ての者によってなされているわけではなく、色々な考えを持つ様々な組織や個々人によって担われていたからである。ある時は、漁民が部分的な賛成の立場を表明することもあり、対立する両者が罵りあう場面にも遭遇した。当然、カメラを手にした私の行動も村人の視線を浴びた。ある女性は、「みっともないところばかり何故追いかけるの」と不満げだったし、「お前も写真に撮られてるんだぞ」と注意する者もいた。後に青年会員から打ち明けられたのは、刑事が私の素性を聞いて廻っていたことだった。実際に刑事の疑惑をいかに解いたのかは分からない。「名誉会員」という肩書を貰ったのはその時からであった。

 Dマウルで生じている開発の問題は、行政の進める一方的政策に、住民や環境団体が異議を唱えるという点で、韓国のその他の環境運動と共通する点がある。この運動は、しばしば指摘されるように、1960年代以降の国土開発と経済的急成長に伴う矛盾が現在的に表出したものと考えられる。行政当局の強い権限に圧迫されることで、マウルの社会的な性格が特異に顕在化していることが興味をひくが、もちろん、このような状況を、村と村の外部との対立という観点からのみ描くことは、村を均質的に捉え、その内部の多様性を軽視する危険性があろう(韓敬九他(山下亮訳)、2001『海を売った人びと』、日本湿地ネットワーク、特に第4章参照)。政治・経済的利害の関わる微妙な状況に対しては、マンチェスター学派が試みていたように、出来事をも通して、緊張をも伴って微妙に揺れ動く人々の相互行為をも対象化する動態的な視角が有効と思われる(Turner, V.W. 1957. Schism and continuity in an African society. Manchester U.P.)。その視角に加えて、私は、村内部の多様な立場が、いかなる歴史的展開に即して形成されてきたのかを明らかにしていくのが生産的だと感じるようになった(Donald Macleodは、土地所有の検討を通じて説いている。2004. Selling Space: Power and Resource Allocation in a Caribbean Coastal Community. in Confronting Environments, ed. James G. Carrier. AltaMira Press.)。

 ところで、フィールドワークに基づき、韓国のコミュニティを研究した日本人人類学者の成果は、文玉杓によると、民族誌的現在を社会人類学的手法で丁寧に描いていると評価されつつも、時代ごとに異なる歴史的性格を充分に捉えていず、韓国全体における位置づけが必ずしも明確でないと批判されている(1999「(書評)嶋陸奥彦・朝倉敏夫編『変貌する韓国社会―一九七〇〜八〇年代の人類学調査の現場から』」『民博通信』、83)。民俗学においては、まず、民俗誌以前に植民地時代の成果の批判的検討が盛んであり、日本人によるエスノグラフィックな試み自体これからの課題である(拙稿、2005「ポストコロニアル時代の韓国民俗学の研究動向」『日本民俗学』、244)。実は、今回の調査は、以下のように、現在を追うことに私自身も注意を向けすぎていたと反省させるものでもあった。

 Dマウルは江原道東海岸、「38度線」以北に位置する戸数約400の漁村である。第二次世界大戦の終結とともに、朝鮮半島は、米露の思惑を背景に「38度線」で分けられ、後に、38度線は、実際の緯度よりも、西側では南側へ、そして、東側では北側へずれた位置に、休戦ラインとして落ち着いた(韓国で38度線は、広義に休戦ライン(民統線を含む)を指す場合もあるが、ここでは緯度としての意味で用いるため、括弧を付して広義のそれと区別する)。結果的に全国9道(日本での県に相当)のうち、唯一江原道のみが南北へ分断された。江原道では、軍政から民政への移行(1954年)と前後し、北朝鮮を抜けだした者が海岸部(高城郡から襄陽郡にかけて)へ移住してきた。いわゆる越南民(以北の人とも通称)である。束草市には、以北の者達が新たに形成し、アバイ・マウルと俗称される村もある。アバイは北朝鮮の方言でアボジ、すなわち、父の意だ。東海岸北部の1つの特色は、このように北朝鮮との混交性にある。

 Dマウルでの長期調査は1年には満たなかったが、それはG氏(以下、兄様を意味するヒョンニムと記す)、G氏の母(ハルモニと記す)との同居生活でもあった。ハルモニは80歳。58歳のヒョンニムは壮年で、足が不自由だ。そして、この家へ、ハルモニの今は亡き夫と親しかったS氏が良く訪ねてくる。大柄な体を腰で曲げ、後手を組んで歩く姿が印象的なS氏は、Dマウルの老人会長であり、また、デモを追い掛けていた私を無言で見守っていた人物でもある。今回の滞在中も老人会長が来訪し、興味深い話を聞くことがあった。酒を飲みながらの話題は、マウルの噂話からヒョンニムの父の話、そして、パルゲンイ(アカ:朝鮮戦争当時に良く用いられた共産思想の持ち主の俗称)の話へと展開した。

 夜道を自宅までお送りした後、家の庭で港を見下ろしながら、ヒョンニムと会話を振り返る。老人会長は、ヒョンニムの父がDマウルのパルゲンイを掃討するリーダー格の1人だったが、あるパルゲンイはマウル内の人間関係から、殺せず、見逃したと話していた。80歳を越えるが、老人会長の韓国語は私にとって早口だ。微妙な内容に私は聞くことに終止した。ヒョンニムの解説で、生き長らえた人が、私も知っている村人の家族であることが分かり、返す言葉を失う私だった。確かに、「38度線」以北で調査することには情報収集上の困難さがないわけではない。だが、それは、当初の想像を越えるほどでなかったため、Dマウルの時空間の特質は、気づかぬうちに私の意識の背後に退いていた。長期滞在の時にも聞くことがなかった歴史は、突然、生々しくその姿を垣間見せたのだった。

 そもそも日本の植民地時代、Dマウルの全人口の約1割は日本人が占めていた。漁業組合は共産思想を背景に成立し、近隣の農民運動とも連携していた。パルゲンイが多かったと言われるこのマウルは、解放後は越南民が多数流入し、とても貧しい漁村の1つと認められていた。しかし、開発に反対する現在の村は、富んだ村と見なされている。今のマウルのあり方と、このような歴史がいかなる焦点を結ぶのかは、植民地時代や朝鮮戦争時代を現在といかに関係づけて捉えるか、すなわち、韓国の近現代をいかなる視点から捉えるかによって大きく左右されるであろう(松本武祝、2002「"朝鮮における「植民地的近代」"に関する近年の研究動向」『アジア経済』、XLV-9)。

 尹沢林は、「禮山のモスクワ」と称され、パルゲンイを輩出した忠清南道禮山郡の村を取りあげ、民族誌を上梓している。彼女は、村落という微視的な空間の中で、どのような歴史解釈が作られているのか、すなわち、「村人の集合記憶」というよりは、「村人達の多様な社会的位置により異なって形成される記憶の政治学」を目指し、村内での共産主義をめぐる戦争が「自族之乱」、つまり、イデオロギーという仮面の下で争われた、「村人達の間の個人的、感情的、政治的主導権の戦い」であったという(『人類学者の過去旅行─あるパルゲンイ・マウルの歴史を求めて』、2003、歴史批評社:ソウル)。村人の様々な社会的位置に配慮をし、口述資料を活用することは、過去はもちろん、現在にも通用する方法論だ。朝鮮戦争を取りあげた人類学や民俗学の試みが、未だほとんどない中で、植民地時代をも含め、自らの視線の歴史的位相を内省的に描こうとするこの試みは、民族誌的現在の視点に歴史的な深みを加えるだけでなく、ネイティヴによるネイティブ社会の研究、すなわち、韓国人による、anthropology at home の実践としても受け止められるだろう(Jackson, A.(ed.) 1987. Anthropology at Home. Tavistock Publications.)。

 その晩の老人会長の話は、ヒョンニムの家の族譜の話にも及んでいた。ヒョンニムの父のお人好さは、弟との間、すなわち、宗(本)家と分家との間の不和の一因であったのだと。庭に並んで腰掛けていたヒョンニムは、酔いが回ったためか、韓国の俗談を教えると称し、「本家の財産は分家まで行かない」と繰り返し私に発音させた(確かに私の韓国語は発音が悪い)。今は亡き父の話でやや興奮ぎみのヒョンニムの姿に、私の脳裏へ忘れられないかつての記憶が鮮やかに甦ってきた。

 それはある選挙の投票日だった。私は、ヒョンニムを連れて投票所へ行く約束をしていた。当日の朝、身なりを整えたヒョンニムを乗せ車椅子は出発した。知り合いの家へ寄りつつ、小学校で投票を終え、本来なら、私の役目はそれで終わるはずだった。ところが、彼は、マウルとは別の方角へ、しかも、途中で買い物もして行きたいという。結局、到着した場所は、ヒョンニムの父親と祖父母が埋葬された墓だった。杖を突いて墓地の坂をあがった彼は、買ったばかりの焼酎を供え、芝で覆われた墓に撒く。次いで母方の祖父母の墓に移り、焼酎を飲みながら話すのは、亡き父、煙草好きの祖母、洪水で流された墓の移葬などであった。マウルに帰り着くと、既に東海の海に漁船の灯火が点々と輝いていた。再び車椅子を停めさせられたのは海の見える小高い山のはずれだった。帰りたがらないヒョンニムは明らかに酔っており、この年、ソウルから戻ってきた息子の話を始める。昴じた感情をなだめつつ、家にたどり着くも既に夜8時過ぎ。親戚が捜索に出る寸前だった。

 後で気が付いたのだが、この事件には前兆があった。彼は、選挙の前日に、亡くなった末の弟が夢に出てきたと話していた。末弟は、不慮の事故で約10年前に没している。ヒョンニムによれば、亡くなった父の命日の祭祀の前には、必ず父が夢に出て来て一緒に遊んでくれるという。夢を見るのは長男であり、次三男は関係ない。祭祀と関係なく夢に出てきた場合、何かを訴えに出てくるため、長男はそのメッセージを読みとらなければならない。死者は必ず哀れな姿で出てくるので、夢を見た者は、出てきた人の足の先から頭のてっぺんまでくまなく見るのである。亡き父が祭祀に関係なく出てきた時は裸足だった。実際に確かめてみると、父の葬儀で焼いたつもりの靴がうまく焼けていなかったそうだ。

 選挙の前日は、確かに、夢の話を聞いたハルモニがいつになく厳しい表情でヒョンニムを叱りつけていた。このことは、私にとって腑に落ちないこととして記憶に残っている。亡くなったとはいえ、弟は家族であり、未婚で亡くなった弟の霊は既に死霊婚で慰められてある。なぜ?と。投票を終えた晩、長い1日の記録を書きとめていると、騒々しく聞こえてきたのは、ハルモニとヒョンニムの喧嘩の声だった。改めて、フィールドノートをめくり、選挙前日の頁から眼に飛び込んできたのは、ヒョンニムの発言だ。夢へ出てきた弟が「酒瓶を持っているのは酒を飲みたいのか」と。この前兆を理解できなかった私は、善意の積もりで、彼が半年ぶりに禁酒を破る手助けをしてしまったのである。

 ヒョンニムは密陽朴氏○○派の宗家の長男である。足が不自由なため、墓地には通えず、充分に祭祀ができない。そのため、祖先祭祀は亡くなった父の弟がすることになり、族譜も家から姿を消した。ヒョンニムが久し振りの外出を利用して墓参したことは象徴的だ。彼が宗家の長男としての意識を強く持っていることが改めて確認できたからである。
 
 これらの夢、前兆、鬼神、祖先といった一連の観念的な民俗の姿はたいへん興味深い。しかし、フィールドの特性を基盤に研究を進めるためには、それらを機能構造的に描き出すこと以上に、出来事の連鎖としての時空間的特質に配慮する必要もあろう。デモ、パルゲンイや以北の人々らの存在とともに、ヒョンニムの行為や考えを、彼(彼ら)が生きた歴史的文脈に即して、いかに受け止めることができるか。そして、外国人として、それを喜怒哀楽のある人の生として、描くことはどのように可能だろうか(日本人の研究における「単民族誌の欠如」については、末成道男、2000「東アジア研究」『東方学』、100を参照)。

 老人会長の話は、祭祀を手放す理由の一端が父と叔父という兄弟間の性格の不一致にもあったことを示唆していた。ヒョンニムの心はこの度も刺激されたが、幸いなことに私へ俗談を覚えさせることで落ち着きを取り戻したようだった。港開発をめぐる以上の状況も工事が着工したこともあり、沈静化している。マウル会館に人がたむろしていた当時と比べ、みな日々の仕事に追われている。青年会員もその例に漏れず、その晩は早々と帰宅した。フィールドから離れ、静かに振り返ってみると、改めてこれらの姿が一過性のものであり、いずれも歴史のある位相に位置するものであると感じる。日本人としての私の韓国研究はまだ始まったばかりだ。




なかのやすし 筑波大学大学院人文社会科学研究科 歴史・人類学専攻