05/02/25
日本と東南アジアの戦後史 ―新たな視点から―
                                                        
保城広至
はじめに
 「Japan and Asia」「Germany in Europe」―1997年、このようなサブタイトルを冠した二冊の本が、同一編者によって出版された1。敗戦国である日本とドイツが、戦後周辺地域とどのような関係を取り戻したのかを、ただ一文字(一前置詞)の違いによって表現して見せたのである。私の印象でも、ドイツに比較して日本は未だに「アジアの枠外」という位置づけを与えられていて、うまくアジアに溶解していないように思える。

 本小稿では、そのような日本による、今やアジアの中心となっている東南アジア諸国に対する戦後の外交史を論じたい。字数の都合上、論じる範囲は日本と東南アジア関係に大転換が起こった(と私が考える)1974年までとする。

 その際、従来の通説をそのまま二番煎じで紹介するのは若干面白みに欠けるので、むしろ通説に反するような新たな視点を提示する。つまり、以下に論じるのはあくまでも私の仮説や提言であり、反証され得る、もしくは実証できないような視点も含むものである。この小稿を通じて、過去だけでなく、現在、未来の日本と東南アジア関係を再検討する必要性を認識していただければ幸いである。

1 「解放史観」と「贖罪史観」
 日本は戦前「大東亜共栄圏」という旗印の下に東南アジア諸国を占領下に置いたが、日本の占領と東南アジア民族主義の高揚との関係に関しては、二つの極論が今もって不毛な論争を続けているように思える。いわゆるアジア諸国を西洋の植民地から解放してやったという「解放史観」と、アジア侵略を無批判に断罪する「贖罪史観」がそれである。両者の主張が噛み合わず、何ら建設的な議論を進展させていないように見えるのは、双方が自らの主張に都合の良い事例を選択して、自説に固執しているからだと言えなくもない。

 一例を挙げると、戦後フィリピンの反日感情が強かったことは周知の事実であり、「贖罪史観」はこの点を強調する傾向がある。それに対して「解放史観」が注目するのは、むしろアジアの親日家による「大東亜戦争」に対する好意的な発言である。このように、どちらか一方のみに焦点を当てている限り、不毛な論争は繰り返されるばかりであろう。

 かつて丸山眞男は「東南アジア民族運動における日本の役割には、具体的資料に基づく分析が今後必要」2になると書いたが、現在に至ってもまだ、東南アジア全体を射程に入れた実証研究は生まれていないと言っても良いだろう。例えば、東南アジア旧植民地諸国の統治形態や国内構造と、日本の占領形態などを独立変数とし、一方では日本に好意的な民族運動が形成され、他方では日本がひどく嫌悪される結果になった、といった系統だった研究は学術的な価値があると思われるのだが、まだ試みられていないようである。

2 1950年代の日本と東南アジア:「出発」
  さて、1951年にサンフランシスコ講和会議が開かれ、日本は翌年に主権を回復することになる。この会議で日本は50ほどの国と国交を取り戻すが、ソ連や二つの中国、そしていくつかの東南アジアの国が講和会議に不参加、あるいは条約に調印・批准しなかったため、それらの国との国交回復が以後の日本の課題となる。日ソ国交回復はその代表例であるが、それに焦点を当てるあまり、ソ連以外の国々、特に東南アジア諸国との国交回復に関する研究がおろそかになっている観は否めない。

 日本の外交が親米主義一辺倒から徐々にその「外交的地平」を拡大し始めたのは、日ソ国交回復を成し遂げた鳩山政権からだと一般に考えられているが、この理解は正しくない。なぜなら、吉田政権下ですでにインド、ビルマという非同盟諸国と国交回復を果たしているからである。フィリピンやインドネシアと日本の関係史を扱った優れた実証研究はいくつかあるが、インド、ビルマとのそれはほとんど進展していないと言っても良いだろう(ちなみにインドやパキスタンといった現在「南アジア」と呼ばれている地域は、1960年代の半ばまで「東南アジア」地域に含まれていた)。ここにも、研究価値のある対象が埋もれている。

 1957年に岸信介が政権をとると、矢継ぎ早に2つのことを成し遂げた。一つは「東南アジア開発基金」をアジアで作ろうという構想を提示したことであり、もう一つはインドネシアとの賠償交渉を解決することによって国交回復を成し遂げたことである。

 後者は多くの研究業績があるのでここでは触れず、前者について言及しておきたい。この構想は、アジアで勢力圏をつくり、アメリカに対抗する、少なくともアメリカと交渉するためのカードであり、岸の対米自主外交意欲の現れだという解釈が広く行き渡っている。

 筆者の考えによれば、この解釈は誤りである。岸自身が晩年の回顧録で語っていたために上記のような解釈がなされてきたが、これはかなり手前味噌で、あまり信用できない述懐であると言える。なぜなら第一に、この構想はアメリカによって持ちかけられたものであったという点、第二に岸自信は構想の形成に大した貢献もせずに、もっぱらこの構想は財界人の意見によって纏められた、という事実が挙げられる。2000年前後にこの構想を扱った研究がいくつか出てきたが、その中には筆者の論文もあり、そこで私は上記の点を指摘しておいた

3 池田政権と東南アジア:「政治的役割、福田ドクトリンの起源、1962年のFTA」
  さて、池田勇人政権に入る。通説では、池田政権は国内志向、経済志向であり、国際的、政治的な役割はあまり担わなかったと言われている。しかし、近年の研究はその理解はある程度修正される必要があることを示している。

 その最も顕著な例は、1963年に池田が提唱した「西太平洋機構(West Pacific Organization)」構想である。現在判明している限りでは、この構想はアメリカを除外した比、豪、NZ、日、インドネシアの五カ国を東京に集め、当時マレーシアとの対決政策を打ち出していたインドネシアを自由主義陣営に引き込むという政治的意図を持っていたらしい。池田政権の自主外交意欲を示しているこの構想は、通説を改めるようなインパクトを秘めていることは間違いない。ただしこの構想に関する詳細は2005年現在でも未だ明らかになっているとは言えず(当時もこの構想は公に発表はされず、水面下で各国に内密な打診が行われた)、さらなる実証研究の出現が望まれる。

 ちなみにこの時、池田がインドネシアを訪問した際に、スカルノ大統領は池田に対し、「心と心の話し合い」を求めている(「読売新聞」1963年9月27日。記事には「心のふれ合い強調」という見出しが付いている)。興味深いことにこのフレーズは、1977年に福田赳夫首相が発表した「マニラ・スピーチ」、いわゆる「福田ドクトリン」三原則の一つと重なり合う。福田がこの時のスカルノ発言を胸に留めていたのか、あるいは両者は全く関係なく偶然にも一致したものなのかを検証するのは困難であろうが、少なくともこのフレーズは、福田の独創であるという一般的見解に私は疑問符を付けたい。

 また、池田政権時の出来事として、1962年にOAEC(アジア経済協力機構)というアジアだけの地域的貿易枠組みの創設が、ECAFE(国連アジア極東経済委員会)によって試みられたことがある。日本政府の数人はこの構想に非公式には支持し、公式には反対するという自家撞着した反応を見せたため、この時の日本の態度はナゾとされてきた(結局OAECは構想倒れに終わる)

 言うまでもなく、一国において矛盾した態度が同時に現れるのは国内政治に対立があることを示唆している。日本政府が公式に反対したのは、当時の農林大臣であり、有力な自民党の政治家である河野一郎が難色を示したからだと私は考えている。このような地域的な貿易枠組みをつくれば、東南アジア諸国から安い農産品が流入することは避けられない。河野は農林族の先駆け的存在であり、国内農家の保護という観点から、概ねOAECに賛成に傾いていた閣議で反対論を展開したのだと思われる。国内農家を保護する必要から国際交渉が停滞するという、現在のFTA(自由貿易協定)交渉で生じている問題が、すでにこの時点で出現していたと言うべきだろう。

 さらに付け加えておくと、同様の理由によりこの時期に限らず、日本は東南アジアとの間に貿易を促進するような地域的な取り決めに一貫して反対している。岸政権時の構想や次で述べる2つの地域枠組みはすべて「開発援助」であって、「貿易」ではない。この区別は大切である。地域的な枠組みをつくろうとする動きを「地域主義」と一括して捉えることなく、その枠組みの機能と国内政治を検討することは、地域主義を分析する際に必要不可欠だと思われる。


4 佐藤政権と東南アジア:「過渡期」
  池田が喉頭癌に侵されて東京オリンピックの後退陣し、佐藤栄作が次に政権の座につく。この政権で特筆すべき日本の東南アジア政策は、アジア開発銀行(ADB)への参画と東南アジア開発閣僚会議(閣僚会議)の開催である。前者はOAEC構想が挫折した後、開発援助枠組みを模索したECAFEによって1966年に設立された。日本は東京に本部誘致を望んだものの、投票によってフィリピンに敗れ、総裁を出すことで落ち着いた。後者も1966年に開かれたもので、8年後に自然消滅したためにあまり知られていないが、戦後日本政府が初めて開いた国際会議であるという事実は特筆に価する。

 この二つの地域的枠組みへの参画によって、日本が本格的に東南アジアへの援助を拡大したという説が主流になっている。時はまさに高度経済成長期の只中にあり、対米貿易黒字が固定化し始めるのもこの時期だからである。しかし、2億ドルを拠出したADBはさておき、閣僚会議の開催が日本の援助増額表明だという通説は納得し難い。それを裏付けるような事実はどこにも見当たらないからである。日本政府が閣僚会議を開催したのは、自国が大幅に東南アジア開発援助を増額させる意思があったと言うよりも、当時米国が発表した東南アジア援助増額構想の受け皿とする意図を持っていたからだと私は考えている。

 閣僚会議とは、米国の資金と日本の技術を結び付けて東南アジア開発を行うという50年代に支配的だった考えと、ODAを自発的に増額させて行った70年代とに挟まれた過渡期に生まれた、一つの試みであったというのが私の主張である。


5 田中政権と東南アジア:「大転換」?
 次の田中角栄政権期に生じた大きな問題は、1974年田中首相が東南アジアを訪問した際にインドネシアで起こった反日暴動、いわゆるマラリ事件である(タイでも学生を中心とする反日デモが展開された)。この事件の背景には、現地の事情をあまり考慮しない日本企業による海外進出の増大があったと言われている。「福田ドクトリン」研究の蓄積に比べると、田中の東南アジア訪問に関する実証研究はあまり進んでいないようであるが、日本と東南アジア関係史におけるこの事件は、一つの転換点と言えるほど重大であった。

 この時期までの日本の東南アジア諸国に対する感情は、「贖罪史観」は希薄であり、むしろ「解放史観」の影響が強い。例えば吉田は賠償を罪の贖いというよりも自国の経済発展のための投資だと考えていたために、フィリピンとの賠償交渉が延々と続いたのは有名な話である。岸政府が「東南アジア開発基金」構想を提示したときも、「アメリカの資金援助を直接に受けると東南アジア諸国のナショナリズムを刺激する、だから日本が仲介者としてまとめ役になる」という意見が支配的だった。それは60年代に入っても基本的に変化はなく、ADBや閣僚会議においても、罪の贖いのために東南アジアに援助を増大するといった考えは全くと言って良いほど出てこない。

 それがこの事件によってあからさまな反日行動を見せ付けられ、日本人はショックを受け、直接的には関係のない戦前の行動への懺悔という形に繋がったのではないかと私は考えている。そして以後、日本の東南アジア政策を規定する要因として、「贖罪意識」が大きな位置を占めてくる。戦後教育を受けた人々が次々と政策決定の要職に就くようになるのもこの頃からである。

 つまりこの事件は、日本と東南アジア関係を一変させるきっかけとなった事件だったと言うことができるのではないか。このような観点から研究することも、今後の課題となってくるだろう。
 

終わりに
 以上、日本と東南アジアの戦後史という題目で、私の問題関心に惹き付けて述べてきた。提示したいくつかの仮説、問題提起は現在私が取り組んでいるものもあるし、将来取り組みたいテーマも含まれる。そしてもちろん、ここで指摘した論点以上に、我々にとって重要な問題はもっと多くあるだろう(1970年代後半から現代にかけての問題群も含めて)。本小稿で指摘したかったのは、未だ日本と東南アジアの戦後史には、我々の知らない、あるいは誤った見方をしていた問題が数多く存在する、という事実である。歴史においてもそうなのであるから、現在の諸問題については言うまでもない。今後、そのような興味深くて研究意義もありかつ、一般的な通説をひっくり返してくれるような視点を持った研究が次々と出てくるのが望まれる。



ほしろひろゆき 東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻 博士課程
Peter J. Katzenstein and Takashi Shiraishi eds., Network Power : Japan and Asia, Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 1997. Peter J. Katzenstein ed., Tamed Power : Germany in Europe, Ithaca, N.Y. : Cornell University Press, 1997.
丸山眞男『増補版 現代政治の思想と行動』未来社、1964年、500頁。
保城広至「岸外交評価の再構築 −東南アジア開発基金構想の提唱と挫折」『国際関係論研究』第17号、2001年。
宮城大蔵『戦後アジア秩序の模索と日本』創文社、2004年、60〜63頁。
大庭三枝『アジア太平洋地域形成への道程 −境界国家日豪のアイデンティティ模索と地域主義』ミネルヴァ書房、2004年、128頁。