04/12/10
 江戸の天文・和算史料論序説
 
平岡隆二
 
 江戸時代の天文・和算にまつわる一次史料は、現在国内外の諸機関に分散して収蔵されている。平成13年に始まった文部科学省の特定領域研究「江戸のモノづくり」による基礎的データの収集作業によって、その現存状況に関する情報は日々増大しており、とりわけ『国書総目録』『古典籍総合目録』未収の文献史料や、これまで必ずしもその全体像が把握されていなかった種々の器物史料(光学器、測量器など)の情報についても、その集積の度合いはめざましいものがある。

 筆者はこの数年間、同特定研究の研究協力者として、おもに天文・和算に関する文献史料の所在調査と基礎的データの採取作業に携わってきた。その調査結果は、同特定研究が終了する平成17年以降に、医学、鉱山技術、蘭学などの分野において採取された情報とともに、インターネット上のデータベースの形で公開される予定である。この総合データベースの出現によって、現在知られる関連史料の所在情報の検索や、文献史料と器物史料とを区別しない横断的なキーワード検索などが、コンピューター端末上で瞬時に行えるようになると期待されている。

 ところで、この種のデータベース作成作業は、言うまでもなく、情報の収集・公開が最終目的ではない。現時点で得られた情報の公開に引き続いて、各分野史の中での個別史料の位置づけや、相互関係の解明が行われて、初めて研究として成立するものである。実際には、天文・和算に関する文献史料だけでも、ゆうに数万点を数える程の史料が残されており、主要著作の善本の確定や伝来経路の探求など、数多くの研究課題がまだまだ山積みの状態である。そこで小稿では、筆者がそれらの史料を調査する過程で抱いた感想と、今後の研究に対する展望について述べてみたい。

 まず、内容的にかなり特殊なものが含まれるとは言え、江戸の天文・和算史料の実質は、同時代の様々な学説史が取り扱う史料とかなり重複している。具体的には、冊子体の編纂物(刊本・写本とも)をはじめとして、書簡・日記・日誌・起請文・免許状などを挙げることができるが、それらの史料については、近世日本の古文書学や書誌学等の知見が、そのまま適用され得るはずである。

 しかし、それらの知見を積極的に援用した形での天文・和算史研究は、従来きわめて少なかったと言わざるを得ない。たとえば『文明源流叢書』(国書刊行会、1913-14年)や『関孝和全集』(大阪教育図書、1974年)などの全集類には、写本の形で現存する重要著作の翻刻テキストが収録され、その多くは現在も標準的なテキストとして用いられている。しかしその凡例を見てみると、底本の校訂に用いたという「異本」がいかなる写本であるか明確でない場合や、翻刻・校訂の凡例を欠く場合も、まま見出される。

 時代的な制約などを考えると致し方ないことではあるが、現存写本の所在情報がかなりの程度把握されつつある今日において、それらの活字テキストだけに依拠して研究を進めてしまうと、どこに、どのような落とし穴がひそんでいるか分からないことだけは確かである。今後は、関連写本のテキスト・クリティークを行いつつ、先行研究の成果を注などの形で盛り込んだ新テキストの編纂が、重要な課題である。

 それらの作業と平行して、由来・出自が不明確な個別史料の位置づけも、一つずつ推し進めていく必要がある。とりわけ手稿史料の中には、特殊な術語や記号で埋め尽くされた冊子や、何ごとかに関する計算や表を延々と羅列したものなど、一見しただけではその位置づけを図り難い史料がかなりある。それらの記述が、筆記者による思考・計算の過程を記したものなのか、あるいは何らかの原本にもとづく転写本なのかを判断することすら困難な場合も多い。

 そのような史料と対峙した際、術語・記号の解読はもとより、文中に含まれる図や表の形式を、すでに評価の定まった史料と比較する作業が必須となってくる。江戸時代の天文学は、西洋や中国から漸進的に流入してくる外来知識の影響を強く受けていて、その差異や特徴がとりわけ図表の形式によくあらわれてくるし、和算や測量術に関しても、そのような形式的観点から、流派や時代ごとの特徴をある程度読み取ることができるからである。それらの作業を進めて行くにあたって、上記のようなデータベースの検索機能は大きな力を発揮するであろう。

 また、当時天文・和算を研究していた個人・集団にまつわる情報を新たに蓄積していく作業も欠かすことができない。その意味において、印記情報の集成や、和算・測量術の免許状に関する研究はおもしろそうである。江戸の和算家に関する基礎的な情報源としては、彼らが自分で発見した問題や解法を書いて神社などに奉納した「算額」に関する調査は比較的進んでいるが、現存免許状の内容・様式にまつわる研究や、印記の集成は、まだまだ未開拓の領域と言ってよい。今後の個別研究の進展が期待される所以である。

 つまるところ、上記のようなデータベースを駆使した上で、新しい史料なり情報なりを「発掘」しつつ、既存の体系の中に位置づけてゆくためには、比較の拠り所となる情報をたえず集積しつつ、それらの情報との相互参照という形で、可能な限り多くの比較を積み重ねていく以外に方法はない。まだまだやるべきことは多いが、道具立ては整いつつある。個別の史料や、特定の史料群に関する今後の研究の進展と、他分野の研究者の参加を期待してやまない。