04/12/10
 近代中国の地方文献についての覚書
 
佐藤仁史

はじめに

 筆者は、清末民国期の江南地方における地域社会の構造とその変容について、地域社会を主導した指導層の言動に着目して分析を進めてきた。その際、申報のような大新聞が必ずしも詳細には伝えない県以下の在地社会の実態をヴィヴィッドに伝える地方文献(地方新聞、地方档案、郷土史料)に着目し、数年来その収集に努めてきた。なぜならば、江南における出版文化の盛行は地域社会の自己主張の手段という側面も有しており、地方文献成立の背景自体が在地指導層の動向と密接に関連していたからである。例えば、明末以降大量に編纂された郷鎮志には周辺市鎮への対抗意識や郷土の王朝への組み込みへの希求といった独自の領域性を伴う自己同定意識がみられたことが指摘されており注1、また、清末以降に地方自治や近代教育の推進、新文化の普及などを目的として県や市鎮のレベルでも発行された新聞・雑誌にも、特定の政治的立場に立ちながら地域からの秩序構築の志向を示すものも少なからず見られる。
 
 ところで、収集を開始した当初は、1990年代に陸続と刊行され始めた新編県志の文化巻や文献巻に掲げられた文献情報を頼りに各地の所蔵機関を訪問し、それらを収集するという方法を採った。しかしながら、新編地方志の内容の精度は編纂者によって偏りがあることも事実であり、編纂に利用した歴史文献を明示していないものも多い。このような地域の文献については、市・県級の図書館や档案館、博物館などに赴いて直接調査を行う必要がある。ここでは、筆者が2001年夏から2004年夏にかけて江蘇と浙江の両省で行った史料調査において遇目した資料を数点紹介し注2、地方文献を利用することの有効性や地方文献を収集する際の注意点について触れたい。


常熟の場合

 2002年9月当時、常熟図書館の歴史文献は虞山公園南にある旧書院の一部を使用した古籍部に所蔵されていた注3。古籍部は4、5名の館員によって運営されていたが、昼休みや閉館時間が近づくと閲覧者そっちのけで各々の用事に忙しくなるという運営がなされていた(もっともこれは平素ほとんど閲覧者がいないという事情によるであろう)。午前と午後合わせて4時間程度という、規定に比してはるかに少ない時間しか開放されていなかった。
 
 このような所蔵機関の場合、館員が所蔵史料を十分に把握していない場合も多い。ここも例外ではなかった。筆者が地方文献の所在を問うたところ、「地方人士の日記や稿本があるだけで、大きな歴史潮流にかかわったものはない」という答えが返ってきた。筆者にとっては地方に密着した人物であればあるほど、好都合であるのでいくつか出してもらった。驚くべきことに、それらの中には『虹隠楼日記』と題された膨大な量にのぼる日記の稿本が含まれており、そこには、清末日本における政治・法律視察の記録や民国2年の衆議院の運営について詳細に記録されていたのである。日記の主は徐兆瑋(1867−1940)という人物で、1889年の進士に及第している。第1回衆議院議員に選出され、1923年の曹錕賄選に反対して帰郷し、その後地方公益事業に尽力したという。日記には、徐兆瑋が経験した、日本での法政視察、清末の常熟における民変、民初国会の内情、20年代以降の地方公益事業について極めて詳細に記されており、全体で293冊もの膨大な量に及ぶ。断片的な情報からも『虹隠楼日記』が近代史研究にとって極めて有用な史料であることが十分に推測できよう。気をつけなければならないのが、市・県レベルの所蔵機関においては「大きな歴史潮流」と関係ないとみなされた史料が往々にして十分な注意を払われずにいるということであろう。あまりに当然のことであるが、地道に各所蔵機関をまわり、丁寧にカード目録を繰ることを積み重ねていくしかない。なお、常熟は徐兆瑋を含めて著名な蔵書家を輩出した地域であり、彼らが収集した古籍や彼ら自身の手による文集や日記の稿本が図書館に寄贈されている注4。これらの蔵書群は、近代史研究者のみならず、清代以前の歴史研究者にとっても有用なものが含まれていると思われる。今後の調査・利用の進展を望む次第である。
                     
   
『虹隠楼日記』
『虹隠楼日記』の一部。
徐兆瑋がかかわった衆議院の運営について記されている

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 常熟档案館においても貴重な地方文献の存在が確認できた。大半の県級档案館と同様に、所蔵档案は1940年代以降のものが大半を占め、30年代のものは何件か散見される程度である。清末から20年代にかけての状況に主要な関心がある筆者を強くひきつけたのは、地方新聞であった。当該档案館が所蔵する解放前の地方新聞は少なくとも十数種にのぼり、中でも『常熟日日報』(1916年10月〜1945年8月)と『常熟市郷報』(1922年9月〜1928年8月)の2紙が出色であった。両紙は10年代から20年代にかけての地方新聞であるという点が貴重であることに加えて、常熟県下の各市郷の動向、市民公社、長江沿岸部の沙田地域で発生した紛争、水利問題など極めてローカルな情報を伝えており、地域社会の変容を分析する上で好個の史料になりうると思われる。
 
常熟档案館 『常熟日日報』
近年新建された常熟档案館の閲覧室はフローリングが施された瀟洒な内装であった。
1922年4月7日号の記事。
壩の建築をめぐって地域間の利害対立が
顕在化した様が見て取れる

 ところで、現在多くの地方新聞が北京図書館の縮微文献閲覧室にマイクロフィルムとして所蔵されており、そのうちの大部分は全国図書館文献縮微複製中心や日本の書店を通じて購入でき頗る便利である。注意しなければならないのは、これらは全国の省・市の図書館に呼びかけて集められたものであり、档案館系統に所蔵されている新聞はマイクロフィルム化されていないということである。県級の档案館にも少なからぬ量の在地の地方新聞が所蔵されており、これらは直接赴いて虱潰しに調べていくしかない。


南通の場合


 南通を訪問すると現在でも張謇に纏わる建築物が少なくない。隣接する南通博物院と南通図書館はそれぞれ張謇旧邸である。図書館には張謇研究中心が設置されており、南通博物院や南通档案館の協力のもと、張謇関連史料の整理が進められてきた。その成果の一端が『張謇全集』の刊行として結実していることは周知の通りである。また、張謇が清末民国初期中国の近代化に果たした役割については、章開沅氏、藤岡喜久男氏、中井英基氏の専著が、国政や地方政治における活動や教育活動、近代企業の経営の多面にわたって明らかにされている注5。関連論考は枚挙にいとまがない。
 
 張謇研究の蓄積が着実に増えているのに対して、張謇と直接関連のない史料については必ずしも十分な関心が払われてこなかったように思われる。2001年夏と2003年春に行った南通図書館の所蔵史料の調査では、そのような史料の存在が明らかになった。南通の新聞については同館には『通通日報』(1926年11月〜1937年12月)が所蔵されており、張孝若が発行した『南通』(1919年8月〜1936年1月、上海図書館蔵)との対照によって、複眼的な視点から南通社会を分析する事を可能にしている。これらの新聞を捲っていくと、張謇や彼に連なるエリート達が推進した事業が実際どのように運営されていたのか、南通社会においてどのように受け止められていたのか、そのことが従来の社会関係にいかなる変容をもたらしたのかを示す記事を数多く見出すことができる。とりわけ、1924年の張謇逝去前後には学校運営経費を支える「学田」をめぐる紛争にこの問題を読み解く鍵があるように思われる。南通には長江沿岸の州に土砂が堆積して形成された「沙田」が広く存在しており、清末以降これらは県の公産として学校運営経費に充てられることになった。しかし、沙田地帯には「沙民」「沙棍」と呼ばれる住民がおり、学田に充てられる事に激しく抵抗した。「沙棍」は沙田を省の公産としたい江蘇沙田総局と結託して不正な登記を行った。これに対して県教育局及び県教育会が省当局に訴えた経緯は『南通沙案匯録』(上海図書館蔵)から知ることができるが、図書館にはこの元となったと思われる『南通教育局沙田案有関函電』という公文の抄本が所蔵されていた。沙民の実態について示す史料は目下のところ多くはないが、文史資料に収録された回顧に拠れば、沙田地帯に跋扈した「沙棍」は1948年段階においても事実上沙田地帯を牛耳っており、解放後にようやく革除されたという。もちろん、「沙棍」という呼称自体が特定の立場や価値判断を含んだものであり、県行政当局やエリート層の努力にもかかわらず、なぜ一貫して存在し続けたのかを住民の側から検討する必要があろう。

 また、沙田の学田化が地域間対立の火種も内包していたことを別の所蔵史料が示している。『海門墾牧学田交渉実録』は海門県各界争回墾牧学田委員会が1929年に配布した一種のパンフレットである。国民革命後の海門県では、南通県に主導されていた従来の学田の帰属のあり方に疑問を呈し、その回収を図って関係機関に陳情する動きが活発になった。その過程の中で編纂されたのがこれであるが、ここでは、張謇は南通、如皋、海門、泰州、崇明に君臨した「土皇帝」と名指しされ、地域間の従属関係を生み出した元凶として描かれている。これは国民革命の進展の中、打倒すべき土豪劣紳としての側面が殊更強調された側面に加えて、張謇というカリスマを中心に張り巡らされていた在地有力者のネットワークがその死によって求心力を低下させ、そこに内包されていた地域間の従属関係が地域対立として露呈したものであろう。このような史料の発掘は従来の張謇研究とはやや異なる角度から張謇の事業が有した性質を浮かび上がらせる可能性を秘めているといえよう。

『海門墾牧学田交渉実録』
『海門墾牧学田交渉実録』の一部。
「土皇帝張謇」の文字が見られる


文献情報のデジタル化について

 文献調査の過程で目覚しく進展したのが文献情報のデジタル化である。省級の所蔵機関においては目録情報の検索システムの整備が進んでおり、市級・県級においても積極的に取り組んでいるところもある。例えば、常熟档案館では「档案一体化档案管理系統・超星文档98」というシステムを導入し、簿冊レベルまでの目録情報を分類やキーワード、時期などから検索することができ便利である。また、蘇州档案館は商会档案をスキャナで画像データとして整理し、来年3月頃を目途に館内での利用が可能になるという。完成した暁には商会史をはじめとする中国近代史研究に裨益するところは計り知れない。

 档案や文献、書誌情報のデジタル化は資料収集の効率性という点にせよ史料保護という点にせよ歓迎すべきことであることは言うまでもない。しかしながら、デジタル化された情報にもかなりの注意が必要である。上海図書館では数年前から歴史文献の書誌検索システムが運用されているが、そこで検索対象になるのは極めて限定された史料に過ぎない。当該図書館では、大雑把に言って、オンライン化された目録、カード目録(複本目録)、民国総書目に掲載された書籍の目録、内部書庫目録、の階層に分かれているという。カード目録や民国総書目も丹念に検索することによって重要な文献の見落としを防ぐことができるが、内部目録については、目下のところ館員の個人的な厚意に頼るしかアクセスする方法がないのが現状である。内部目録自体を見せてもらえない限り、有用な史料を取り出してもらうには、地方志などの史料から当該地域の具体的人物や事物、事件を事前に調査し、蔵書群の特徴を素早く把握するという感覚を研ぎ澄まておく必要があろう。


おわりに


 以上、筆者が数年来行ってきた史料調査のうち常熟と南通における事例から地方文献の一端を紹介した。所蔵史料や史料情報のデジタル化を進めているような極めて開放的な所蔵機関にせよ、長きにわたり更新されていない目録を有するだけで所蔵史料の全貌を把握していない所蔵機関にせよ、共通していたのは実際に史料の整理や管理に従事する現場の館員との人間関係を築くことの重要性である。史料収集の現場において、このような人間関係を理解し・構築する過程が有する「異文化理解」という側面は夙に指摘されていることだが、他にも史料を取り巻く状況から現地社会の一端を垣間見ることも出来る。一例を挙げたい。江蘇省では解放前の主要な地方新聞をマイクロフィルムに撮影して南京に集める計画があったが、某図書館では所蔵新聞の提供を断ったという。そこで館員が表明していたのは当地の「宝貝」を提供してしまっては地域図書館としての特色をなくしてしまうというお国意識と省への対抗意識であった。

 なお、他の有用な地方文献については機会を改めて紹介したい。

(滋賀大学教育学部助教授)


注1. 森正夫「清代江南デルタの郷鎮志と地域社会」『東洋史研究』58巻2号、1999年。
注2.調査した機関は以下の通りである。江蘇省档案館、南京図書館、蘇州市図書館、蘇州市档案館、蘇州市博物館、蘇州市文物管理協会、呉江市档案館、呉江市図書館、呉江市博物館、呉江市地方志弁公室、常熟市図書館、常熟市档案館、常熟市博物館、南通市図書館、南通市档案館、海安県博物館、海安県図書館、海安県地方志弁公室、浙江省档案館、浙江省図書館、紹興市図書館、紹興市档案館、上海市青浦区档案館。なお、江蘇省各地の地方文献については、高田幸男「中国近現代文書へのアクセス」『歴史評論』638号、2003年、に詳細な紹介がされているので参照されたい。
注3. 2004年9月の調査の際には書院街の建設中の新館に移転するために古籍部は開放されていなかった。
注4.江慶柏『近代江蘇蔵書研究』合肥、安徽文藝出版社、2000年。
注5.章開沅『張謇伝』北京、中華工商聯合出版社、2000年、藤岡喜久男『張謇と辛亥革命』北海道大学図書刊行会、1985年、同『中華民国第一共和制と張謇』汲古書院、2001年、中井基『張謇と中国近代企業』北海道大学図書刊行会、1996年。