04/10/01 | ||||||||||||||||||||
チベット高原学会の会場外にみるチベット社会の素顔 | ||||||||||||||||||||
シンジルト(Shinjilt) |
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2004年夏、チベット自治区都ラサ市で「チベット高原 the Tibetan Plateau 国際シンポジュウム」が開かれた。中国、欧米、日本、香港など世界各地から研究者数百人が集まり、その名にふさわしい盛大な会議となった。 会議の名からすれば、「チベット」はひとつのキーワードとなっている。しかしながら、会場でチベット人研究者はほとんど見当たらなかった。せっかくチベットに来たのにチベット人の「不在」にわたしは幾分物足りなさを感じた。 幸いにわたしがみたこの「不在」の事実は現実のすべてではなかった。会場となっているホテルを一歩外に出れば、そこにはチベット人の世界が広がる。単独行動は制限されないものの、言葉や日程の都合上、出席者がチベット人と触れ合えたのは、結果的に、会議期間中の市内見学で出会ったチベット人の僧侶やガイド、会議後のエクスカーションに雇われた車の運転手に限られた。限られた機会と期間ではあったものの、かれらチベット人たちに、わたしたち外から来る人間がどのようにみられているかを垣間見ることができた。さらに「かれら」と「わたしたち」とのインターアクションの中で、わたしはチベットの社会的現実の一面を見ることができた。
ラサには有名なチベット仏教寺院が多くある。今そのいずれも観光化が進んでいる。これらの寺院を訪れる人びとのなかにチベット仏教を信仰するチベット人やモンゴル人のほか、チベット仏教を信仰しない漢人や外国人も多く含まれる。 モンゴル人であるがそれほど敬虔な仏教徒ではないわたしも、ラサ在住の友人の案内で寺参りをした。彼は青海省河南蒙旗のモンゴル人で、モンゴル語が話せず、言語文化的にチベット人とほとんど変わらない(拙著『民族の語りの文法』風響社2003参照)。しかし彼の故郷で話されているチベット語はアムド・チベット語とされ、ラサで話されているチベット語とは大きく異なる。長年ラサにいたため彼はラサ弁も堪能である。還俗してビジネスマンになった彼はラサの世俗や寺院の事情両方を熟知している。 入場券を買って寺院に入ろうとするわたしに対して彼は言う。「モンゴル人は入場料を払う必要がない」。故郷の内モンゴルの寺に入るときでさえ、金を払わなければいけないことになれてしまったわたしは、チベットに来てモンゴル人であるだけで特別扱いを受けることに驚いた。いや、彼の説明に半信半疑だった。というのも、河南蒙旗でユーモアのセンスがあるか否かは男らしさをはかる基準のひとつだからである。そして周りの看板などを見ても、特に彼の言っていることを裏付けるものは見つからなかったので、彼はきっと冗談を言っているのに違いないと思った。 しかし、彼が真剣な顔をして、ストレートに境内に入っていくのを見て、わたしも躊躇せず、彼の堂々とした態度をまねて入ろうとした。しかし、さすがに、服装や肌色など外見から地元の人間ではないことにすぐ気付かれたのか、受け付けの僧侶に止められた。 それに気づいた友人は再び戻ってきて、「われわれはソゴボです」と説明してくれた。ラサ方言ではモンゴル人のことをソゴボと言い、アムド方言ではソッゴと言う。モンゴルに関してチベット語の方言差はそれほど大きくないようである。そうすると、僧侶は確認する。「外モンゴルか。内モンゴルか」。友人は自分のことをアムドのソゴボ、わたしは内モンゴルのソゴボと説明した。われわれの説明を聞いた僧侶は「いろいろなソゴボがいるものだ。なら、わしはチベットのソゴボということかな」とジョークを交えながら、われわれに入場許可のサインを出してくれた。 なぜモンゴル人は無料なのか。彼の説明によると、寺参りは信者(チベット仏教徒)にとっては日常茶飯事であり、お参りする人から金を取るべきではないというのが理由であるらしい。したがって、チベット仏教徒であるチベット人やモンゴル人は入場料がかからないという。なるほど。 寺院は本来信者たちのためにうまれ、信者の布施によって維持されるものであり、信者たちに対して常にオープンであった。だが、今寺院は本来果たすべき役割に加えて、信者ではない観光客のエキゾチックな好奇心も満たす使命を背負うことになった。寺院は社会に対してこれまで以上の対応が要請された結果、ギブアンドテークの原理にしたがい、観光客に対して入場有料化をはかるようになったと考えられる。つまり、参詣目的の信者か遊覧目的の観光客かを見分ける必要が生じた。その判断基準のひとつに民族カテゴリーが起用されていることがモンゴル人の扱いからうかがえる。 しかしモンゴル人かどうかは外見では判断できない場合が多い。モンゴル服を着用せず、外見でモンゴル人かどうか判断できない場合は入場券の購入が求められる。あるいはモンゴル人であることを証明するために身分証明書の提示が求められる。モンゴル人であることさえ確認できれば海外から来る人間も同様に扱われる。たとえば、モンゴル国から来る人間はパスポートをみせれば金を払わず寺に入ることができるとも聞いた。確かに寺の布施箱のなかに人民元、米ドルなどと並んでモンゴル国の貨幣トゥグリクもみられた。この際のソゴボとは、「中国(中華人民共和国)のモンゴル族」という概念におさまりきれない、時空間的により広い拡がりを持つカテゴリーである。 無論すべてのモンゴル人が敬虔なチベット仏教であるとは限らない。ソゴボとはチベット人と同じ信仰をもつ人間だという認識が、僧侶などチベット人が抱くモンゴルイメージの根幹を成すように考えられる。この認識は両民族の長い関係史の中で形成されてきたものである。歴史上、モンゴル諸族は絶え間なくチベット仏教と深い関わりを持ちつづけてきた。とりわけ、モンゴル・ホショド部は17世紀にゲルク派を支援し、それを現在、チベット仏教の最も有力な教派の地位に導いた。この歴史的な経緯が金銭至上的な観光時代においてどこまで人々に共有されているのか。寺参りの際に受ける「特権」的な扱いから、チベット人のモンゴル人認識を垣間見ることができた。
現実の社会関係において、今チベット人にとって最も重要なのは漢人との関係である。とりわけ観光ビジネスにおいてはそうである。ポタラ宮や各寺院を含むあらゆる観光スポットに中国各地から来る観光客が溢れている。 これらの観光客を相手にチベット人ガイドは、相手の言葉(漢語)で懸命に解説する。だが、チベットの伝統や文化を漢語に直訳しても、相手に理解してもらえる保証はない。特に相手に理解が難しい思われる箇所は、すべて相手にとって「当たり前」と思われる表現で説かれる。 たとえば、ある数万個の宝石で包まれた仏像を解説する際、ガイドはいう。「この仏像の価値を市場価格に換算すると、上海市を3つ建設するのに必要な予算総額に相当する」。これを聞いた観光客は深く頷き、納得した顔をする。ガイドが言わんとしているのが自分の中での仏像の計り知れない存在意義であっただろうが、それを計量化しない限り相手に到底理解できないとの判断から「市場価格」・「都市建設」などの表現を用いた。ガイドの試みは功を奏したようだ。 また、民族団結のシンボルのひとつとして現代中国で起用された文成公主(7世紀のチベットの王ソンツァンガンポと政略結婚した唐の女性)という歴史人物を説明する際、ガイドは現代チベットの社会的なコンテクストに置き換え、次のように解説する。「今の言葉で言うと文成公主はチベット人にとっては『援蔵幹部』的な存在で、厳密に言えば彼女は『初の援蔵幹部』というべきだろう」。「援蔵幹部」とは中華人民共和国設立後、チベットを援助する名義で派遣され、チベット地区に移住してきた中国内地の人(主として漢人)を指す表現である。 千四百年前の古人を民族団結の理念に結びつけて語ることが当たり前である中国のコンテクストにおいて、さらに一歩進んで「幹部」と名づけることに違和感こそ覚えないものの、幾分皮肉の感じを受ける。ガイドの解説の仕方は現代チベット人にとっての文成公主の心理的社会的な位置づけを反映するものと言えよう。「援蔵」のイデオロギーに従えば、「援助」側は論理的に「先進」や「文明」を代表することになる。
学術発表終了後、エクスカーションが始まった。最も長いたびのコースに参加する者は3人一組みで9台のランドクルーザーに分乗し、ンガリとナクチュ地区などチベット西部と北部を3600キロ横断した。 このコースの参加者は、国内からの大会出席者、国外からの出席者、そして運転手がそれぞれ3割ずつを占める、総勢30人あまりの集団を成した。中国国内の出席者は全員漢人(A)であり、国外の出席者は国籍がばらばら(B)であり、運転手は全員ネイティブのチベット人(C)である。ホスト国中国の主催機関に属す者が絶対多数を占めるAは、この集団の中心的な存在である。BはAに対してもCに対してもゲストである。CはプロとしてAとBにサービスを提供する。 西部のンガリ地区は荒涼とした高原であり雨量が極端に少なく、車のパンク以外道中大きなトラブルはなかった。豊かな草原に恵まれたナクチュ地区は雨量が多いため湿地も多く、ランクルが湿地にはまるケースが頻発した。ひどい場合10数時間をかけても10数キロしか前へ進まないこともあった。 その際ゲストのBはほとんど事態を傍観するか時に愚痴をこぼす。プレッシャーはAとCにかかる。Bのわがままに対して不満はあるものの、ホストの威信とプロの意地を持って、旅の安全を確保すべく懸命に努力したという意味で、AもCも同じ立場にあった。ただ、トラブルをどう解決すべきかをめぐって、両者の間に考え方のズレがうまれ、互いに責め合う場面さえ生じた。 ある雨の日、先頭を走っていた車が湿地にはまり、自力で脱出できなくなった。Cは客を降ろしてから先を争って車で現場に接近していく。そうすると結果的に、はまった車1台を引き出すために、救援の車は、1台、2台、3台……という具合に次々と湿地にはまっていった。 様子を観ていたAはCに言う。「車を動かす前にまずはしっかり方策を立てよう。これ以上犠牲を出しちゃだめだ、場合によって遭難車を残しておくしかない」。Cは応える。「われわれにはわれわれのやり方がある。昔からこうやってきたのだ」。 Cはあくまでも自分たちのやり方で事態を打開しようとする。特に誰かの命令に従っているわけでもないが、仲間の困難を救うために、誰かが車に乗りエンジンをかけたら、ほかの人もすぐ動き始める。最初にかけられたエンジンの音はまるで命令のようで、みな躊躇せず、調子を合わせてアクセルを踏む。頭を働かす前に、からだのほうが先に動いてしまうようにもみられる光景だが、全員が一筋に、はまった車を引き出すことに没頭することこそ、Cのいう、われわれのやり方なのかもしれない。 夜になってもどうにもならない状況を見て、Cは車がはまってしまったその地の神の力を借りようとしたのか、車にカタ(尊敬や祝福などを祈願する儀礼に用いられる聖なる絹の布)を縛って祈りをささげはじめた。が、問題は依然解決されなかった。自力での救出は失敗に終わった。Cは失敗の原因は自分たちのやり方自体にあるとは思わなかったようである。チベット地域での経験の無さからかAにも具体的な解決策が出せなかった。
翌朝、通りかかった大型トラクターに謝礼を払って車を救出してもらったわれわれの集団は次の目的地へ向かった。しかしそこで、前日の雨で水位が上がった川を渡らなければいけないことになった。行き着いた渡り場の手前は橋を建設するための工事現場になっている。対岸にはすでに見物のチベット人が集まっていた。 川を渡ることが可能かどうかを確認するため、AとCは工事現場の漢人監督に尋ねた。監督は言った。「ここは危険。この渡り場(f1)ではなく、少し離れている渡り場(f2)のほうが安全だ」。監督はさらに親切に、隣に居合わせた、同じ川を渡ろうとしていた地元のトラクター運転手の漢人農民(D)に、われわれの道案内をしてくれるように頼んでくれた。 しかし自分の経験からf1のほうが安全だと確信したCは、対岸にいるチベット人に確認した。対岸のチベット人からかえってきた答えは監督と逆だった。「f2よりf1の地盤が固いためf1で渡るのが安全だ」という。それを聞いて、Cはぜひf1で渡るようにAに提案する。 Aにとって前日Cの失敗もあって、今度こそCに妥協する気はなかった。Aの代表は答えた。「彼らは橋建設の技術者だ。彼らの言うことは間違いない。f1はだめだ」。 それを聞いてCは言う。「先祖代々ここで暮らす牧畜民の言うことは間違いない。牧畜民は嘘をつかないから、f1で渡るべきだ」。しばらく折衝した末CはAの意見を呑んだ。しかし最後にCは言う。「彼ら(監督やD)は当てにならない。でもあなたたち(A)がそうしたいなら仕方ない」。 10数分後車列は道案内Dのトラクターの後ろについてf2に到着した。それからさらに時間が10分経過しても、Dは約束通りに先に川を渡ろう(道案内の最も重要な内容)としない。逆にCに先に渡るように求め始めた。 唖然としたCは言う。「やはり騙された」。「でも戻るわけにいかない」と独り言を言いながら、わたしが乗っていた車の運転手は先頭を切って川の中に入り込んだ。水の流れや川の深さの微妙な変化に神経を尖らせながら、数分をかけて対岸に辿り着いた。後ろから拍手が聞こえてきた。われわれの車の渡ってきたルートに沿って、車列が一台ずつ川を渡り始めた。 6台目までが順調に川を渡り終わった時のことであった。これで自分も大丈夫だと判断したのか、Dは、いきなりトラクターを急発進し川に突っ込んだ。進行方向を遮断され、Dとの衝突を避けるため、川に入ったばかりの7台目のランクルは急ブレーキをかけ、川の中でエンストした。だが、Dのトラクターは川をスムーズに渡ってきた。 しばらくして両岸の人がやっとなにがあったかに気づく。7台目のランクルが川の中に取り残された光景が再びみなの目に映った。これを見たCはもちろんのことAもDをせめた。CはDに言う。「おいおい、どういうこと?これは。約束通りに案内してくれないばかりか、おいらが自ら切り開いた道を渡ろうとするのにも邪魔する。お前には良心があるのか。すぐに車を引き出せ」。 さらに、CはAもせめた。「どうだ、牧畜民は嘘をつかないと言っただろう。あなたたちの判断にしたがいDを信用した。それなのに、裏切られた。これがあなたたちのやり方なのか。あなたたち漢族をどこまで信用すればいいのか」。言われたAは大声でDを怒鳴る。「信じられない。私たちの車が順調に川を渡っているのにあなたたちに邪魔された。卑怯者。あなたたちはわれわれ漢族の恥だ。チベットにあなたたちのような漢族がいるから漢族のイメージが悪くなった。早く車を出しなさい」。 A、Cの口説きをひたすら黙って聞くDは謝るそぶりもみせず、問題の重大さは「民族次元」まで発展しつつあることに気づくこともなく小声で平然と言う。「われわれはちゃんとここまで案内してあげたのではないか。おれは単に川を渡っただけなのに、何が悪い?」。最終的にAとCの圧力の下で、Dはいやいやながら、7台目の車を引き出したが、それまで1時間近く拒んだ。
DはなぜAとCに同時怒られたのか。約束を守らなかったからにすぎないのかもしれない。しかし、Dにしてみれば、自分には約束のすべてを履行する義務も義理もなかったし、むしろf1からf2まで車列を案内してきたことに相手に感謝してもらいたいくらいである。 Dはなぜ約束を全うし先頭に立って川を渡ろうとせず、そこで、なにを考えていたのか。どうせ川を渡らなければいけないDも、自分なりに渡る方策を考えていたに違いない。考えた末、思いついたのが、Cを先に渡らせてみて、もしCが安全であれば自らも渡るというやり方であった。Dのこのやり方は、結果的にAとCの憤りをかうことになった。 Dを最初から警戒していたCにとってみれば、Dのやり方は予測範囲内のことであり、それほどショッキングなものではなかった。むしろDのやり方に動揺したのはAであった。同じ漢人としてDのやり方は、AのDに対する当初からの信頼を裏切ったからである。そしてなによりも厄介だったのは、その裏切り行為によって、Cの前で恥をかかされたからである。 したがって、Dに対するAとCの憤りの性格は異なる。CにとってのDの「裏切り」行為は自分とまったく異なる考え方に基づく行為の結果であるため、その憤りにはあきらめの要素も多い。ところが、AにとってのDの「裏切り」行為は、結果的に自分の期待から外れた行為であったため、その憤りには悔しがっている部分が多い。 前日がCのやり方の披露だったとすれば、この日はAとDに共通するやり方の披露である。Cのやり方というのは、遭難した一台の車のために、ほかの車が無条件に救援にあたるというやり方である。このやり方には救援の車も道連れになるリスクが潜んでおり、技術的な観点から見れば、きわめて非合理的である。しかしCの社会では、そうしなければ先へ進むことができず、そうすることが、運転手の基本的モラルとなっている。 この際、人々が第一義に考えているのは、遭難した車、つまり、救出「される側」のことである。そこで、特に「される側」と約束を交わさなくとも、そうすることが彼らにとって当たり前である。自分が犠牲になるとか、他人のためであるとかを考えることはない。たとえ、そう考える暇があっても、そう考えることに卑怯さを感じるくらい、無条件救援の考え方が身体化している。
他方、AとDに共通するやり方とは、Aの態度にも表れているように、一台の車を救出することと同様、あるいはそれ以上に、救援する車の安全を確保することが重要であり、そのためにさまざまな方策を立てなければならないというものであった。これは、もし遭難車が救出不可能と判断される場合、それを見捨ててもよいという考え方が根底にある。 こういう考え方のポイントは、救援「する側」に設定されている。この類の考え方の発展形は、案内「する側」のDのやり方に示されている。Dは、自分が少しでも危険な状況におかれるかもしれないと判断したら、直ちに自分を守るための方策を立てなければいけない、と考えることになる。そう考えることがDにとっては当たり前である。 自らの経験そして地元チベット人の意見に基づきf1で川を渡ろうとするCの提案は実行されることがなかったため、そこで渡ったらどうなっていたかは検証不可能である。工事現場監督の科学的な知識に基づき、選んだf2での通過は、確かに結果的に成功した。しかしその後、Aを含めてほとんどのエクスカーション参加者がf2での出来事を口にすることはなかった。人間と人間のやり取りのなかでうまれた齟齬を思い出したくなかったからなのだろうか。 他方、湿地での出来事を人々はよく口にする。事実としてCのやり方で湿地にはまった車を救出することは失敗に終わった。そこで体力的な疲労をみな感じた。にもかかわらず多くの参加者はその疲労を、湿地との戦いのなかで生まれた人間同士の協力の証として愉快に語り合っていた。湿地での出来事は、予定より一日遅れてラサに到着してからも語られていた。 チベット人やモンゴル人にとって、寺参りは昔から継承されてきた「古い」伝統であり、エンストというトラブルは「新しい」現象である。それゆえ、外部の人間から見れば、古い伝統は古い考えで維持され、新しいトラブルは新しいやり方でしか解決されないように思えるかもしれない。 しかし、観光化が進む寺院でチベット人僧侶やガイドが生み出した「新しい」考え方や解説、またチベット人の運転手が守る「古い」やり方のなかに、彼らが経験している現実の別の位相が見てとれるのではないだろうか。そこでは、「古い」ものと「新しい」ものとが、わたしたちが考えるように相反する別物として相互排除するのではなく、むしろ矛盾せず融合しあっている。危機的でもなくまた華々しくもない、ごく平凡な状況においてチベット文化が再構築されているのである。これが、「チベット高原」学会の会場外で、わたしが感じたチベットのひとつの社会的現実である。
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