04/07/12
 族譜・アイデンティティ・日韓関係
  
 
玄 大松(ヒョン デソン)
 1607年(慶長12年)から1811年(文化8年)にかけて、朝鮮通信使が江戸幕府との間を12回往来している。1719年(享保4年)、徳川吉宗の将軍職襲位を賀するために派遣された第9次通信使節の一人に申維翰という人物がいた。

 彼は通信使の文書をつかさどる製述官で、261日間に及ぶ日本紀行の記録『海游録』を残している。『海游録』には、本編のほかに、本編を踏まえた日本観察であり、文明批評である付編「日本見聞録」がある。その「日本見聞録」に、彼と雨森芳州との間で交わされた次のような対話が記されている。(『海游録−朝鮮通信使の日本紀行(東洋文庫252)』平凡社、1974年)

 まず雨森が、「日本と貴国は、海を隔てて隣国であり、互いに信義を致す。敝邦の人民はみな、朝鮮王国と寡君が敬礼の書を通じていることを知っており、ゆえに公私の文簿には、必ず崇極を致している。しかし、ひそかに貴国人の撰する文集を見るに、その中で言葉が敝邦に及ぶところは必ず、倭賊、蛮酋と称し、醜蔑浪籍、言うに忍びないものがある。我が文昭王(徳川家宣)がその末年に、たまたま朝鮮文集を見て、群臣たちに曰く、『あにはからんや、朝鮮が我を侮ることここに至らんことをと』と、終生憾みに思っていた。こんにち諸公たちは、この意を知るや否や」と、申維翰に質した。すると申維翰は、「その意はおのずから容易に知りうるところだが、顧みるに、貴国こそ、諒解していないようだ。君が見た我が国の文集とは、何人の著であるかは知らぬが、しかしこれすべて壬辰の乱(文禄・慶長の役)の後に刊行された文であろう。豊臣秀吉は我が国の通天の讐であり、宗社の恥辱、生霊の血肉、実に万世になかった変である。我が国の臣民たる者、誰か、その肉を切り刻みて食わんと思わぬ者がいようか。上は薦紳から下は厮隷にいたるまで、これを奴といい賊といってかえりみないようになり、それが文章に反映したとしても、もとより当然のことであろう」と答えた。

 マリウス・B・ジャンセンは、この二人の対話が日本と韓国の現代知識人の間で交わされたものとしても不思議ではない内容であると評している。(加藤幹雄訳『日本と東アジアの隣人−過去から未来へ』岩波書店、1999年)

 日本人の行動様式、思考様式の一つに、「水に流す」というのがある。過ぎ去ったことには拘らず、論わず、責めず、咎めず、忘れ、受容し、許すということが、日本においては穏やかな人間関係を維持するための生活の知恵とされ、また美徳とされるのである。樋口清之は、「水に流す」という日本人の思想、すなわち「日本人の『洗浄志向』、穢れや罪をも洗い流す『禊ぎ』という考え、モンスーン気候の恩恵により発達した稲作文化と、稲作の要となった水を中心とする共同体の確立、水に神を見、水の流れを生活心情、さらには生きる哲学まで高めた精神文化」が、日本人と水との深い関わり合いの中から育まれてきたに違いないと述べている。(『日本人はなぜ水に流したがるのか』PHP文庫、1993年)

 一方、文禄の役から約130年後の申維翰の答えにみるように、文禄・慶長の役が朝鮮の人々に残したトラウマと怨嗟の念は、日本に対する敵愾心となり、鎖国時代、植民地時代を通してさらに深まり、未だ延々と続いている。過去のことを水に流したがる日本文化が、豊かな水資源を有する日本の風土から生まれたものであるとすれば、あくまでも過去にこだわる執念深い韓国の文化はどこから生まれたのであろうか? 

 私はその一つの社会構造的要因として、韓国の家族制度があるのではないかと思っている。

 かつて伊藤亜人は、韓国人の歴史認識の最も基本的な性格を規定し、アイデンティティのあり方や社会統合とも密接に関わっているものとして親族体系に注目した。そして、韓国人の歴史認識が、各自の「私的な親族の歴史」を基礎としており、それが王朝の正史によって国家レベルの歴史として統合され、「具体的に遡上可能な歴史認識」になっていると指摘した。(「歴史認識の日韓比較」古澤五郎・川窪啓資編『文明の転換と東アジア』藤原書店、1992年)

 日本は、家督の相続などにおいて、父系出自原理が徹底しない双系的な社会である。一般の日本人が記憶しているのはせいぜい曽祖父母の代までであり、死者は三十三年の忌日を最後に、個性を喪失した祖霊に一体化する。祖父母以前の人々は全て集合的な祖先に一体化し、世代の序列も問われなくなる。しかし、父系単系出自原理に基づく父系制が徹底している韓国では、祖先との繋がりは永続的なものであり、それを可能にする媒介が「私的な親族の歴史」の記録、すなわち「族譜」なのである。

 韓国の小学校2年の教科書『正しい生活』に「族譜」という物語がある。小学校2年生の「サンスゥ」は曾祖父の法事の日、祖父から族譜について話を聞く。祖先のなかに親孝行をして褒章を受けた方や国のために命を捧げた方々がいることを聞き、家門の祖先を誇らしく感じる。そして、「サンスゥ」は祖先に肖らなければと固く決意する、という内容である。児童たちがこの物語を学ぶ際には、宿題として自分の家門の族譜を調べさせられ、偉大なる祖先が誰なのかを知るようになるのはもちろんのことである。このようにして、族譜は個人と門中、ひいては社会との関係を表象する記号としての意味をもつものとして、神聖視される。

 族譜に関してはすでに宮嶌博史が優れた業績を残しているので、詳しいことは宮嶌論文にゆずることにして、ここではその族譜というものが日韓関係にどのような含意をもつかに関してみてみたい。

 まず、族譜とは何かを概略的にみてみよう。朝鮮半島において王族以外の族譜は1403年に編纂された水原白氏の族譜をもって嚆矢とする。現存する最も古い族譜である1476年の『安東権氏世譜』が体系的形態をもつ最初の族譜で、1565年には現在の族譜の原型ともいえる、血族すべてを網羅した族譜『文化柳氏嘉靖譜』が刊行された。それ以降、両班一族は先を争って族譜を刊行してきた。

 それらの族譜を編纂時期別にみると、15世紀に23点、16世紀に43点、17世紀に148点、18世紀に398点、19世紀に580点である。20世紀には、1945年以前が417点、1946年以後が684点である。(『姓氏の故郷』第3版、中央日報社、1990年)編纂年度が不明な303点を含め、1990年現在で把握されている2,596点の族譜のなか、20世紀以前のものが1,192点、20世紀以後のものが1,101点である。現存する韓国の族譜の半分近くが20世紀に入ってから編纂されたものであることが分かる。これは何を意味するのか。

 それを論ずる前に韓国人の名前に関して若干触れる必要があると思う。

 韓国では1970年代以降純ハングルの名が増えてはいるが、ハングルの姓氏はない。当然族譜にはほとんど漢字の名前が載っている。韓国人がいつから漢字の名字を使うようになったかに関しては諸説紛紛としていずれが真実か定かでないが、時期的に最も早い「説」をとれば5世紀にまで遡る。そのような説では、高句麗は中国との交流が多かったため早くから漢字の性を使ったと主張する。長壽王(在位413−491年)の時代から中国へ送る国書には「高」という名字が使われていたし、「解」、「乙」、「禮」、「松」、「穆」、「于」、「周」、「馬」、「孫」、「倉」、「董」、「芮」、「淵」、「明臨」、「乙支」などの名字が確認されるという。百済においては近肖古王(在位346−375年)が「餘」氏、武王 (在位600−641年) のときには「扶餘」氏を名乗り、そのほか「沙」、「燕」、「пv、「解」、「直」、「国」、「木」、「苗」、「王」、「張」、「司馬」、「首彌」、「古爾」、「黒歯」などの名字が使われていたとされる。また、新羅においては真興王(在位540−576年)から「金」という名字が使われ、王の姓である「金」、「朴」、「昔」を始め、『三国史記』(1145年刊)には六部に「李」、「崔」、「孫」、「鄭」、「「」、「薛」の姓氏を下賜したという記録がある。

 しかし、新羅が668年に三国を統一し、757年景徳王のときに地名と官職名を中国式に変えたということなどから考えると、漢字姓が朝鮮半島で本格的に使われ始めたのは唐の文物を積極的に取り入れた8世紀以降とみる方がよいであろう。

 いずれにせよ、高麗初期の10世紀はじめ頃には姓氏と本貫の制度が確立された、ということには異説がない。そして、高麗中期文宗 9年(1055年)に名字がない人は科挙に受験できないという法令が発されて以降、姓氏の使用が広まった。12世紀には百姓も名字を使うようになり、14−15世紀には名字の使用が一般化した。しかしながら、朝鮮中期まででも身分が低い人は名字がなく、出身地をあらわす本貫しかもっていなかった。韓国で誰もが名字を持つようになったのは身分制度が打破されてからであり、日本の植民地支配の過程で1909年民籍法が施行されてからのことである。

 では、今まで名字がなかった人々はどのように名字を付けたのであろうか。四つの事例がある。第一に、戸籍書記と警察とが本人の希望通り、あるいは適当に作ってあげた。第二に、奴婢の場合、主人の名字を使うことが多かった。第三に、出身地で最も多い大姓を名乗った。第四に、戸籍書記が記録のとき、漢字を間違ったのがそのまま名字になった。

 第四の場合のように稀姓になる場合を除けば、金・李・朴などの大姓をとったことが分かる。文献上の記録では、高麗の時には「金」、「李」、「崔」、「柳」などの四つの姓が貴種であり(『文獻通考』)、朝鮮になってからは「李」、「金」、「朴」、「鄭」、「尹」、「崔」、「柳」、「洪」、「申」、「権」、「趙」、「韓」など12の姓氏が著姓であるとしている。(李宜顕『陶谷叢説』)

 韓国における名字の種類は『世宗実録地理志』(1454年刊)には 265姓、『新増東国與地勝覽』(1530年刊)には277姓が載せられており、 李宜顕(1669−1745)の『陶谷叢説』には298姓、『摯笊カ獻備考』(1908年刊)には496姓、最初の全国国勢調査である1930年11月の調査では250姓、1960年の調査では258姓(帰化人の姓氏除外、以下同じ)、1975年では249姓、 1985年では274姓、そして2000年11月の調査では286姓(本貫4,179個)である。

 『摯笊カ獻備考』が496姓で他のものに比べ多いが、古い文献中に出るものまで全て収録していることを勘案すれば、15世紀の250姓から現在の286姓まで、名字の数はあまり変わっていない。1909年の時点で名字がなかった百姓たちは、新しく自分の名字を作るよりは「良い姓」をそのまま使うことにしたのであろう。その結果、現在韓国では金氏(21.6%)、李氏(14.8%)、朴氏(8.5%)、崔氏(4.7%)が全国民の約50%になっている。それに鄭氏(4.4%)、姜氏(2.3%)、趙氏(2.1%)、尹氏(2.1%)、張氏(2.0%)、林氏(1.7%)を入れた上位10姓氏が全国民の64%にもなる。そして、上位20姓氏の人口比率は78%、100姓氏では全人口の99%を占める構造になっている。言い換えれば、韓国人の半分が四つの氏族であり、ほとんどの国民が100くらいの氏族に収斂されることになる。

 本貫別にみると、金海金氏412万人(9.0%)、密陽朴氏303万人(6.6%)、全州李氏261万人(5.7%)、慶州金氏174万人(3.8%)、 慶州李氏143万人(3.1%)の順で、上位5位までが全国民の28.2%を占めている。さらに金海金氏は150派、密陽朴氏は13派、全州李氏は105派に分派するが、ほとんどの人は本貫が同じであれば、血が繋がっていると思うし、現在の法律上でもそのように見なされている。

 話を族譜に戻そう。族譜とは、普通は同一先系の始祖以下に分派された派系だけを収録した「派譜」を指す。族譜を見て、私は金首露王の末裔であると思う人々が412万人もいる。また、統一新羅の最後の王である敬順王(927−935)の直系子孫であると思う人々が174万人もいるわけである(『三国遺史』には、金海金氏の始祖金首露王は金の盒子に入っていた黄金の卵から誕生し、慶州金氏の始祖金閼智は金櫃から出たとされる)。

 改めて述べるまでもなく、17世紀以降族譜の刊行が盛んであったため、族譜に名を連ねている祖先の多くの功績が文禄・慶長の役での活躍である。そして、彼らが公式的な文書、歴史物語のなかにも登場する。それと同時に、田舎には文禄・慶長の役で戦死した祖先を祀る霊廟が町内にあり、人々が参拝してはその祖先が成し遂げたことを回想する。祖先の物語が現在も生活の中に息づいているのである。

 冒頭にあげた申維翰の場合、本貫は寧海である。寧海申氏の族譜には文禄・慶長の役に活躍したとする申演(1534−1595年)、申経済(1555−1614年) 、申智男(1559−1635年)の名が連なっている。小学2年生の申サンスゥが族譜に登場する祖先のことを聞いて、日本に対してどのようなイメージと感情とを持つようになるかは想像に難くない。

 このように、族譜を通じて、私的な家族史と氏族の歴史とが、王朝の歴史に繋がり、国家レベルの歴史として統合され、個人の記憶が国家の記憶と一体化する。そして、現在の自己の位置が「国の歴史」によって作られてきたという歴史認識になるのである。歴史認識の背後に、親族体系が、いわばイデオロギーとして深く根を下ろしており、毎年繰り返される門中の祭事、国家の記念日などの年中行事が400年も前の歴史を昨日のことごとく想起させる役割を果たしている。

 しかし、前述したように韓国人のすべてが名字を持つようになったのは、20世紀に入ってからである。15世紀に23点、16世紀に43点、17世紀に148点に過ぎなかった族譜の刊行が、18世紀に398点へと飛躍的に増えたのは、単に印刷技術の発達によるだけではない。族譜があれば軍役が免除されるなど、族譜をもつこと自体が特権であったためでもある。それゆえ族譜の偽造が大量に行われた事実は『朝鮮王朝実録』の記事にも散見できる。19世紀末の身分制度の崩壊と、植民地時代での身分の変動に伴い、1920年代には毎年族譜がベストセラーになったくらい、族譜の編纂は盛んになった。その多くが「作られた伝説」であることは言うまでもない。すなわち、いま各家庭で神聖なものとして奉られているほとんどの族譜が実は「幻の族譜」なのである。

 16−17世紀には、姓氏さえも持っていなかった奴婢は全体人口の30−40%であり、人口の40−50%を占めていた百姓も族譜を持つことは不可能であった。にも拘わらず、現在韓国のほとんどの家庭が5−6世紀からの始祖から始まる族譜を持っている。族譜からみて、現在の韓国人は皆これまでこの国を作り、支配してきた王様か、両班貴族の末裔である。

 猪口孝の2003年のアジアバロメーター調査によれば、韓国人の政府信頼度は21%で非常に低いが、85%の人々が祖国に対して誇りをもっている。いま国を動かしている人たちは私と関係ないが、この国は私と血が直接繋がっている「祖父の祖父の祖父」が作り上げたものである。誇りに思わざるを得ない。このようなコンテクストからみれば、国に対する韓国人のプライドは十分納得できよう。

 韓国人の5人に1人が金氏であり、ほとんどの国民が100くらいの氏族に収斂されると先に述べたが、日本はどうであろうか。日本には漢字の名字では約10万、呼び方まで区別すれば約30万の名字がある。上位の100姓氏は2,800万人で全人口の22%、上位7,000姓氏までが全人口の約96%くらいになる。(丹羽基二編『日本苗字大辞典』芳文館、1996年刊によれば291,531の姓氏があり、1999年8月の追録編により追加された269姓氏を合わせると291,800姓氏になる。私は日韓のこのような親族体系の違いが、一元的な韓国社会、多元的な日本社会を特徴づける理由の一つではないかという感を拭いきれない)。

 最後に、もし韓国の家族制度が、歴史の記憶により対日イメージを決定的に損ねる構造的な要因としてあるとするならば、これからも日韓関係の根本的な変化は期待できないのだろうか。

 現在、韓国では、社会構造をドラスティックに変えそうな動きが生じている。1997年 7月に、韓国の憲法裁判所は、女性団体の違憲審判請求に対して民法第809条 1項の同姓同本結婚禁止条項に違憲判決を下した。その結果、1999年 1月 1日から同姓同本結婚禁止条項が無効になり、姓氏と本貫が同じでも8寸以内でなければ結婚が法的にも認められている。それに止まらず、家父長制の根幹をなしている戸主制の廃止を骨子とする家族法改正案が国会法制司法委員会に係留中である。父の姓氏だけを子女の姓氏として認めている現行民法第781条が、母系血統を無視する女性差別の核心条項であるとして、削除対象第1号として取り上げられている。また、改正案では、子女の姓氏と本貫とを父母の協議によって父、あるいは母の姓氏と本貫とに自由に決めることができるようになっている。

 既存の家族制度の不合理性、父系単系出自原理に反対する女性たちは既に両親の名字を冠した名前を使って活動している。例えば、父母の名字がそれぞれ金氏、李氏の場合、「金李○○」になる。父系血統の聖典、族譜はもはやその存在意義を喪いつつある。

 いま韓国のエネルギッシュな女性戦士たちが日韓関係の一つの軸を揺るがしている。

(追記:韓国憲法裁判所は、2005年2月3日、戸主制に対して憲法不合致の判決を下した。そして、戸主制廃止を骨子とする民法改正案が3月2日の国会本会議で確定され、ついに戸主制は廃止された。これにより、2008年1月1日からは戸籍の代わりに一人一籍の新しい身分登録制が採用されることになる。また、主要な改正としては、夫婦が合意すれば子供に母親の名字を付けることが可能になったこと、再婚家庭の子女が名字を変えることが出来るようになったこと、同姓同本禁婚制度が廃止され近親婚禁止制度に変わったこと、女性に対する再婚禁止期間規定が削除されたことなどがある。このような改正で、韓国社会において法律上の男女不平等は完全になくなった。)
 


玄 大松(ヒョン デソン)   東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了
財団法人アジア太平洋研究会研究員