04/06/16
 世界で一番贅沢な紙―南屏紙―
 
菅 豊

 昨年末、研究室を掃除していると、古いノートの中から一枚の紙がこぼれ落ちてきた。このノートは、十年以上も前に、中国のとある山村を調査したときのフィールド・ノートであり、この紙は、深い黄緑色をした手漉きの紙で、風合いは「和紙」とまったく変わらない。ちょうど判型菊判くらいの長方形をしている。十年以上もの長い間、ほったらかしにされていたにしては、とても状態がよい。

 古代中国で製し、日本に輸入した紙のことを「唐紙(とうし)」と呼ぶ。大陸から渡来したこの「唐紙」の大半は、麻の襤褸布などを主原料として、もろく裂けやすい低質紙だったという。この黄緑色の紙も、飛び抜けて上質とはいえなさそうだが、しかし、襤褸を原料に使っていないから「唐紙」と呼ぶにはいささか気が引ける。さらに、その風合いは「和紙」とまったく変わらないが、それを「和紙」と表現する訳にもいかない。なぜならば、「和紙」とは、当然ながら日本特有の製法で作られた紙を意味するからである。私の紙は純然たる中国製で、「和紙」という言葉は、やっぱりそぐわない。第一、その手漉きの紙は、材質において「和紙」とは大きく異なっている。それは、竹をもとに作られたのであり、その黄緑色の色合いは、そこに起因する。最近、「和紙」の世界でも竹を原材料にするものが登場してきたようだが、歴史的に見て、それは中国に比べとても新しいことのようだ。中国では、かなり古くから竹を用いて紙が作られてきた。そして、その竹紙の中でも、私がもっているこの一枚の竹紙は、世界でもっとも贅沢な紙のひとつと考えられる。

中国の紙

 広く知られるように、現在使われる紙、すなわち植物の繊維を原材料にする紙のルーツは中国とされる。もちろん、ただ文字を書き写すだけの下地としては、ヒツジなどの皮を用いた羊皮紙や、英語paperの語源となったといわれる古代エジプトのパピルス紙などがそれに先行するため、記録媒体=紙の発祥の地は別にあるのかもしれない。しかし、そのような紙は、植物繊維を叩き解かし、水の中で平たくなるように絡め取り乾燥させる現在の紙とは、製法が大きく異なるものである。

 通説では、紙の発明者は、宦官・蔡倫(さいりん)とされている。後漢中期、宮廷内の器物を製造する役所・尚方令(しょうほうれい)の長官であった蔡倫は、樹皮や麻布、魚網などから、のちに「蔡侯紙」と呼ばれる紙を作り、ときの皇帝・和帝に献上したという。西暦105年のことであるから、いまからちょうど1900年ほど前の話である。実のところ、20世紀初頭以降の考古学的発見から、蔡倫の発明以前にも紙とおぼしきものが使用されていたことが明らかになったため、紙発明者としての彼の事績と地位はいささか怪しくなってはいるが、製紙技術を集大成し、その普及に努めた彼の功績はいまでも色褪せることはなかろう。その偉大な功績により、人々は、飛躍的に情報伝達量を増大させるとともに、伝達の確実性と超時間性を高めたのであり、それは、世界を変えた大発明のひとつといっても過言ではない。その後、長い間、文字の国・中国の文化を、紙はまさに“下地”として支えてきたのである。

 その技術は世界中に広まり、もちろん日本に伝わって和紙となるのであるが、本家・中国においては、その材質に和紙とは異なるものが使われるようになっていく。それが、竹である。

 中国製紙技術史研究の泰斗、潘吉星(はんきっせい)氏は、9世紀、李肇(りちょう)の著した『唐国史補』に載る、竹の紙が現在の広東省韶関付近で作られていたとする件を竹紙にかんする記事の初見とする(潘 1980)。これに従うならば、竹を用いた紙、また、その製作技術は唐代以降に生まれたと考えられる。この竹紙はついで宋代にさらなる発展を遂げたとされる。

 10世紀後半、北宋で著された『文房四譜』の「紙譜」には、「今江浙間有以嫩竹為紙(長江下流域の江南では、若竹で紙を作るところがある)」とあるように、江南の地では竹を原材料とする製紙が発展していた。先に紹介した潘氏の言葉を借りると、「江浙一帯が宋代に生産した竹紙は名声天下第一であった」(潘 1980:162)ということになる。多くの文人墨客が、なめらかで墨の発色がよく、筆先によい竹紙を重宝したのである。北宋きっての文人・蘇軾(そしょく)(蘇東坡=そとうば)も、好んでこの竹紙を用いていたということからも、竹紙の普及の程度が推し量られよう。唐宋以降、中国では紙需要が高まり、その原材料の確保に腐心するようになって、身の回りに豊富に存在する竹に着目したのである。とくに、江南など中国南部においては、竹はドミナントな植物であったろうから、その資源化は画期的であった。竹紙の製法に関しては、明末(17世紀初頭)の科学技術書『天工開物(てんこうかいぶつ)』(※)に、絵入りで詳しく解説されている。

『天工開物』にみえる竹紙製作技術

 『天工開物』の著者・宋應星(そうおうせい)は当時の紙をその材料から、樹皮を用いた皮紙と、竹を用いた竹紙に区別している。その製法に大差はなさそうであるが、竹紙を作るのはやはり中国の南の地方が主であった。同書には、「凡造竹紙事出南方而閩省獨專其盛(竹紙を作ることはだいたい南方から始まって、閩(びん)(いまの福建省)が、とくに盛んになっている)」とあり、その主産地を竹資源に恵まれた中国南部の福建とする。北方では、竹に恵まれないために、反古(書き損じた不要の紙)を漉き直したり、道に落ちている僅かな紙くずでも拾って再生したらしいが、竹資源に恵まれた中国南部は、それを安価で手に入れることができるためそんな心配はいらなかった。

 枝葉が生えようとする若竹が、竹紙の原料にはよいらしい。芒種(新暦6月6日頃)以降に、山に入って伐採し、切った竹は池に浸し、100日以上水に晒す。その後、池から上げて槌で打ち、殻と青皮を洗い去る。それに石灰を溶かした水を塗り、鍋に入れて8昼夜煮る。煮終わると火を止めて1日置き、竹麻(竹の繊維)を取り出して、きれいな水をためた池の中で洗浄する。その後、柴を焼いて作った灰汁でさらに洗い、再び釜にかけて、稲藁の灰を加え煮る。冷やし、灰汁を加え煮立てるのを10日余り繰り返すと、自然とそれは腐る。それを水碓(みずうす)(水力によって動かす搗臼(つきうす))で搗いてどろどろにし、槽(漉き舟)に流し込み、それを漉き上げる。漉いた紙を積み重ねて、適当な量になると板を乗せ、酒搾りのように棒をもって圧し、水分を搾り出す。水気がなくなったら、一枚ずつはがし、煉瓦造りの炉で焙って乾かす。こう書き連ねても、結構、複雑で手間のかかる工程を経て、竹紙は作られていたことがわかる。

 当時の紙は、単に文字を書き、絵を描く下地として用いられたばかりではない。それは、さらに、人々の信仰と深く結びついていた。『天工開物』には、盛唐の時代、鬼神を祀るために紙銭(しせん)を(供え物となる)絹布の代わりにして燃やしたという。紙銭とは、紙でこしらえたあの世のお金のことで、供え物の一種である。現代でも死者を祀るときや、その他の冥界、神界への儀礼的贈与に、それは使われている。
 
紙漉きの村

 さて、冒頭紹介した私の一枚の紙は、この『天工開物』に描かれた竹紙とよく似ている。

 この黄緑色の紙に出会ったのは、1992年、浙江省温州市の山奥であった。温州市は浙江省南部沿海部の文化・経済の中心都市であり、経済開発区としてここ十数年、発展著しい。とくに個人経営の商工業が発達し、人々の生活水準が急速に高まりつつある。その状況は「温州モデル」として注目されている。しかし、私が訪れた沢雅鎮呉坑村は、温州市中心部から1時間半ほど車で山に分け入り、さらに、急峻な峡谷に沿って続く細い階段道を、1時間ほどかけて歩いて登らなければならないほどの僻陬な農村であった。

紙漉きの村、呉坑村は、この山を越えたところにある

 戸数は120戸余り、人口700人ほど。呉と林姓が大半を占めるこの村の人々は、農業の副業として、伝統的製紙業に従事している。この山間部一帯が南屏紙(なんびょうし)という竹紙の一大生産地となっているのである。南屏とは福建省の地名であるらしく、この一帯の人々は、先祖が福建省南屏から移住してきたという伝説をもっており、その祖先が製紙の技術を伝えたという。先に紹介した『天工開物』に、竹紙の生産にかんして福建省が盛んであったとあるが、まさに、ここ呉坑村の製紙は、その福建竹紙の伝統を引き継ぐものなのである。

 呉坑村の竹紙製法は、『天工開物』記載の製法ととても似ている。

 呉坑村で竹紙に用いる竹は、水竹(学名Phllostachys heteroclada Oliv.)が中心で、その他、毛竹(モウソウダケ)も僅かに用いられている。水竹は、1〜2年生の直径5センチメートルほどの若い竹が用いられる。元々、福建省から移住してきたときに、この水竹を携えてきたとされる。各人、山に栽培しているが、自村で生産する水竹のみでは、その需要をまかないきれないため、近在の県や福建省あたりからも移入していた。

 竹は、大刀という先端が鉤状に曲がった特別な鉈で伐採、枝落としがなされるが、この道具も『天工開物』に記載される伐採の道具と酷似している(※)。伐採後、長さ80センチメートルほどに切り揃え、ハンマーで叩く。これを天日で1〜2カ月乾燥させた。さらに、古くはこの工程の後に、『天工開物』と同じく釜で煮ていたが、現在は蒸煮は行われていない。よく干し終わると、次に6キロ分ずつ縛り、腌塘(イエントン)という池に漬け込む。そこには重さで竹の分量4に対し、1の割合で石灰を混ぜる。この石灰水の中で、竹は2〜3カ月ほど浸されることによって、より柔らかくなるのである。古くは、焼いた蛎殻の灰や、草木灰が用いられていたようであるが、効果は石灰の方が上回るという。そのため、石灰を用いるようになって、釜で煮る蒸煮の段階を省略するようになった。

水竹

割いた竹を運ぶ

石灰の入った池に2〜3ヶ月つけこみ柔らかくする

 2〜3カ月後、池から上げられた竹を刷(スワー)と呼び、一度、川の水できれいに汚れを洗い落とす。そして、水碓(スイトゥイ)という水を動力にした搗臼で、細かく繊維を搗き潰して細刷(スイスワー)という紙料にする。呉坑村に到達するまでの道のりには、急峻な峡谷が迫っていることはすでにふれたが、この峡谷を貫く急流が、この作業に大きく貢献している。川沿いには、8基の水車小屋が建てられ、その水車によって水碓(スイトゥイ)は動力を得る。この小屋は、約15戸程度で共同所有され、建築・維持の費用を負担した割合に応じて、使用する時間が割り当てられている。

 さらに、村のあちこちに小屋が並んでいる。それらは紙漉小屋で、その中には紙を漉くための紙槽(チーツァア)(漉き舟)が据えつけられている。紙槽は2つに仕切られており、小さな紙槽(小紙槽)に細刷を貯め、上から水をかけて残滓を隣の大きな紙槽(大紙槽)の水に解かす。それを、簀を引いた簾(レン)という漉き桁で漉いていく。一枚一枚漉き上げるごとに、脇の木板に積み重ね、ある程度ためると梃子を応用した脱水機・壓杆(ヤーカン)で時間をかけてゆっくり搾り上げる。そして、よく水分を抜いて、一枚一枚はがし、天日で数時間乾かす。最後に、綿密に検査し品質をそろえて1刀(=100枚)ごとひとまとめに縛り、さらに1条(=40刀=4000枚)ごとに梱包し出荷する。南屏紙の完成である。

 南屏紙は、その原料を山野から取り、一枚の紙に仕立てるまで、実に半年以上もの月日と多くの人力を必要としており、まさに明代末の紙と変わらぬ手間のかかる伝統的な製紙法によって作り上げられるのである。

水碓で細かく搗き潰す

紙漉き

一枚一枚、ていねいにはがす

世界で一番贅沢な紙

 南屏紙は1条=4000枚が37元(当時1元は約15日本円)で出荷されていた。原材料の購入費や水車小屋の維持費などの諸費用を引くと、1条あたり15〜17元ほどの儲けになり、年間平均で1人あたり150条は作ることができるというから南屏紙から上げる年収は1人あたり2250〜2550元ほどにのぼる。1992年当時、中国全土の農村家庭1人あたり平均純収入は800元弱であったから、伝統的製紙は、相当、稼ぎのよい農村副業になっていたことが理解できる。

 さて、冒頭、私は、この南屏紙が世界で一番贅沢な紙であると述べたが、その理由は、その用途の特殊さにある。数百年の伝統に裏付けられた確かな技術と、いく段階にも分かれる複雑な工程、そして人手をかけた丹念な作業によって完成された手漉きの紙は、なんと衛生紙、つまりトイレット・ペーパーとして用いられていたのであった。手漉きのトイレット・ペーパーを、想像して欲しい。柔軟で優しい肌触り、吸湿性にも優れている。労働力の安価だった当時の中国だからこそできた用途といえよう。古老の話によると、南屏紙は20世紀半ばの解放以前、普通の記録紙としても使われていたようである。衛生紙としての用途の特化は、社会主義化過程での実用生活用品の生産重視の結果、さらに機械製紙が発展する中、市場のすきまに対応した結果とも考えられる。

 さらに南屏紙は、紙銭としても、ここ温州で用いられてきた。『天工開物』に、唐の時代に鬼神を祀り、紙銭を燃やしたという記事があり、それが冥界・神界への贈り物として用いられていたことを紹介したが、ここ浙江省南部でも竹紙は未だ同様の紙銭として用いられている。とくに沿海の漁民たちは、漁に出る前、あるいは嵐のときにこの紙を海中へと投げ入れ、龍に供える風習をもつ。冥界の財宝としての紙銭を供することにより、龍に航海の順風満帆を祈るのである。

 衛生紙として用いるにしろ、あるいは、紙銭として用いるにしろ、その用途はなんとも贅沢である。半年以上にわたって手間を惜しまず作った伝統の手漉きの紙は、一瞬のうちに厠と海の底へと消えゆく運命にある。不浄の紙と神への聖なる紙が、まさに“紙一重”になってしまったことは興味深い。しかし、このような状況は、いままた新たに変貌しようとしている。

 現在、沢雅鎮の美しい渓流は観光開発が進みつつあり、そのような中、南屏紙製紙は生活用品産業から伝統的工芸産業としての意味を与えられようとしている。その成否は未だ明らかではないが、伝統の意味づけは本来、社会の変化に応じて想像以上にフレキシブルに変わりゆくものである。いつの日か、私の古びたフィールド・ノートから、一枚の南屏紙が再びこぼれ落ちるときには、それは本当に高価で贅沢な伝統工芸品として、したたかに生まれ変わっているのかもしれない。

村の便所と南屏紙(中央)

*カタカナ・ルビは現地の言葉の聞きなし
*参考文献
  李肇撰、1979『唐國史補』上海古籍出版社
  潘吉星著、佐藤武敏訳 1980『中国製紙技術史』平凡社
  蘇易簡撰、1995『文房四譜』河南教育出版社
  宋應星原著、三枝博音解説 1943『天工開物』十一組出版部
  宋應星撰、藪内清訳注 1969『天工開物』平凡社

菅豊(すが ゆたか) 東洋文化研究所助教授

※文中の『天工開物』の図版は『明日の東洋学』No.11の表紙をご覧ください。

東洋学研究情報センター『明日の東洋学』No.11(2004.3)より転載。
『明日の東洋学』はPDF版でも公開しています。