04/05/11
 東南アジアの幼児教育・保育−民族・国家・グローバリゼーションの狭間で
 
池田 充裕

はじめに

 1997年7月の通貨危機は、その発端となったタイはもとより、東南アジア地域の人々に嫌が上にもグローバリゼーションを意識させ、2001年9月の米国同時多発テロは、マレー系イスラームが多く住むマレーシアやシンガポールなどの多民族国家に激震をもたらすことになった。私たちの研究グループ*後注では、これら3ヵ国において、政府、民族・宗教組織、民間教育プロバイダーの三者が、経済・社会の動揺期にあって、どのような理念やビジョンを抱いて、就学前教育に取り組んできたのかを検証しようと、各国の所管省庁や、民族・宗教系の教育支援組織、教員養成機関、関連企業を訪問し、インタビューや資料収集を行った。

 一定の制約を受ける義務教育段階とは異なり、これらの国々の就学前教育では、上記三者が中心となって各々のミッションや創意に基づいた多様な教育事業が展開されている。それではこれら三者は、(1)母語教育、(2)民族の伝統文化や生活慣習、国民意識の育成などに関わる価値教育、(3)国際化に向けた教育的な取り組み(異文化理解教育や外国語教育など)について、どのようなカリキュラムを用意し、グローバリゼーションに対応しようとしているのだろうか。

タイの事例

 タイにおいては、特に近年、国公立幼稚園は小学校段階への準備教育を重視し、想像力や認知力の育成に力を入れて、しつけや礼儀作法などの徳育を強調する傾向にある。私立では、やはりグローバリゼーションに即応すべく、“バイリンガル・プログラム”を導入する園が年々増加している。

 マレー系ムスリムの多い南部では、コミュニティが運営母体となってマレー語によるイスラーム教育がモスク内で行われている。また、イスラームの財団によって無認可ではあるが体系的な幼児教育施設も設置されており、伝統的なジャウィー(アラビア語表記のマレー語)に加えて、近隣諸国との交流を意識したルーミー(アルファベット表記のマレー語)の学習も行われ、英語教育の基礎ともなっている。


托鉢の実習…年間行事として托鉢の実習が採り入れられており、
仏教の教義や礼儀作法を体験的に学んでいる

南部タイの小学校(幼児学級附設)での朝礼…ムスリムの子どもたちは、
小学校段階より女子はヴェール、男子は長ズボンを着用する


マレーシアの事例

 マレーシアの就学前教育は、政府機関としては教育省、国民統合・社会開発省、地方開発省などが担当し、民間ではイスラーム団体や企業が参入するなど、各機関で多種多様な形態の教育活動が展開されている。

 イスラーム団体が運営する幼稚園や教員養成機関は、英語やITはもちろんのこと、モンテッソーリの教育思想・方法なども柔軟に採り入れて、グローバルな人材の育成に積極的に取り組んでいる。また同国最大の民間教育プロバイダーの幼稚園は、“マレー文化年”にインド人の子どもがマレー・ダンスを踊り、“日本文化フェア”ではムスリムの子どもたちが日本の着物を着て、刀を腰に差すといった“異文化理解プログラム”を導入し、他の私立幼稚園でも同種の活動を行っていた。同じマレー系ムスリムの子どもであっても、どの就学前教育機関に所属するかによって、その後の世界観が相当異なってくることが予想された。


イスラーム幼稚園…「〜ing」(現在進行形)の文法の学習

民間の幼稚園…全ての民族の子どもたちが、マレー・ダンスを実践


シンガポールの事例

 全児童の8割近くを受け入れている与党・人民行動党設立の幼稚園組織は、語学、音楽、運動、芸術といった全ての教育活動をバイリンガル能力(英語と民族語)育成のために統合・調整(“統合シークエンス法”)し、インターネットなどを用いて、その教授法を全国レベルでマニュアル化・共有化している。同国では、バイリンガル教育が建国以来の教育政策の柱であり、他の公立のチャイルド・ケア・センターでも、年少組ではダンスや歌唱といった表現活動を通して母語を修得し、年中から年長へと上がるにしたがって、徐々に英語を交えていくというイマージョン形式の教授法が取られていた。

 さらには、イスラーム系幼稚園ではマレー語、英語、アラビア語に加えて、華語までも教えていた。イスラームでさえも、21世紀のネクスト・ドラゴンである中国を意識した教育活動を展開せざるをえないという社会・経済事情が窺えた。


IT教育…国内全ての幼稚園で、英語学習や創造活動の分野で導入

統合シークエンス…語学、数学、芸術、身体表現など全ての活動を二言語で展開


おわりに

 日本国内で暮らす外国人や国際結婚が増え、保育園や幼稚園に入ってくる子どもたちの国籍や言葉はますます多様化している。平成11年改訂の『保育所保育指針』は、「子どもの人権に十分に配慮するとともに、文化の違いを認め、互いに尊重する心を育てるようにすること」を保育目標に掲げ、平成10年の『幼稚園教育要領』改訂の際には、その方針の第一として、「豊かな人間性や社会性、国際社会に生きる日本人としての自覚を育成すること」が挙げられた。

 しかし、我が国の幼児教育・保育の現場で、各国の就学前教育の状況や保育文化、家庭教育に関する情報がどれだけ知られているのだろうか?外国人の子どもを受け入れている現場からは「同じ人間として教育・保育を行う」という方針が語られることが多いが、そこで語られる“人間”とは結局のところ日本人の視点や教育観に拘泥したものとはなっていないだろうか?事実、東南アジア諸国やイスラーム教徒の子どもに関しては、その文化的背景に対する基本的な認識の欠如から、いじめや差別など、その受け入れのあり方をめぐって様々な問題が生じている。さらには、このような環境の変化にあって、幼少時からの“国際性の育成”や“日本人としての自覚の醸成”をどのように行うべきなのかということも緊要の課題となっている。

 東南アジア3ヶ国の就学前教育の現状を眺めながら、我が国の幼児教育・保育全体を逆照射する良い機会を得ることができたと感じている。

 なお、調査報告の詳細は、
http://www.yamanashi-ken.ac.jp/~youkyou/page022.htmlを参照してほしい。


* 本稿は、科学研究費基盤研究(C)(1)課題番号14510321「タイ・マレーシア・シンガポールにおける就学前教育の実態に関する実証的比較研究−民族性・国民性の育成と国際化への対応を中心として−」の研究成果に基づく。現地調査は、池田(シンガポール担当)、手嶋將博(文教大学、マレーシア担当)、鈴木康郎(筑波大学、タイ担当)の3名で行った。


池田充裕(いけだ みつひろ)山梨県立女子短期大学・幼児教育科 助教授