04/04/16 | ||
モンゴル都市・建築史を構築する夢を見て | ||
包 慕萍(BAO Muping) | ||
「モンゴルに、建築はあるの?」 ――私の研究課題がモンゴルの建築史であるというと、日本人が驚いて返してくる言葉です。それは、草原に遊牧民の家であるゲルがポツリと立つイメージは皆さんお持ちであるが、原始的に見えて、大した歴史も感じられないし、その以外に一体何があるのという驚きです。
内モンゴルのシリンゴル草原に生まれたモンゴル人の私さえ、自分の民族らしい建物というと、町から遥々遠いところにある遊牧民のゲルぐらいしか見たことがない。なぜならば、モンゴル族であっても、役所や学校、病院などで勤めている、いわゆる都市民はこ官庁所在地である定住町に住んでいるからだ。私の出身地の定住町である東ウジュムチン旗(地名)は主に1950年代からの移民による構成され、モンゴル族、漢族、回族(ムスリム)が混住し、日干し煉瓦や赤レンガで造られている。それはどちらかというと、中国東北部や華北から持ち込まれた町の造り方である。 町は北にある山の足元につくられている。小学生ぐらいになってから、友達と群になって、よくこの山に遊びに行った。そこに興味を持ったきっかけは、そこは町の過去の栄光な地であると父親たちが語っていたのである。口伝によると、その山には立派なラマ寺院が建っていて、そこがこの草原の町の起源だという。お寺の本堂は3階建て、中は吹き抜きになっていて、壮麗な観音像は3階建ての高さにもなる。そして、このラマ寺院が所蔵している溜金仏像はハルハ・モンゴル(モンゴル国)のイへ・フレー(大フレー)の仏像とセットになっているので、ここのお寺の名前は「ラマ・フレー」と呼ばれていたという。お寺の中には、玉、銀、金の器具が山ほどあって、本堂の中の絹、錦などの旗幡の美しさは信じがたいほどだったなど、停電の夜にはそのお寺の伝説は永遠の話題になっていた。 しかし、我々の世代は、この眼でそのお寺を確かめる機会は永遠に失われた。それは、生まれたのが文化大革命の発動より遅かったせいだ。父親たちの話によると、お寺の屋根の鴟尾を壊すために、200人ぐらいが一列に並んで、紐を着けて引っ張っていた。それでも破壊し切れないので、結局火をつけた。3日3晩も燃え続け、数百人のラマたちはお寺から追い出され、その火の前で泣いていた。 大人は悲しい心情で実体験を語ってくれたのかもしれないが、われわれ子どもたちは単なる昔話として受け入れ、そして、何か宝物でも残っているかもしれないという期待で寺の跡地を見に行った。地上には何も残っていなかったが、床の舗装だけはそのままだった。整然と並べてられた正方形で1尺ぐらい大きさの青石や、青レンガの舗装だった。その床の舗装から柱の位置、どこが本堂で、どこが廊下だったのがと分かった。振り返ってみれば、まるで平面図だけが大地に残された感じであった。この旧跡には、何か魔力があるように、我々子供を引き寄せる秘密基地になっていた。 このお寺の立派な外観、メダリー仏像の美しい顔を拝観できたのは、それから20数年後の日本に来てからである。それは、日本の学者が1940年代にこのお寺を調査した記録からだ。このように、私はこのモンゴルで著名なお寺町にうまれ育ったにも関わらず、その素晴らしい建築の姿を見たことがない。つまり、文化大革命の破壊のためである。このようなモンゴルの建築が破壊されたり、都市が消えたりする歴史は、私たちの年代だけが経験したことではない。天災、衝突、戦争、政治変革などによって、このようなことは歴史上繰り返されてきた。加えて、「文化が残らない文明」と言われる遊牧社会であるモンゴルは、蓄積を重ねてゆく農耕社会と比べたら、一層残るものは少ない。しかし、正確にいうと「残らない」というのは、物質的なものであり、たとえ破壊されたお寺でも、荒廃になった元代の上都でも、祖父や父親、或いは祭りの馬頭琴の演奏者からの口伝で我々に伝えてくる。それは代々相伝の「メイデア」(口頭上?)上のモンゴルの建築や都市に対する記憶であり、ある種の歴史になっている。 日本に来てから、またひとつの絵図との出会いから私は衝撃を受けた。そこには清朝崩壊後に独立した外モンゴルの首都イへ・フレー(ウランバートルの前身)の都市の姿が画かれている。時期は1912年である。活仏のジェプツンダンバ・ホトクトに命じられ、宮廷御用の画家が町の構成と生活を丁寧に描いた鳥瞰図だ。この絵を見た途端に、口伝の「イへ・フレー」の記憶が甦り、「本当だ」との連発であった。イへ・フレー(フレーは円形の囲いの意)は本当に円形になっていた! しかも本当にゲルによって構成されていた! 都市は本当にフフホトのように山と河に囲まれていた! 初めて見たフレーの姿は驚くほど口伝と一致していたことに感動して、伝説は本当だと分かった。 ゲルが集まってきて、町のように並んでいる情景は、ふるさとの夏の祭り「ナダム」だけであった。それは大体2週間限定の集まりである。その体験から、草原では、このゲルによる仮設的な「都市」があるという漠然とした認識のみであった。この絵図を見た時に、ゲルの集合体は2週間ではなく、季節ごとでもなく、年単位の長さで維持されたと知り、モンゴルでは「遊牧都市」があったのではないかと思うようになった。 このような経験と出会いから、「有」と「無」の間に揺れている断片的モンゴルの都市と建築の記憶を、ちゃんと体系的に研究し、時間と空間の糸を織り込むように歴史を解明し、モンゴルの都市と建築史を構築するような夢を抱くようになった。この地域の都市と建築に関する記憶は、我々の口伝という「メイデア」だけに存在させるのではなく、文字に記録し、民族、地域全体に共有できるように、また、他文化との関連を検証し、アジア史、世界史の中で位置付けをできるように、研究を進む重要性がある。 遊牧文明における都市とは何か。モンゴル帝国からどういった都市・建築のシステムを残してくれたのか。チベット仏教は、モンゴルにどういった建築革命をもたらしたのか。社会主義時代では何を破壊し、何を建設したのか。これからのモンゴルの都市と建築はどこへ向かったらいいのか、現代技術で低密度分散型の都市インフレンの実現は可能であるのか。過去に関しても、現在、未来に関しても未知なことは沢山あり、解明してくれる人たちを待っている。そして、日本でのモンゴルに関する研究の蓄積は世界的に見ても高い水準であることや、モンゴル国、中国領の内モンゴル両方への現地調査できることも研究進展の可能性を秘めている。
私自身は博士論文(東京大学建築学専攻・2003年度)で内モンゴルの首府であるフフホトを中心に18世紀から20世紀までの都市・建築史をまとめました。今年の夏にはウランバートルの都市・建築調査が始まります。もしあなたが研究課題を探しているなら、どうか、一緒にこの夢を見て歩きませんか。 包慕萍(BAO Muping) 日本学術振興会外国人特別研究員、博士(工学)、 モンゴル・中国の都市/建築史専攻。 |
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