04/04/01
 中国古典詩研究と歴史主義そのほか−オポッサムの棲む国から−
 
浅見 洋二


 わたしは中国文学、特に六朝、唐、宋の詩と詩論を専攻する。現在、ハーバード・イエンチン研究所の客員研究員として、マサチューセッツ・ケンブリッジにて研修を行っているところである。研修中の研究テーマは「宋代を中心とする中国の別集編纂に関する文学論的・社会文化論的研究」ということになっている。このテーマに関連する資料などを少しずつ読むかたわら、ハーバード大学・東アジア言語文化学科で開講されているS・オーウェン(中国古典詩)、P・ボル(中国思想史、社会文化史)、W・イデマ(中国白話文学)、杜維明(儒学思想)といった先生たちの授業を聴講している。ただ座っているだけなのだから「聴講」とはとても言えないけれども。

 さて、本稿に与えられた課題は「日本における中国古典詩研究の現状について」である。もとよりこの課題について包括的かつ体系的な論述を行う能力はわたしにはない。アジア学関係の蔵書では世界有数の規模を誇るイエンチン図書館にも、中国文学に関する日本の研究書は意外と少ない。そのため、日本の研究の現状を十分に調べることはできなかった。以下に書き記す断章は、ハーバードでの研修中に得た知見なども織り交ぜつつ、わたしなりの関心に沿って述べた中国古典詩研究の現状にまつわる若干の貧しい感想と意見にすぎない。多くの誤りも含むことだろう。そのことをあらかじめお断りしておきたい。

*    *    *

 ハーバードへの行き帰りに大学近くの書店にもよく立ち寄るが、日本の書店と比較して次のような違いがあることに気づかされる。書棚の書物はジャンル別に分けて配架されている。この点は日本の書店も違いはない。だが、分類のジャンルとしてLiterature(Fiction / Poetry / Drama)とは別にLiterary Theory / Literary Criticismが設けられ、しかもかなりの分量の書物が並んでいるのは、日本ではあまり見られない光景なのではないだろうか。日本でも大規模な書店では「文芸評論」等の分類名を掲げた書棚が設けられていることがあるが、その場合でも全体の書棚に占める割合は微々たるものでアメリカのそれには遠く及ばないだろう。アメリカにおける文学理論・批評の盛行ぶりをよくうかがわせてくれる書店の光景である。

 もちろん、文学理論の盛行はアメリカほどではないにせよ、ヨーロッパにも見られるだろう。わたしの専攻に関わる中国について見ても、たとえば大学の中に「文学理論」を専攻する学科が置かれ、また専門の学術雑誌が数種刊行されるなど、やはり同様のことが言える。言うまでもなく文学理論研究は文学研究の一部をなすものであり、文学(文学作品)を研究することの中から生み出されてきた。文学作品をいかにして研究するか、文学研究の方法論的模索のために生み出されたのが文学理論なるものであろう。では、なぜ文学研究においてかくも熱心に「理論」が求められることになったのか。文学作品を論ずるために必要な道具として理論が求められたということなのだが、理論が求められるという点では例えば歴史学などの他の人文学分野でも同様なはずである。実際、他分野でも「理論」研究は盛んに行われていよう。ところが、ふたたびアメリカの書店の光景に即して言えば、例えば歴史学についてはHistoryの棚が設けられるだけで、LiteratureのほかにLiterary Theoryの棚が設けられるようなことはない。

 文学研究において、こうして過度なまでに「理論」が突出することになったのは、打ちあけて言えば文学研究に理論が欠けていたからであろう。次のように言ってもいいかもしれない。文学あるいは文学研究につきまとう、茫洋としてとらえどころのない性格、それが文学研究に関わる者を理論、すなわち方法論的模索へと駆り立てたのだ、と。例えば、文学を研究するというのはどういうことなのか、こうした問いかけに対して、わたしたちのほとんどは答えに窮するだろう。歴史学や哲学研究についてならば、最大公約数的な概括を与えることはある程度可能であるように思われる。それと比べて、文学研究は何を、どのように研究する学問領域であるのか、その定義は困難を極める。それは実際に文学研究の対象・方法があまりにも多様であることにもよるだろうが、しかし研究の多様性ということで言えば歴史学や哲学も同様である。文学研究の定義のむずかしさには、もっと根深いものがありそうである。

 文学研究の定義がむずかしいのはなぜか。それは敢えて言えば、文学研究が固有の方法論を備えた、自立した学問領域とはなりえていないことに由来しているのかもしれない。文学の研究は、人文学の一分野として十分に自立し得ているのだろうか。外からの検証にも耐えうるような固有の方法論を持ち得ているのだろうか。文学の研究にたずさわる者で、この種の疑問にとらわれたことのない者は極めて数少ないはずである。文学理論の古典的名著とされるノースロップ・フライ(Northrop Frye)『批評の解剖(Anatomy of Criticism)』の序言には次のような言葉が見える。拙訳をあげる。

  
 文学研究にたずさわる者は気づくだろう……文学研究が歴史学と哲学との間に挟まれた人文学の一分野であることに。文学それ自体は体系的な知の構造を持つものではない。そのために批評家(文学研究者)は、出来事に関する歴史家の概念枠、思想に関する哲学者の概念枠に頼らなければならないのである。
 

 ここでのフライの指摘をわたしなりに言い換えれば、文学研究は歴史学や哲学の研究方法に依存した存在に甘んじており、自立した研究分野とはなりえていないということである。こうした事態は、文学研究という学問領域が歴史学や哲学に遅れて成立したことを考えるなら、ある程度やむをえないことであり、文学研究が当初から負うことを強いられた宿命と言うしかないのだろう。人文諸学の学科編成において、文学研究がひとつの領域として制度化されたのは近代に至ってからであるが、その当初から文学研究者たちは次のように問いつづけることを運命づけられてきたのであった。歴史学や哲学から自立した、文学研究に固有の方法としてどのような方法が可能であるのか、と。

*    *    *

 フライは文学研究を挟撃するふたつの学問領域として歴史学と哲学をあげていた。ここでは哲学については問わないことにしよう。ここで問題にしたいのは歴史学である。文学と歴史、文学研究と歴史研究、両者の関係の密接さは言うまでもない。歴史との関係をいっさい絶った文学作品というものが仮にありうるとしても、それはわたしたちの想像を絶している。その意味では、歴史学の概念枠をまったく参照することのない文学研究は不可能と言っても過言ではないだろう。実際、フライが指摘するようにこれまで多くの文学研究は歴史学の概念枠に依存する形で行われてきた。歴史および歴史学的概念枠を重視する態度、それは一般的に歴史主義(historicism)と呼ばれる。この歴史主義の問題は、近現代の文学理論・批評においても主要な論点でありつづけた。近代以降の文学理論の歴史は、歴史主義に対する離反と接近とがさまざまに交錯するプロセスとして概括することすらできそうなほどに。

 では、文学研究における歴史主義とはどのようなものだろうか。簡単な概括を許すものではないが、わたしなりに言うと次のようになる。文学作品というテクストをとりまく諸々のコンテクスト(歴史的コンテクスト)を重視し、それを参照する形で文学作品を考察しようとすること、すなわちcontextualization(historical contextualization)を中核に有する方法・態度である、と。ここで言うコンテクストとは、背景(background)と言い換えてもいいだろう。文学作品のコンテクスト=背景は、さまざまな要素・情報によって構成される。例えば、文学作品を生み出した作者とそれに関わる各種情報、作者が生き、作品が生み出された現実の時代状況とそれに関わる各種情報、等々がその主要なものとしてあげられる。有り体に言えば、作者と作者が生きた時代背景を議論の根幹に据えた研究方法、それが文学研究における歴史主義である。作者の伝記研究、作品が生み出された背景に関する研究、あるいはそれらを踏まえての作品研究、特に作品にあらわれた作者の表現意図に関する研究――こうした研究が、これまでの文学研究のいわばオーソドックスな姿であった。それは近代以降の中国古典詩に関する研究においても同様であり、歴史主義的な研究は今日もなお盛んに行われている。

 ところが周知のように、二十世紀半ば以降、歴史主義的文学研究はさまざまな文学理論によって批判の集中砲火を浴びるようになる。(これもやはり、歴史主義がオーソドックスで支配的な地位を占めていたからこそであろうが。)歴史主義的文学研究に対する最も大きな批判が、いわゆるニュークリティシズムの動きであったことはよく知られていよう。ニュークリティシズムが唱えた研究方法のエッセンスを一言で言えば、文学作品を作者や時代背景から切り離し、作品それ自体を研究対象としようとするものである。ニュークリティシズムの動きをリードする役割を負ったW・K・ウィムサットとM・C・ビアズリーの論文は「意図の誤謬(The Intentional Fallacy)」と題されるものであったが、この標題には同理論の歴史主義に対する基本姿勢、すなわち作者と作者が生きた時代状況にもとづいて作品の本来の表現意図(intention)を確定しようとする歴史主義に対する批判的姿勢が端的にあらわれている。ニュークリティシズム以後、構造主義をはじめさまざまな文学理論が提出されてゆくわけだが、反-歴史主義的な考え方はそれらに一貫して共有されるものであったと言っていいだろう。例えば「作者の死」(R・バルト)という命題なども、その中で広く受け入れられていったのであった。

*    *    *

 以上、門外漢ゆえの覚束ない手つきながらも近年の欧米における文学理論の動向を概観したのは、近年の日本における中国古典詩研究もまた、そうした動きと無縁のものではないことを言いたかったからにほかならない。欧米で起こった文学理論の動きは、確実に日本の中国古典詩研究者たちの研究方法に影響を及ぼしている。(もちろん、これはことさらに寿ぐべきことではないが、かといって貶すべきことでもない。まったく影響を受けない研究があったとしたら、むしろそのほうがおかしいのではないだろうか。)欧米の理論を参照したことを前面に掲げた論著は極めて数少ないけれども。(もちろん、ことさらに掲げる必要はまったくない。自分なりの問題意識に従って十分に咀嚼し、自分なりの言葉と方法で語ればそれでいいのだから。)例えば、上述の「意図の誤謬」や「作者の死」といった命題に示された考え方を、それに従うかどうかは別にして、いっさい無視したところで行われた研究はほとんど存在しないと言ってもいいだろう。一見する限りでは、歴史主義の枠組みに依拠して、伝統的な作者論や背景論に終始するかに見える研究はあるかもしれない。しかし、そうした研究にしても、無自覚なままにそうしているわけでは決してないだろう。

 そうしたなか、近年の中国古典詩研究には、作者論の枠組みを取り払おうとする傾向が顕著に見られるようになる。あるひとりの作者を取りあげて、作者の経歴や作者が生きた時代状況などと関連づけながら、その作者が書きのこした作品を考察する――この種の研究は以前に比べればずいぶんと少なくなった。それに代わって数を増したのは、例えば複数の作者の作品、異なる時代の作品を横断する形で文学言語の特性、すなわち作品の「書かれ方」を考察する研究である。最近刊行された著作からひとつをあげれば、川合康三『中国のアルバ−系譜の詩学』(汲古書院、二〇〇三年刊)は、そのすぐれて刺激的な成果の代表的なものである。例えば本書の標題にも採られた論考「中国のアルバ」は、『詩経』から唐詩に至るまでの作品を幅広く取りあげて、中国の詩にあらわれた「アルバ」の主題系を論じている。このように、ある特定の主題、モチーフ、イメージを取りあげ、その「系譜」をさぐることで中国の詩の特質を考察しようとしたのが本書の立場であるが、それは同時に素朴な歴史主義に陥る危険を回避するための方法であると言ってもいい。歴史主義を回避するために、そこでは作者論が回避されている。

 このほかにも、近年の注目すべき新たな傾向として、文学作品の読解・解釈や流通・伝承、すなわち作品の「書かれ方」ではなく「読まれ方」に焦点をあてた受容論・読者論研究をあげることができる。この種の研究も、伝統的な作者論を回避する形でなされたものと言っていいだろう。こうした研究方法は、日本の中国古典詩研究にはまださほど多くは見られないが、近年の中国での隆盛はブームと言ってもいいほどである。(ちなみに、アメリカの中国文学研究にも目立って増えてきている。)わたしの知る限りでも、「接受研究」と題した包括的な研究書が数種刊行され、個別の作者に関する「接受研究」も盛んである。このほかにも「研究史」(すなわち文学作品がどのように研究されてきたかの歴史)の研究も目立っている。こうした研究方法を採る場合、作品の受容・読解の歴史を単純に羅列するだけの研究に陥ってしまうことは避けなければならない。「作者」が「読者」に代わっただけのことで、かつての素朴な歴史主義と何ら変わるところのない研究になってしまうからである。それさえ回避できるならば、この研究方法は大きな可能性を秘めていると言えよう。

 いま述べた受容論・読者論研究に関連して、S・オーウェン(Stephen Owen)教授の論文 「無用の文学史(A Useless Literary History)」(英文稿は未発表。「瓠落的文学史」と題する中国語訳が『中国学術』2000年総第3期に掲載されている)に見える次の言葉を参照しておきたい。

  
 文学作品はジャンルの歴史の中に位置づけられるだけではなく、それが属す「言説の共同体(discursive community)」の中にも位置づけられるものである。わたしがここで言う「言説の共同体」とは、ある時代における作品の読解、聴取、制作、再生産、改変、そして伝承の総体を指している。
 

 文学作品を、それが属するディスコースのシステム全体の中に位置づけて考察すること。「ディスコースのコミュニティ」と言うとき、そこに含まれるのは文学のディスコースだけではないだろう。歴史や哲学など、あらゆるジャンルのディスコースが含まれるはずである。これはオーウェン氏の現時点での受容論・読者論研究に関する方法論的マニフェストとも言うべきものであるが、ここに語られた文学研究の姿はわたし自身が考える理想的な研究のイメージにも近い。おそらく今後、こうした考察の手続きは中国古典詩研究において不可欠のものとなってゆくだろう。もっとも、これは決して目新しいものではなく、すぐれた研究にはすでに多かれ少なかれそうした方法意識が宿っているはずなのであるが。

*    *    *

 歴史主義をめぐる方法論的反省の上に立ってなされた近年の中国古典詩研究の成果のひとつとして、ここで更に大上正美『阮籍・嵆康の文学』(創文社、二〇〇〇年刊)を取りあげてみたい。

 文学作品のモチーフやイメージの「系譜」を探る研究、文学作品の受容をめぐる研究は、いわば作者論の枠組みを回避する形でなされるものであった。それとは異なって、本書は作者論の枠組みを真正面から引き受けようとする。それだけに本書が負った困難は多大なものとならざるを得なかった。そもそも阮籍・嵆康を中心とする六朝期の文学者とその作品を論じた本書は、フライが言う歴史学と哲学に挟撃された文学研究という困難な場所に立つことをはじめから運命づけられている。阮籍・嵆康ら竹林の七賢については哲学・思想史の立場からの研究が数多くなされている。また、六朝政治史の立場からの研究の蓄積も膨大である。(これは阮籍・嵆康に限らず、六朝文学研究に常につきまとう宿命でもある。現存するテクストの「文」「史」「哲」の区分が後世ほど明確ではないためであろう。)哲学・思想研究と歴史研究との間にあって、いかにして文学研究独自の領域を確保するか、大上氏の研究はそのための方法論的な問いから出発している。「序に代えて」で大上氏は次のように言う。

  
 竹林の七賢に共通する褊激の生の文学性を確認した上で、それとは次元を異にした表現者としての位相を措定しなければ、両者(阮籍・嵆康)の思想も文学も深みをもっては見えてこない……その思想内容を問うことは勿論だが、それと同時に、それをどのように表現しているかということの中に思想を読みとってゆく。……表現次元での彼らの抱えこんだ現実と思想の構造を分析すること、その場合、個々の作品の方法と文体とが阮籍と嵆康の自由の内実にほかならない、とする研究の立場をとること、それが筆者の立場と方法、そして課題である。
 

 敢えて図式化すれば「現実」の「生」の視点からの研究は歴史学の領域に、「思想」の「内容」の視点からの研究は哲学・思想研究の領域に対応する。それらに対して、ここで大上氏は「表現」の分析を対置させることで、文学研究独自の領域を確保しようとしている。「現実」の「生」(historical background)を通して、阮籍・嵆康の作品にあらわれた「思想内容」=表現意図(intention)を分析すること――それはこれまで本稿に述べてきた歴史主義にほかならないが、大上氏はそれに対して距離を置くのである。では、この方法論的反省の上に立って、大上氏は阮籍・嵆康の作品の「表現」を、どこまで分析し得たのか。それについて十分に評価する能力を持ち合わせていないので、いまは残念ながら具体的な論評は差し控えざるを得ないが、歴史主義に対して真正面から真摯な格闘を挑んでいるという点において、『阮籍・嵆康の文学』の立場には深く共感できる。

 ただ、わたしなりに本書に対して感じるささやかな疑問を提示するとすれば、次のようなものとなる。「現実」とは「次元を異にする」「表現」へと文学研究の対象を限定すること――本来それは息苦しい桎梏(例えば歴史主義)から文学を解放することをめざすがゆえの選択であったはずである。上に引用した大上氏の言葉の中に「自由」という語が用いられていることに注目しよう。ところが本書の場合、「表現の位相」へと文学研究の対象を限定しようとするあまり、別の桎梏=「不自由」のなかへと文学を追いこんでしまっているかのように感じられるのだ。本書の「あとがき」には「私の書くものは文学を狭いところに追いこんでおり……」と書き記されている。大上氏はいまわたしが述べたような疑問は重々承知の上で、敢えて本書のような方法を採ったのに違いないのだが。

 それにしても、大上氏の方法が「文学を狭いところに追いこんで」しまうのはなぜだろうか。第一には、作者論の枠組みを回避することなく、真正面から引き受けてしまったからである。(そのことの善し悪しを言うのは無意味である。回避すればいいというものではないのだから。)だが、それだけではないだろう。思うにおそらくそれは、「表現」=「文学」と「現実」とを「次元を異にする」ものとして区別することに急でありすぎたからだろう。更に言えば、区別しようとしたことによって、知らず知らずのうちに「表現」=「文学」を聖域視してしまっているからだろう。「聖」なるものは必然的に桎梏のヒエラルキーを発動させてしまうものなのではないだろうか。

 文学研究において「表現」と「現実」との区別に無自覚であるならば、それは素朴で古典的な歴史主義へと陥ってしまう危険がある。その一方で、両者の区別に急であることは、また別の危険を招きかねない。いったい文学研究にとって、「表現」と「現実」とを区別することは可能なのだろうか。可能だとすれば、それはどのように行われるべきなのか。ここでふたたび、覚束ない手つきを承知の上で、欧米の文学理論の動きを簡単にふり返ってみることにしよう。

*    *    *

 二十世紀の文学理論・批評において、歴史主義をめぐる問題が解決すべき主要課題のひとつであったことを先に述べた。当然のことながら、それぞれの理論によって関わり方に違いはあるけれども。そのなかで、八十年代に起こったいわゆる新歴史主義(new-historicism)の動きは、文学研究における歴史の問題、文学研究と歴史研究との関係を真正面から中心的な課題として論じるものであった点で大いに注目される。

 新歴史主義とはどのような理論・方法なのか。一言で言えば、かつての反-歴史主義的な文学理論、例えばニュークリティシズムや構造主義といったフォルマリズム(formalism)の立場からは十分に注意されてこなかった歴史や社会といった問題を、ふたたび文学研究の場へと召喚する動きである。ここにおいて文学作品は、ふたたび歴史的・社会的なコンテクストの中に位置づけて再検討されることになったのである。だが、その内実は伝統的・古典的な歴史主義とは大きく異なっている。まず、歴史に対する見方が異なる。新歴史主義において歴史は客観的で確固とした事実として扱われるのではない。歴史もまた文学と同様、語り手によって再編された物語の言説(ディスコース)として扱われる。つまり、文学も歴史も同じ資格において論じられるのである。当然ここでは、伝統的な歴史主義のように、歴史決定論・反映論の立場から文学が裁断されることはない。

 新歴史主義の文学研究には、ジャンル横断的な傾向が顕著に見てとれる。そこでは文学作品だけではなく、多種多様なテクスト(ディスコース)が縦横に取りあげられる。文学作品はもはや他のテクストと区別される特別な対象ではなくなっているのである。文学あるいは文学研究という枠組みそれ自体が相対化されていると言ってもいいかもしれない。新歴史主義の動きを主導する役割を担ったS・グリーンブラッドに「文化の詩学に向けて(Towards a Poetics of Culture)」と題する論文がある。この標題にも端的にあらわれているように、新歴史主義は「文学研究から文化研究へ」という近年の文学研究をとりまく大きな流れの中に位置している。つまり、文学研究の枠組みを超えた一般的批評理論としての性格も持っているのである。新歴史主義に大きな影響を与えたのが、M・フーコーの「知の考古学(系譜学)」という考え方であったことを、ここで付け加えておいてもいいだろう。

 わたしにとって、新歴史主義の研究方法が興味深く感じられるのは、文学作品が特別な対象として聖域視されていないという点にある。では、このことを踏まえて、先に大上正美『阮籍・嵆康の文学』についてふれた際に提出した次のような問いについて考えてみよう。文学研究にとって、「表現」と「現実」とを区別することは可能なのか。可能だとすれば、それはどのように行われるべきなのか――この問いに対して、現時点では回答らしい回答を示すことはできないが、ただ次の点だけは言っておきたい。

 「現実」から「表現」を区別する二元論の基底には、思うに次のような見方が存在しているのではないだろうか。「現実」は確固とした実体を備えた世界であるのに対し、「表現」は言葉に関わる一種の虚構の世界である。「現実」は人を束縛する不自由な世界であるのに対し、「表現」は人を解放する自由な世界である。「現実」は権力を持つ優位の存在であるのに対し、「表現」は権力を持たない劣位の存在である、等々といった考え方が。そこにはまた、「現実」=悪、「表現」=善という価値判断も前提として入りこんでいるだろう。そして、「表現」と「現実」という二元論に立つとき、わたしたちは暗黙のうちに、後者による前者に対する統制・抑圧、あるいは前者による後者に対する抵抗・叛乱という物語図式を発動させてしまっているのではないだろうか。例えば「詩的言語の革命」(J・クリステヴァ)などという言い方も、そうした図式の中に収められるものなのかもしれない。

 かつて例えば「文学の政治からの自立」という命題が広く語られたことがあるが、これなどもいま述べたような物語図式の変形と言える。「政治」という権力に対する「文学」の自立の闘争。闘争とまでは言わないとしても、「文学」は「政治」の原理から独立した自律的存在であるべきである、等々。わたし自身も、かつてはこれらの命題を肯定的に受けとめていた。だが、じつはわたしたちが「現実」だと思うものもまた一種の「表現」だとしたらどうか。また、「現実」の権力だと思うものがじつは「表現」によって作りだされたものだとしたらどうだろうか。「表現」と「現実」との区別は一種のフィクションにすぎず、その二元論を前提に据えた議論はあまり意味をなさないものである可能性がある。このことを一度は疑ってみる必要があるのかもしれない。

*    *    *

 ポスト構造主義の文学理論・批評、そしてそれらに影響を与えたJ・デリダやM・フーコーらの思考に共通して見て取れるのは、これまでわたしたち文学研究者自身が暗黙のうちに前提として依拠してきた近代的な知の枠組みをことごとく疑おうとする姿勢である。上に述べた「文学」と「現実」の二元論もまた、当然そこでは疑うべきものとして再検討されなければならない。近代的な知の枠組みに対する懐疑の姿勢は、今日の中国古典詩研究においてどのようにあらわれているだろうか。ここでは「文学史」の再検討ということを例にあげて簡単に見ておきたい。

 ハーバードに来て、数人の先生から異口同音に聴かされた言葉がある。May Fourth scholarshipという言葉である。近代中国のはじまりを告げる社会変革である「五・四」運動(May Fourth movement)、その「新文化」運動を支えた知の枠組み、あるいはそれを継承する知の枠組みを指して言う。その知的枠組みは今日に至るまで根強く受け継がれている。この言葉をどのような文脈で聴かされたのかと言えば、それぞれの授業の冒頭、これまでの研究史をふり返る文脈の中においてであった。例えば、W・イデマ教授は「話本小説」の研究史をふり返るなか、「五・四」時期の知識人(May Fourth scholars)が作りあげた「民衆の文学」というイデオロギーによって「話本小説」の実態が歪曲されていったことを指摘していた。言うまでもないが、ここには「民衆の文学」という文学史の枠組みは近代のイデオロギーによって作りだされた虚構にすぎないとの批判的疑念が示されている。

 同様の疑念を共有した研究論文として、S・オーウェン「過去の終結−民国初期における文学史の書き換え(The End of the Past : Rewriting Chinese Literary History in the Early Republic)」を取りあげてみたい。これは『文化資本の専有−中国「五・四」運動の企て』(Milena Doleželová and Oldřich Král, editors with Graham Sanders, assistant editor ed. The Appropriation of Cultural Capital : China’s May Fourth Project , Harvard University Press 2001)と題する論文集に収められる。同題の共同研究の一部をなすものである。「文化資本の専有」――この標題は本論集の方向性を端的にあらわしている。「文化資本」(P・ブルデューの社会学にもとづく言葉)とは、具体的には中国前近代(じつはこの前近代という言い方も本論集の問題意識に立つならば注意して用いなければならないのだが)の文学作品をはじめとする各種文化遺産を指している。その前近代の「文化資本」を「五・四」の知識人たちはどのようにして自らのものとして「専有」していったか。換言すれば、どのような「前近代中国」を「専有」することによって「近代中国」は成立したか――それをテーマとした八名の論文八篇と編者の序論とからなる。

 文学遺産を「専有」するために、「五・四」知識人たちはいったい何を「企て」たのか。オーウェン氏の論文の副題「文学史の書き換え」は、それへの端的な回答となっている。つまり、彼らは「文学史」を「書き換え」たのである。「文学史の書き換え」と言っても、明白な事実の歪曲が行われたわけではもちろんない。過去の文学作品に対する評価軸が改められたのである。つまり、それまで高くは評価されてこなかった文学作品に、新たに高い評価が与えられてゆく。こうして過去の文学作品の中から、「五・四」知識人たちの考える理想的な文学像にあてはまる文学作品が、近代へと継承されるべき新しい文学のカノン(聖典)として掬いあげられていったのである。オーウェン氏があげる具体例のうちひとつをあげれば、鮑照の楽府「擬行路難」はその典型である。前近代にあっては必ずしも高くは評価されなかった鮑照の「擬行路難」は、胡適などに代表される「五・四」知識人の「俗」を重視する文学イデオロギーを経由することで、六朝文学の最高傑作のひとつとされていった。(この評価はいまも受け継がれていよう。)「五・四」の知識人たちによる「文学史の書き換え」とは、彼らが依拠する近代的文学観にかしずいてくれる文学を過去から掬いあげることを通して、彼ら自身を過去の文学の正当な「遺産相続者」(P・ブルデュー)=「文化資本の専有者」に仕立て上げることをめざす「企て」であった――オーウェン氏の論文の要点をわたしなりに言い換えるとこのようになる。

 わたしたちはややもすると、忘れてしまいがちである。オーウェン氏らが述べるような「文化資本の専有」の「企て」がかつて中国において行われたということ、わたしたちの眼前にある中国の「文学遺産」(新中国を代表する古典文学研究誌の名前でもある)の多くはその「企て」によって「専有」されたものであるということを。現在行われている「中国文学史」理解が近代的イデオロギーの産物にすぎないことを常に銘記しておくこと、言い換えれば近代への懐疑の視点を持ちつづける必要があるだろう。更に付け加えて言えば、「文化資本の専有」の「企て」が行われたのは、「五・四」時期に限ったことではない。古くから、その「企て」は絶えず繰り返されてきた。そして、それはいまも絶え間なく行われている。文学史、すなわち歴史とは、そうした「企て」の積み重なりにほかならないということ。そのことを忘れた上でなされる中国「古典」詩の研究は、ナイーブなアナクロニズムを免れないだろう。

 なお、『文化資本の専有−中国「五・四」運動の企て』とほぼ時を同じくして、同じく「中国文学史」の再検討をめざした論文集が日本でも刊行された。川合康三編『中国の文学史観』(創文社、二〇〇二年刊)である。わたし自身も加わっているので少し手前みそになるが。本書の「あとがき」で編者の川合氏は、この論文集の基礎となった共同研究が「近代への懐疑」から出発するものであった旨を書き添えている。本書全体を通してその視点がどれほど明確になったかと言えば疑問もないわけではないが、近代的な知の枠組みを再検討しようとする姿勢が、国境を越えて広く共有されていることを示す例として記しておきたい。

*    *    *

 以上、「理論」に拘泥しすぎたかもしれない。わたし自身の率直な思いを述べるならば、文学に関して理論を云々することに対して懐疑的でないわけではない。「マルクスはマルクス主義者ではない」という言い方があるが、理論が理論として語られる瞬間から、それは本来の可能性を失ってゆくものだろう。理論は具体的な批評的実践に先だって存在すべきものではない。既成の理論の単純な適用からなる文学研究があるとしたら、それは退屈極まりないものであることはまちがいない。だが、そうであるにも関わらず、文学研究に関わる者として文学理論は気になる。そして思うのだが、文学理論が気になるのは、文学研究に関わる者に限ったことではないのではないか。

 先に文学研究が理論を求めているという主旨のことを述べたが、おそらく他の人文学分野もまた「文学理論」を求めているのである。Literary Theory / Literary Criticismの棚が設けられて、そこに多くの書物が並べられている――冒頭で触れたアメリカの書店の光景は、そのあらわれでもあるだろう。アメリカにおけるLiterary Theory / Literary Criticismは、人文学のあらゆる分野がそろって関心を寄せる、いわば総記(General)の位置づけになっていると言えるかもしれない。そのことを示す事例のひとつとして、現在わたしが聴講しているP・ボル教授の「宋代思想史」のセミナーでの一齣にふれておきたい。このセミナーの冒頭、ボル教授は「思想史(intellectual history)」とはどのような歴史研究の方法であるかという理論的な問いを発するなか、ポストモダニズムの文学理論にも言及した。そのとき配布された参考図書リストの中には、Literary Theory / Literary Criticismの棚で見かける著者の名前も数多く含まれていたのである。

 文学以外の他分野が文学理論を求めるのはなぜか。もし文学理論が、文学固有の領域を確保するためだけに存在しているとすれば、それは他の分野にとって求めるには値しないだろう。文学を他から区別して「専有」するのではなく、他へと向けてさまざまに開いてゆくこと。そのために文学研究には理論、言い換えれば方法論的な模索が必要なのだ。今日の文学理論はそういう役割を負っているように思われる。


【附記】オポッサム(opossum)について。三月末のまだ寒さがのこる季節、本稿を書いている最中に奇妙な動物を見かけた。家の裏口のテラスに妻が食べ残しのパンを置いておくので、リスがよくやってくる。ところがある晩、リスとは明らかに違う動物が二匹、パンを食べている。体長は60〜70cm、ベージュ色の毛が生えている。最初は犬かと思ったが、よく見るとネズミに近い。特に尾の形状はネズミそのものである。30cmくらいあって、洗い立てのゴボウかニンジンのような質感である。息子に言わせると「あれは木の枝だよ」。ただ、顔はアルマジロのように面長である。電灯をつけても逃げようとはしなかったが、ドアを開けるとやっとこちらの存在に気づいたのか、ヨロヨロと逃げていった。全体に、薄ら寒い印象を与える不気味な動物だった。後で土地の人に訊ねると「オポッサム」または「ポッサム」だという。そう頻繁に見かけるものでもないらしい。人に大きな害をなすことはないが、uglyだとして嫌われている。研究社『新英和中辞典』の説明を引いておこう。《北米および南米産の有袋類:危険にあうと仮死状態になり「死んだふり」をする》。有袋類とはまた珍しい。「死んだふり」をするというのも気に入った。opossumという音の響きもいい。ちなみにplay possumと言うと、死んだふりをする、とぼけるという意味になるらしい。「仮死状態」にあるようないまの自分の薄ら寒い姿にふさわしいので、本稿の副題として使わせていただくことにした。


浅見洋二(あさみようじ) 大阪大学大学院文学研究科助教授