04/03/23
 アジア研究の一隅―流通勉強会に集う
 
岩ア 葉子

 1998年の夏に、私は自分の勤めるアジア経済研究所で有志を募ってインフォーマルな勉強会を始めた。その名も「流通勉強会」といい、現在も続いている。

 もともとは流通業者(あるいは商人)の存在意義や、商業上の取引制度をミクロ経済理論で説明する理論書の読書会として発足した。経済学の世界では、需要と供給の本源的バランスにもとづいた資源配分にことの本質があるという見方が基本であったため、「商業」や「流通」の世界は長いこと議論の埒外に置かれてきた。取引相手の探索や交渉、契約、輸送など日常生活で私たちが必ず直面する諸問題は、新古典派的な市場観では競争的な市場を浸食するイレギュラーなファクターであったのだ。しかし、そうしたワルラス的経済学の理論上の形式化が現実社会からあまりにも乖離し始めたことに対する批判のなかから、「市場とは何か」「交換とは何か」「合理性とは何か」といった問いとともに、経済制度や経済慣行の意義について見直す動きが現れ、これまで実際上の機能に比してあまりにも小さな関心しか集めてこなかった「流通」の分野にも、しだいに光が当たるようになったのである。

 もっともこれほど大上段に構えずとも、地域研究を志す研究者にとってはこうした制度や慣行が実際の社会を構成するきわめて重要なファクターであることはほとんど自明のことである。わが流通勉強会も、さまざまな切り口でアジアやアフリカの各国を研究する研究者が寄り集まり、それぞれの調査経験の中で培った確信や勘を頼りに、こうした問題を考えていこうとする場である。

 この勉強会が途中何度もメンバーの入れ替わりや数ヶ月の休会をはさみつつ、6年もの間存続し得ているのは、ひとつには「流通」というテーマがあらゆる地域研究者にとってたいへん身近で、かつ地域象徴的な研究素材を提供しているという点にある。人間社会にこれほど普遍的で、また取っつきやすい経済現象もない。しかしまたひとつには、「流通」というテーマの包含するトピックの多様性が、ともすれば接点を得ることなく過ごしがちな異なる地域・ディシプリンの研究者をお互いに吸い寄せて、未知の論点を引き出し得る可能性を秘めているためでもある。

 これまでにこの勉強会で取り上げたテキストは、ミクロ経済の理論書から農業経済の古典、日本近世史の論文、宅配便会社の創始者の自伝などじつにさまざまで、どちらかと言えば乱読である。参加者が自分の問題関心について報告したこともあるし、そろって市場見学に出かけたこともある。要するに「流通」だの「市場」だのに関係があり、かつ参加者が興味をそそられるものであれば何でもござれ、という方式で続けてきたのである。

 さて私自身はイランを調査のフィールドとし、10年ほどかけて主として繊維製品の流通経路にみられる取引慣行や仲介業者の機能などについて研究してきた。その傍ら、現地の市場やいろいろな商業施設などを見て歩き、流通勉強会で見聞した日本や諸外国の事例と見比べたりしながら私のイラン流通に対する理解の助けとしてきたのである。

 そんな中で最近ちょっと印象に残る出来事があった。『現代の中東』第34号(2003年1月アジア経済研究所刊)に載せた「イランにおける書籍流通に関する一考察」という拙稿に思いがけない反響があったのである。これはイランにおける書籍の再販制について書いたものであった。私は流通勉強会を続けている間に、商品の再販制(正確には「再販売価格維持制度」といい、ある商品の供給者が、その商品の取引先である事業者に対して、その次の取引先に販売する価格を指示して、これを遵守させることを指す。)が、流通問題を取り扱うミクロ経済学の議論における一大トピックであることを学んだ。一方日本では、再販制といえばまず書籍、というほどそれは本という商品に特有の流通問題となっていた。かつての日本では、独占禁止法の適用除外をうけた実に多くの商品に対して再販制が実施されていたが、現在では書籍を除いてほぼ完廃された。その後、残る書籍再販制の政策的な是非をめぐって、維持派と撤廃派との間で激しい論戦が展開されていた。

 私は、ミクロ理論上の再販制にも、日本での書籍再販制問題にも関心があったので、短期のフィールド調査を行ってイランの書籍流通で再販制度がどのように機能しているかを覗いてみた。調査そのものははなはだ不十分で、お世辞にも出来の良い論考とは言えなかったが、前段部分に、経済学上の議論と日本における書籍再販問題の議論とを私なりに整理して載せた。また、最後にイランでの書籍再販の実態についてのちょっとした考察を述べ、書籍という商品が歴史的にみて何故再販制に馴染みやすかったのかという点についての稚拙なコメントも付け加えておいた。

 これは自分が流通勉強会で仲間の助けを借りながら勉強した理論と、自分のフィールドを結びつけてみようという気軽な好奇心から書いたものだったが、ある日、私の手元に感想文が届けられた。送ってくださったのは、私自身は面識のない方だったが、かつて某大学出版会の経営者を勤められた出版界の重鎮と伺った。その方は、日本の書籍再販制問題で長いこと「維持派」として論陣を張られた方であったようだ。「・・・・(再販制問題について)経済学の立場を解説してくださって有難く思いました。日本の再販制論議といえば、不十分な政策論的主張ばかりで、学問的検証がないことを多年嘆いて参りましたが、この論文はそうした状況の中で大変輝いて見えます。とくにまたイランという具体的事例にもとづき実態調査の結果をふまえているので一層説得力を増しています・・・」という、身に余るお褒めの言葉に恐縮した。私は日本の書籍再販制についての是非を論じたのではなかったのだが、この方はむしろ、非当事者が純粋に学問的関心から書籍再販制を取り上げたことを評価してくださったのである。

 常日頃、イランという地域に興味のない人にとっても読みごたえのあるものを書きたいという希望を持っているわたしにとって、中東研究者以外の読者からのこのような反響は嬉しいものであった。もちろんこれは私個人の努力の結果ではなく流通勉強会で仲間とともにこつこつと勉強してきたおかげであることは疑いがない。私が一人きりでイランと向き合っていても、手にすることのできる果実はいくばくもないと思う。イランという現実のフィールドと格闘しつつも、つねにそれを相対化し普遍化できるのは、まわりに多くの他地域・他分野の研究者がいるからであった。

 ちなみにわが流通勉強会に参加する研究者の対象地域は、カザフスタン、ミャンマー、カンボジア、タイ、中国、台湾、エチオピア、インド、イランなどである。それぞれが異なるアプローチを用いてこれらの地域を研究している。中央アジアの移行経済圏で農産物流通を担う新しい形態の企業の生成を研究する人もいれば、東南アジアで農産物流通自由化後の商品作物の普及実態を追いかける人もいる。それぞれが最も関心を寄せるトピックも、金融、知的所有権、商業集積とさまざまだ。こういう、ばらばらな関心の持ち主が流通勉強会ではひとつのテキストを前に、ああでもないこうでもないと議論する。

 先頃この勉強会に外部の大学の方が新たなメンバーとして加わった。東南アジアの流通研究をされている精鋭であるが、周りに同じような関心を持つ研究者を見つけられずに孤独な?月日を過ごされたという。わが勉強会の存在を人づてに知り参加したいと申し出られたのだ。これまでは所内のインフォーマルな勉強会であるという気楽さゆえに運営はかなりルーズであったが、外部の参加者も得て、やや気持ちが引き締まった。海外へ赴任する参加者が退会したり新入職員が入会したり、出入りの多い勉強会であるが、今後もアジア各地の生の情報と理論とを融合させてあらたな地平を開くべく頑張りたいと思っている。


岩ア 葉子(いわさきようこ) アジア経済研究所 地域研究センター


追記(2004年7月6日)

 7月1日にアジア経済研究所から拙著『テヘラン商売往来―イラン商人の世界』が刊行された。10年間にわたるイランでのフィールド・ワークをまとめたもので、論文には書けなかったイラン商人にまつわるこぼれ話を一般向けに書き下ろした。

 イランと言うと石油、イスラム原理主義、戦争といった何やら物騒なイメージがつきまとう。日本ではイランの政治や宗教を主題とする本が刊行されることが多いが、本書はそれらとまったく趣を異にする。登場するのは市井のイラン商人や中小企業の経営者たちだ。革命後の対米関係の悪化やイラン・イラク戦争、為替の暴落、政府の外貨規制などの逆境を、彼らがあの手この手で切り抜ける様子を描いた。登場人物たちの一人称の語りを数多く挿入したが、すべて彼らがインタビューでみずから語った肉声である。客あしらいや、義理人情など、商売の極意を彼ら自身の言葉で語ってもらった。

 これまでのステレオタイプなイランのイメージを払拭し、読後にはイランがこれまでよりもずっと身近に感じていただけるように努めた。興味のある方はぜひご一読ください。

http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Books/Mirume/106.html