04/03/18
 博物館コレクションをコレクションする
 
−モノ研究からみたメコン河流域地域収集の民族資料の可能性−
 
田口 理恵

1.モノは面白い

 われわれはモノに囲まれて生活を送っている。異国に赴けば、日常空間を占めるモノの量や構成の違いとともに、衣食住に関わる生理的な欲求をなじみのない道具で対応する際に感じる戸惑いから、異なる文化にいることを実感する。モノは自文化での日常でも、調査フィールドでも、きわめて卑近な存在なのだが、人類学のなかで「物質文化研究をやっています」というと、なんだかとても古臭いことをやっている輩だと思われることが多かった。従来の物質文化研究が、人類史のなかの文化史解明という関心をもとに展開してきたことにもよる。人類学内の関心事が、社会組織構造から価値体系へと移り変わるにつれて、モノから文化文明を語ることは、時代遅れのテーマになってしまった。しかも、文化史を跡付けるために取り上げられたモノも少なく、モノそのものを扱う方法と可能性については、それほど深く考えられてはこなかったともいえる。

 近年、モノを扱う意義から考え直し、従来の物質文化研究の研究蓄積を踏まえつつも、モノの研究として新たに再編しようとする動きがでてきた。その研究動向をモノ研究と呼べば、モノ研究は、ある一定の時間・空間に存在するモノの実在性と、容易に居場所を変えてゆく移動性もしくは越境性という、モノの特性を自覚し前提とすることを出発点とする。あるモノが移動すれば、そのモノが置かれたモノの群れの構成から配置、モノの連鎖のあり方まで変わってくる。個別のモノは、ひとつのまとまりをもったモノの群れの部分でもあり、その全体を代表するモノとしても捉えることができる。部分と全体をどのようにでも切り出せる変幻自在なモノの世界につきあい、モノから情報を引き出し、資料化させていくには、使い手による自覚的、無自覚的なモノの文脈化の意図を推量し、解釈していくことと同時に、調査者の側もさまざまな角度から意識的に「モノの世界」の対象化をおこない、モノの意味を引き出していく作業が必要になる。というよりも、こちら側の力量、言い換えれば、いかに枠組みを設定し、補助線を引きつつモノの情報を引き出し、組み立てていくかの、縦横な視点と構想力が問われることになるものと考えている。

 こうしたモノ研究の実践例を、総合地球環境学研究所・研究プロジェクト(4−2)「アジア・熱帯モンスーン地域における地域生態史の統合的研究1945−2005」(プロジェクトリーダー秋道智彌)における「モノと情報」班の試みを紹介する形で提示したい。

 さて、「アジア・熱帯モンスーン地域における地域生態史の統合的研究1945−2005」(以下では生態史プロジェクトと略称で呼ぶ)は、1945年から2005年の60年間の、東南アジア大陸部メコン河流域地域にみる人間集団と環境との相互作用の複合的な歴史を明らかにすることを目的とする。その目的に対し、1.資源管理(森林生態班)、2.生業複合(ズブズブ班)、3.栄養と健康(医学班)と、それぞれの軸に即して個々のフィールド調査が進められる。それぞれの軸ごとに、従来からの方法と視点による生物資源研究のデータ収集と解析成果を期待できるだろう。が、しかし、それら収集データと成果を相互に関連づけ連動させていくには何ができるのか。この課題に対して、物質文化や有形資料の分析が鍵になる重要な研究対象となるのではと考え、モノと情報班の活動が始まった。

2.メコン河流域地域収集の国内博物館資料

 生態史プロジェクトが調査対象とするメコン河流域地域(タイ、ラオス、雲南)における諸民族集団は、生態環境や生活文化に根ざした様々な道具・技術を生みだし利用してきた。同地域で収集された道具類の展示を見るだけでも、道具・技術の多様性の一端を窺い知ることができる。とはいうものの、展示資料は収蔵コレクションのほんの一部でしかない。現在、プロジェクト関連地域収集のモノがどれだけ国内博物館にあるのか、同地域の民族資料を有する国内博物館を調べていった。

 国立民族学博物館(以下では民博とする)には、タイ5093点、ラオス1103点と、雲南1017点もの標本資料がある。生態史プロジェクトの3つの研究軸によるフィールド調査が、ラオスをメインにして実施されることから、ラオス資料を中心に見ていけば、総数1103点と数えられるラオス資料も、収集地や現地名がわかるもの、そうでないもの(例えば、業者経由で購入、寄贈等々による)など、標本資料に付された情報には偏りがある。

 年度別の登録順をしめす番号で、【03-014】シリーズの530点、【02-026】シリーズの94点、【C50-174】シリーズの97点のみが、モノの収集地情報が使えそうなものとして残った。この3つのシリーズに属する資料は合計719点となる。

 3つのシリーズだが、【03-014】シリーズは平成3年(1991年)に標本登録されたものは1989年から2回計画で実施された収集調査の成果となる。ラオスが外国人解禁となった直後に行われた収集調査であり、常にモノは2対で集め、ワンセットを民博、ワンセットをラオス国立博物館に納めてきたという。

 【02-026】は平成2年登録のもので、現地エージェントがラオス各地から集めたコレクションを一括購入したものである。

 【C50-174】シリーズは昭和50年(1975年)登録の資料だが、実際は日本民族学会の前身である日本民族学協会時代に収集された資料となる。民博設置に伴い日本民族学協会附属博物館から文部省資料館に移管され、そこから民博に移管された経緯を持つ。このシリーズに属するラオス資料は、日本民族学協会によって1957〜58年に実施された第一次東南アジア稲作民族文化綜合調査団の成果に関連したものとなる。民博には稲作調査団の関係資料として、モノだけでなく写真資料も所蔵されていることがわかった。写真ネガ特別収蔵庫には日本民族学協会コレクションとして7661枚の写真が死蔵されており、そのうち第一次稲作調査団による写真は2535枚(撮影場所等が不明な写真を除くと、タイ786 枚、カンボジア786枚、ラオス955枚)となる。

 民博を凌ぐ点数を所蔵するのが奄美大島の原野農芸博物館で、タイ1176件、ラオス1125件(ベトナム406件、ビルマ168件)と、生業関係の道具類の豊富な資料を所蔵している。原野農芸博物館は1995年よりラオスでの収集調査をはじめ、1997年までの間に精力的な収集活動を展開してきた。1996年までは北部を中心に、1997年より南部へと収集対象地を広げている。

 さらに原野農芸博物館による収集調査旅行には、1996年から鹿児島県歴史資料センター黎明館の川野和明氏も合流している。川野和明氏は、1996年以降も、断続的にラオスでの調査収集活動を続け、今年度12〜1月実施のラオス調査は、川野氏にとって7回目の調査となる。1996年よりこれまで、ラオス北部を中心に中国国境付近、ベトナムと回り、実に600点以上におよぶ生業道具関係の資料を収集している。川野コレクションは黎明館収蔵庫に保管されているものの、あくまでも個人の収集コレクションである。

 天理参考館収蔵品で、1986年までに登録された東南アジア大陸部資料は全部で768点あり、ラオス資料は35点、タイ576点となる。特にラオス資料35点には、1958年登録の2点は岩田慶治氏から、1965年登録の8点および1968年登録の4点、1969年、1975年登録のモノは、名古屋大教会長森井敏晴氏寄贈となる。森井氏が、1970年1月から3ヶ月におよぶ天理教ラオス巡回医療隊(第一次)の派遣を橋渡し、同年9月にラオス王国宗教省より「布教許可」を得て実施された天理教ラオス伝道の推進者でもある。

 東京大学総合研究博物館には、故渡辺仁氏の研究業績でもある学術資料があり、そのうちラオス関係は、漁具実物3点のほか、スライド写真が293枚、フィールドノートや科研書類等の文書資料がある。渡辺仁ラオス調査資料は、1974年(昭和49年)12月から翌年1月にかけて実施された「ラオス国考古学調査」の関係資料となる。「ラオス国考古学調査」は、昭和51年度から先史考古学(発掘調査)と土俗考古学(生態調査)による本格的な調査を予定していたが、ラオスの政変により調査計画そのものを断念せざるをえなくなったという経緯をもつ。

 当然、以上の博物館コレクションをもって、国内にあるメコン河流域地域関連の民族資料の全てとすることはできないが、主要な博物館は押さえたかと思う。モノと情報班では、上記博物館の所蔵資料(主に、ラオス資料約2500点)を一まとまりのコレクションとして取り出し、研究対象として扱っている。そこには、熱帯モンスーン地域に特有の稲作農業や狩猟および淡水漁撈に不可欠な道具、食料の運搬・加工・保存のための道具、染色・織物関係の道具、鍛冶、アヘン製造、遊びや娯楽の道具、土着のアニミズムや上座部仏教の実践に関わる呪具・儀礼用具などが含まれる。これらの諸道具によって、多面的な日常の活動を窺い知ることができる。

 モノと情報班では、主に稲作農業や狩猟採集、淡水漁撈に不可欠な技術および、食料の運搬に関わるモノと技術に注目している。それらのモノの多くは、本来、生態環境に由来し、また人と自然環境の相互作用の具体的な場面・場面に介在するものと考えるからだ。それらのモノを詳細に観察することは、人と自然環境の相互作用について、具体的場面の痕跡を扱うことであり、人々の営為も生態環境も、双方の変化の動態を展望することにもなる。モノ研究と生物資源研究を統合化する可能性はきわめて大きいといわなければならない。

 生物資源研究における、生態人類学や民俗植(動)物学等の研究蓄積は、生物資源利用にみられる“土着の知識”の多様性を明らかにしてくれる。ただしそこでは生物資源の利用が有用性という観点から分析され、食用、薬用、衣料用、建築用、商品等々、大括りした用途が羅列される。改めて、道具を介して、有用性と表現される人と生物資源の関わりみると、もっと複雑な“土着の知識”が見えてくる。例えば、竹製品を作り上げていく一連の過程は、竹を伐採し、竹を割り、削り、編みあげる等々、その作業段階ごとに、素材のもついろいろな特性をうまく引き出し利用していくプロセスでもあるといえる。人の手で加工し、道具として使ってきた経験のなかには、素材・対象が有する複合的な特性に対する理解の蓄積がある。こうした経験的で身体的な知識へのこだわりゆえに、生物資源ではなく、モノ研究として “人工物artefact”を対象にするのだということを強調したい。

3.モノの履歴

 上記の博物館コレクションから集めたメコン河流域地域関連資料を構成するモノと技術には、それぞれに多様な履歴が内在している。モノに刻まれた多様な履歴には、モノが作られ使われてきた、個別ローカルな生活空間での人と自然環境の相互作用の痕跡という側面と、それらのモノが収集され博物館におさまるまでの背景・経緯という側面とがある。

 モノと情報班が扱う博物館コレクションのコレクションは、1950年代末、1970年代、1990年代に、それぞれの学問的関心や背景をもって実施された調査研究の成果であり遺産でもある。

 日本人によるメコン河流域地域でのエクスペディションとして、日本民族学協会による東南アジア稲作民族文化綜合調査(1957〜58年実施、国立民族学博物館所蔵)、ほぼ同時期に実施された大阪市立大学による学術調査、その後の上智大学西北タイ歴史・文化調査団(1969〜74年実施、南山大学人類学博物館所蔵)が挙げられる。

 特に、ラオスの場合、1975年の政変以降、1980年代末まで事実上の鎖国状態となり、政変直前に実施された故渡辺仁博士によるラオス調査(1974年実施、東京大学総合研究博物館所蔵)や、サトウキビ栽培農場と自動車修理工場建設を伴った天理教によるラオス伝道と巡回医療隊派遣(1970〜78年実施)にまつわる資料は、政変前後の状況を知る上で貴重な資料となる。さらにラオスへの外国人入国が解禁となった直後に国立民族学博物館によるラオス資料収集(1989〜90年)が実施されている。1990年代後半の、鹿児島県歴史資料センター黎明館の川野和明氏による収集調査および原野農芸博物館による収集活動が続く。

 ここに挙げた調査研究に関して言えば、モノだけに限らず、写真、動画、紀行文、研究論文からフィールドノートまで、さまざまな関連情報が残されている。1975〜1980年代末までの政変に伴う鎖国状態の期間をはさみ、その以前と以後、およびプロジェクト進行中の現在と、時期を大きく3つにわけた場合に、上記の学術調査が残したモノとその関連資料は、それぞれの時代状況を、われわれが想像し近接するための手がかりとすることができる。

 国内のメコン河流域地域関連資料は、プロジェクトのもとで実施されるフィールド調査のそれぞれの場所の現状を、時間的・空間的に関連づけ、同地域の生態史の動態を把握するための指標として活用できるだろう。

 モノの移動経緯が最も複雑な例が、民博の【C50-174】シリーズとなる。先に述べた通り同シリーズのモノは、日本民族学協会時代に収集された日本民族学協会附属博物館の収蔵資料だったが、それが民博設置に伴い、いったん文部省資料館に移管され、そこから民博に移管されたという経緯を持つ。さらに日本民族学振興会の解散とともに、日本民族学協会および振興会の事務局関係文書は、現物が常民研に移管され、デジタル版が日本民族学会事務局に保管されている。現在、日本民族学協会に関わる諸資料は、複数の研究機関に分散した形で保管されているが、移管を繰り返したことで、移管の経緯や権利関係が不透明となり、それぞれの所蔵先では扱いの難しい問題資料となっている。

 各博物館コレクションの収集に関わった人の側を見てみよう。東南アジア稲作民族文化綜合調査は、1954年に協会創設20周年を迎えた日本民族学協会が、その記念事業として企画されたものである。旅行記『メコン紀行:民族の源流をたずねて』(東南アジア稲作民族文化綜合調査団、読売新聞社、1959年)にもまとめられた、東南アジア稲作民族文化綜合調査の第一次調査団によるタイ、カンボジア、ラオス調査は、松本信弘を団長とし、農学から浜田秀男、長重九の参加も得て、言語学(浅井恵倫)、民族学(河部利夫、岩田慶治、綾部恒雄)、考古・歴史学(清水潤三、江坂輝弥)、技術文化(八幡一郎)の専門家が参加している。さらに讀賣新聞報道班と映画班が同行し、現地では和田格(医師)、石井米雄(外務省)などが参加している。また調査団東京事務局は、上智大学白鳥教授研究室に置かれていた。当時の民族学協会の協会役員だった渋沢敬三は、調査団の後援会会長にもなり、広く財界から寄付を募って同調査事業をサポートし、文部省からの補助金4,000,000円に加えて、寄付金13,668,240円(予定額?)の規模で実施された。

 稲作調査団が文部省の補助金と外貨割り当てを先に受けたこともあり、ほぼ同時期に計画された大阪市大学東南アジア学術調査隊は、「一日四ドル、百日分」の外貨割り当てしか得られなかった。同調査隊の隊長をつとめた梅棹忠夫初代民博館長による調査紀行『東南アジア紀行』(梅棹忠夫、中央公論新社、1979年)を読むと、稲作調査団をライバル視するような複雑な心境が見え隠れする。この大阪市大東南アジア学術調査隊は、1957-58年の第一次調査隊は、梅棹忠夫を隊長に、植物生態学、サル、昆虫、人類学の専門家からなり、現地から石井米雄らが参加している。1961年からの第二次調査は岩田慶治を隊長とし、森林研究、栽培植物学、昆虫学の専門家が参加している。さらに地質学の石井健二を団長に第三次調査隊としてカンボジア調査が実施されている。

 第一次稲作調査と市大学術調査の双方に、岩田慶治と石井米雄が関わっている。また、稲作調査団の東京事務局を務めた白鳥芳郎は、1967〜74年と4次に渡って実施された上智大西北タイ歴史文化調査を組織し、そこには稲作調査団のメンバーでもあった八幡一郎も参加している。単純にそれぞれの学術調査について参加者名のみを取り出すだけでも、取り上げる博物館コレクション同士に、なにがしかの関連性や重なり、連続性を見出すことができる。

 関係資料を散見すると、稲作調査団と市大隊に参加した岩田慶治が個人として収集したモノには、天理参考館に渡った2点や、日本民族学協会に買い上げられて附属博物館資料となり、そして民博資料におさまったものもあるようだ。また、天理参考館所蔵の49点あるカンボジア資料には、第三次大阪市立大(カンボジア)調査団(石井健一代表)収集の、農具に関係した道具資料35点が含まれている。また天理教ラオス巡回医療団で1972年の第4次から、第5次、第6次と、第8次(1976年)の隊長医師を務めた天野博之医師の長年の活動が、生態史プロジェクト人類生態(医学)班によるラオス調査の礎にもなっているというのは言い過ぎではないだろう。

 博物館コレクションとなったモノの履歴を探るということは、モノの移動過程に関わった人々や、関係者がとった対応の一つ一つを辿り、絡み合った糸をほぐしていく作業でもある。こうしたモノや人の重なり、つながりから眺めた、稲作調査団からの先行学術調査の流れは、人と環境の相互作用に対して総合的理解を目指した学際的な取り組みの系譜として見直すこともできるだろう。稲作調査団に見る、生態学、農学、医学、地理学、民族・人類学などが集まり、総合的な取り組みを目指した当時のフィールドワークに対する熱意と、それぞれの専門分野に細分化していくその後の過程とを改めて考えさせられる。

 特に、稲作調査団の遺産は、日本民族学協会時代の民族学の再検討、日本の東南アジア研究の展開や学際的研究調査のあり方などを考える上でも重要な資料・史料となるだろう。稲作調査団から生態史プロジェクトまでの連続性を意識することは、これまでになされてきた研究者の営みとその蓄積から、われわれは何を引きつぎ、受け継いできたのか、そして、現在の取り組みをこの先どのように持続させ発展させていくのかを自問する契機にもなる。

4.フィールドワークツールとしてのモノデータベース

 「そのモノは確かにそこにあった」という事実、モノの実在性があるからこそ、上記の博物館コレクションを一まとまりコレクションと文脈化した際に、それらモノのデータを時間指標あるいは空間指標として活用することが可能になる。

 モノと情報班では、博物館収蔵資料の情報収集からはじめ、関連資料の所在調査とともに、関係博物館所蔵のモノの分析や収集活動の背景を検討する作業へと活動内容を広げてきた。現在は、博物館コレクションごとに作成したモノの基礎データの整備を進めているが、博物館ごとにモノの分類等が異なるため、標本情報管理の様式を調整し、分類項目を再編成しつつ、一つのモノデータベースとしてまとめていくことを予定している。

 その際に、写真・映像、フィールドノート、文献資料情報等の関連資料を精査し、資料間相互の関連性を明らかにしつつ、関係者からの聞き取りを組み合わせて、モノ(および写真)のもつ情報を補完し充実をはかっていくことも必要である。同時に、先行学術調査それぞれの踏査地と行程も資料化を進めており、今後、調査行程およびモノの収集場所に関する情報を、メコンGISを活用しつつ地図上におとしていくことで、モノの収集地分布を示す地図資料を作成することも予定している。生態史プロジェクトのフィールド調査拠点やフィールド情報を書き込んでいけるような、時間と空間の表現に配慮したデータベースの作成を構想している。

 モノデータとモノ分布地図からなるモノのデータベースは、生態史プロジェクト内で共有できる基礎的データベースであり、フィールドツールとしても活用しうるものになるよう構想している。つまり、ある時期にある場所で収集されたモノは、当時そこにあったのだということを示す。フィールド調査において、あいまいな内容に翻弄されつつも、彼/彼女の経験の蓄積と経過した時間を推察していく際に、“当時そこにあったモノ”は、相手の記憶を引出したり、変化を知る手がかりとなる。また、モノと分布を見ることは、個別ローカルなフィールドを越えて、分布から見える地域間のつながりや、モノの移動から見える広がりのなかの一点として、フィールド調査地をいろいろな角度から見渡せる、縦横な視点の重要さと楽しさを教えてくれる。その意味で、モノのデータベースは一つのフィールドツールとして利用することも可能だろう。

 モノと情報班が扱うモノは、さまざまな博物館に分散しているため、モノの調査や分析・検討には、資料を所蔵する博物館との協力・連携が不可欠である。関係博物館それぞれにとって、所蔵資料の新しい利活用にも寄与できるような、共有データベースとしての「生態誌アーカイブズ」の構築を、モノと情報班の最終的な目標としている。

 「生態誌アーカイブズ」構築の構想は、個別のモノへの詳細な観察から、個別のモノを構成し、もしくは利用にみる諸要素間の関係とその分析を組み合わせて、モノに刻まれた多様な履歴を引き出すこと。それを全体として理解しようとする試みであり、生態史理解に向けた新たな方法を提案することにもつながるものと考えている。