04/03/01
 西アジア考古学から見たイラク戦争
 
小泉 龍人

■日本人の西アジア調査

 アジアを中心にしてみると、西アジアと日本はちょうど両極に位置する。日本はアジアの東端にあり、はるか彼方の西アジア諸国と国境を接することもない。宗教でも客観的な立場にいることもあり、西アジアをフィールドとする日本人研究者は多い。西アジアにおける日本人の調査活動の幕開けは19世紀末にさかのぼり、考古学的な発掘調査は半世紀後になってようやく始まる。

 1956年に、東京大学東洋文化研究所のイラク・イラン遺跡調査団(代表:江上波夫)が、日本人として初めて西アジアで発掘を開始した。60年代後半には、多くの研究機関が西アジアに調査隊を派遣するようになり、考古学調査が本格化していった。70年代になると、各地でダム建設が盛んとなり、水没してしまう遺跡の緊急発掘が相次いだ。

 1979年のイラン革命、翌年に勃発したイラン・イラク戦争が、西アジア考古学にとって大きな転機となる。80年代以降、調査隊はイラクやイランからシリアなどにフィールドを転向していった。やがて調査の対象時代は、旧石器時代からイスラム時代にまで拡大していく。一方、水没地以外の地域では、長期にわたる地域研究プロジェクトも進行し、文化遺産の保存・修復活動も継続されている。

■戦争による文化財略奪

 1991年の湾岸戦争の影響により、イラクでの考古学調査は停滞していたが、2000年に国士舘大学イラク古代文化研究所の調査隊(代表:松本健)がキシュ遺跡の調査を再開した。キシュは「洪水の後に最初に王権の下った」とされる遺跡で、都市化を解明する上で重要な調査になると期待が高まっていた。ところが、翌年9月に同時多発テロが起き、現地調査は停止を余儀なくされてしまった。

 2003年3月、米英軍がイラクへ侵攻し、4月にバグダッドが陥落した直後、イラク国立博物館が荒らされた。約17万点の収蔵品のうち6〜7万点が略奪されたという報道は記憶に新しい。その後、ユネスコの2回にわたる現地視察(日本からは松本氏が参加)、イラク国立博物館と米英暫定占領当局(CPA)の合同調査などにより、略奪品は約14,000点とされた(2003年9月時点)。

 略奪された文化財は、国境で奪還されたり、モスクを通して返還されてきている。ちなみに、ウルク遺跡で出土した「ワルカの大杯」を返還した人物は、なんら報酬を要求しなかったそうだ。他方、湾岸戦争前にイラク人考古学者によって新アッシリア時代の女王墓から発掘された「ニムルドの財宝」は、事前に中央銀行の地下室に移送されて無事であることが確認されている。

■盗掘される遺跡

 ユネスコ視察の報告によると、イラク国内の遺跡の様子はおよそ以下の通りである。バグダッドの南にあるバビロン遺跡は、米軍が基地として占拠している。バビロンは、『旧約聖書』の「天地創造」に登場する「バベルの塔」で有名だ。上述のキシュ遺跡では、米軍の通信施設が建てられている。兵士たちは、陣地の下に眠る文化遺産にまったく関心がないらしい。

 イラク南部のニップール遺跡は、シュメール時代に最高神の祀られた宗教的中心地である。ニップールではおびただしい数の盗掘坑が掘られていたという。近隣に位置するイシン遺跡は、かつてラルサやバビロンなどのライバル都市と覇を競った都市国家である。現在イシンでは、200〜300人の規模で盗掘が行われ、頭領はカラシニコフで武装していたそうだ。

 ハトラ遺跡は、グレコローマンとオリエントの文化が融合したパルティア時代の都市で、イラクの世界遺産第1号として1985年に登録された。現在、米軍と地元警察などが協力して警護している。アッシュール遺跡は、アッシリアの中心地として古くから栄えていた。近年、水没の危機に瀕していたが、2003年7月にイラクの世界遺産第2号に登録されることになった。ただ、こちらは警備されていない。

 ウルク遺跡は、自衛隊の派遣されているサマワ東に位置し、最古の都市として知られる。ウルクでは、長期間調査を継続してきたドイツ隊と地元の部族との信頼関係が厚いため、遺跡が保護されているという。総じて、一部を除いた多くの遺跡では、破壊や盗掘の被害を受けている。

■今後の展望

 ユネスコは、上述の専門家派遣と同時に、3回の「イラク文化遺産保護に関する専門家会議」を開催した。会議では、諸分野の専門家が知恵を出し合い、流出文化財の返還、文化遺産の保護、博物館の整備、人材の育成などの声明が採択された。日本国内では、官民一体の“Saveイラク文化財”支援実行委員会が設置され、日本西アジア考古学会などいくつかの学会も声明を出している。

 もちろんイラクの治安の安定が最優先であるが、日本は文化面でどのように貢献していくのかという対応が問われている。歴史的に日本は、経済や医療の支援だけでなく、敗戦後に立ち直った国としてイラクを含む西アジア諸国から信用を得てきた。まずは、この信頼関係を損なわない方針が肝要である。

 同時に、今のイラク国民にとって文化遺産とは何か、という相手の目線に立った配慮も必要となる。彼らの多くは、なぜ文化財を保護しなければならないのか理解できないであろう。生活が保証されていない現状では、文化財を護っても、空腹は満たされない。そこで、文化遺産に対する見方を変えさせるために、文化的な教育とあわせて、観光なども含めた文化事業による雇用創出も見据えた舵取りが求められる。

 さらに日本国内に向けて、イラクでの日本人の活動について情報公開が望まれる。今のイラクを助けることが、未来の日本にとっていかに有益となるのかをわかりやすく説く必要がある。経済的な繁栄のみを追い続けると、いつかは文化的な財産が失われていく。気づいたときには取り返しがつかない。轍を踏むことのないように導くことは、文化先進国としての責務である。歴史を振り返り、文化遺産を大切にする余裕こそ、人の心を真に豊かにしてくれると信じる。

(東洋文化研究所西アジア部門共同研究員)