03/11/18
 ある一人の入宋僧
 
榎本 渉

 私は現在、とある研究プロジェクトの一環で、原美和子氏と共同で入宋日本僧の往来年表を作成している。この手の研究で最も網羅的なものとして、昭和初期の木宮泰彦氏の研究が挙げられる(『日支交通史』上下、1926-27年。1955年に『日華文化交流史』としてまとめられる)。もちろん木宮氏の研究にも漏れはあるし(後の研究で紹介された入宋僧も含め)、年代比定の誤りも間々見られる。たとえば戒覚は南宋期の入宋僧とされたが、木宮氏没後の1960年に初めて紹介された入宋記録『渡宋記』によって、北宋1082年の入宋ということが判明した。だがこうした誤りは仕方ないことであり、発表から70年以上経った現在においても参照されているという事実からも、木宮氏の研究の価値がいかに高いものかは分かるであろう。しかしながら、戦後の研究成果を反映した入宋僧の体系的紹介が存在しないことはやはり問題であり、それが入宋僧往来年表作成の動機でもある。

 北宋期の入宋僧は、中国の正史や京都の公卿の日記にも登場し、旅行記やその逸文が残っているものもあり、行程や事跡はかなり詳しく判明する。この時期の入宋は天皇の勅許を必要とし、したがって入宋行為自体が非常に注目を浴びた。たとえば「然は983年に入宋、986年に帰国したが、宋では皇帝太宗に謁見し紫衣と大師号を賜り、日本では朝廷から仏宝を運搬する人員を賜り、沿道からの結縁者や雅楽寮官人の演奏に囲まれながら京都に戻ったという(『宋史』日本伝・『小右記』987/2/11)。日本・中国で多くの史料が残されたこと、わざわざ旅行記が作成され伝来したことは、入宋僧の希少性の反映である。木宮氏は北宋期について、983年入宋の「然から1078年入宋の仲回まで22名を挙げているが、この頃の入宋僧は一人の高僧とその従僧数人で行動したから、入宋の回数から言えば8回、頻度から言えば10年に1回に満たない。しかもその内には、「然帰朝後の謝恩の使として入宋した嘉因、寂照が入宋中に天台山大慈寺再建費用募集のため一時帰国させた従僧念休なども含まれている。

 これに対して南宋期においては、入宋後も個人行動が多く、事例としても木宮氏が紹介したものだけで109人が知られる。1167年までは入宋事例が知られておらず、これ以降南宋の行在臨安府がモンゴルによって陥落する1276年までの110年間にすべての事例が集中していることになり、平均して毎年1人は入宋していた計算になる。この時期には入宋僧は珍しい存在ではなく、日本・中国で記録に留められることも少なくなるから、記録に残らない入宋僧も多くいたに違いない。

 木宮氏が南宋期入宋僧検出において主な材料としたのは、日中の禅僧の語録・文集・行状類や近世の僧伝集、典籍の刊記などである。しかしこれ以外にもかなりの数の入宋僧関係史料が存在する。最近注目されているのが墨蹟と呼ばれる禅僧の書である。その中には中国僧が入宋日本僧に与えた法語なども多く、入宋僧の事例収集や行状確定のための重要な一次史料である。この他にも中国の詩文集、系図・血脈、寺院の縁起、近世の地誌などに入宋僧が思いがけず登場する場合があり、データ収集のためには様々なタイプの史料に目を通さなければならない。ただその中には胡散臭いものも少なくなく、史料的価値をその都度考える必要がある。

 今回は、最近気がついた入宋僧関係史料について紹介したい。木宮氏は採っていないが、白蓮社なる浄土宗の入宋僧がいる。1704年成立の『浄土鎮流祖伝』(一名『浄土本朝高僧伝』。以下『祖伝』と略称)巻3や、1727年自序の『浄土伝灯総系譜』(以下『総系譜』と略称)に見える。これらに拠れば白蓮社は諱を宗円といい、師の弁長の命を受け、1233年に遣宋使橘尚書とともに入宋し、善導著の『阿弥陀経義』を求め、廬山の睿禅師・文慧大師のもとで学び、帰朝して浄土宗を広めたとある。廬山はかつて東晋の頃、慧遠を中心に白蓮社と呼ばれる教団が結成された地であり、中国浄土教三系の一つ慧遠流の拠点である。宗円の白蓮社号もこれに因み、慧遠流を日本に伝えたことをアピールしたものである。

 ただこれはあくまでも近世の僧伝・系図に見られる話である。『祖伝』で白蓮社とともに入宋したとされる遣宋使橘尚書のように、同時代史料で確認できない話が多く、年表でこれを採る前に裏付けを取る必要があると以前から考えていた。そんなある日、『浄統略讃』なる本を見た。浄土宗の法脈や用語の由来などを記したものである。もともとは1694年に懐山なる僧が弟子懐誉のために書いたもので、懐誉はこれに自ら注記を付けて『浄土源流解蒙』と名付けたが、いつしか紛失してしまった。後にこれがまた見つかったので、訂正を施しそれぞれの記述の典拠を記し、1734年にまとめたのがこの本である。その巻4、「浄家起源」の「蓮社号」の項に、以下のようにあることに気が付いた。

浄家ノ蓮社号ハ、鎮西(浄土宗鎮西派祖弁長)ノ高弟円心、入唐シテ(礼讃見聞上〔四十七丁〕)、彼ノ地廬山ノ一流ヲ伝ヘ、其源ヲ慕テ、自ラ白蓮社ト号ス(仏像図説下〔九丁〕)。是レ此号ノ始也。

 諱が宗円でなく円心とあるのが気になるところであるが、その事跡としては『祖伝』『総系譜』などの伝えるところと同様である。ここで重要なのは割注にある典拠である。18世紀前半、すなわち『祖伝』『総系譜』の成立した頃に把握されていた白蓮社行状の典拠がここで判明するのである。

 そこでこれらの典拠史料を調べてみたところ、『礼讃見聞』は『往生礼讃私記見聞』という本であることが分かった。唐の善導『往生礼讃』に良忠(弁長門弟、白蓮社の兄弟弟子)が注釈を付けた『往生礼礼讃私記』という本がある。『往生礼讃私記見聞』は、さらにその注釈書であり、良忠の法系に連なる聖冏が記したものである。巻上が1410年4月、巻下が同5月から書き始めたとある。白蓮社に関する記述は巻上にあるから、1410年4-5月の著述箇所ということになる。それは『往生礼讃私記』巻上の「次作梵」条の、

又た入唐僧文慧大師に承けて云わく、「この土の法は礼仏懺悔の後に本尊に香華等の供物を献ずるを作梵と云うなり」。その詞に云わく、「仏にかくの如き無量功徳有り、恒沙却中に歎くも能く尽くす莫し」と(已上)。説偈発願は宝性論に出ず。

とある箇所の注釈で、以下のようなものである。

入唐僧等とは、これ鎮西の御弟子白蓮社なり。弥陀経義を尋ねんが為、師の仰せに依りて入宋するといえども、故(ことさら)に弥陀経義の伝来無し。その因みに文恵大師に遇いて作梵の言を明めしなり。

白蓮社が弁長の命で入宋したこと、『阿弥陀経義』を求めていたこと、文慧大師のもとに参じたことの典拠は、これと考えていいだろう。少なくともこれらの説が15世紀初めには遡ることが明らかになったのである。

 ところがそれにもかかわらず、白蓮社が入宋して文慧大師に参じたことは事実とは考えられない。そもそも『往生礼讃私記』には単に「入唐僧」とあるだけで、白蓮社とは書いていない。鎌倉時代に良忠がこれを記した段階で、白蓮社が文慧大師に参じたことになっていたとは限らないのである。むしろ白蓮社の兄弟弟子である良忠が「入唐僧」としか記していないのは、そうでない可能性が高いことを示唆しているようにも思われる。

 実は文慧大師は北宋期の著名な入宋僧と懇意であったことが知られる。それは1072年に入宋した成尋である。その旅行記『参天台五臺山記』に拠れば、文慧大師は諱を智普といい、開封府顕聖寺の僧で、太平興国寺伝法院で訳経の任に就いていた。成尋のために皇帝への上表文を作ったり、成尋の頂相に讃を付けたりしており、詩文に優れていたらしい(1072/12/30・1073/3/27・4/19)。また成尋との間に頻繁に本の貸借を行なっているが、成尋から貸した本には、源信の『往生要集』、成尋撰と考えられる『阿弥陀大呪句義』など、浄土教と関係するものも含まれる(1072/10/25・30)。『往生礼讃私記』に見える記述は『参天台五臺山記』で確認できないが、成尋と文慧大師の問答の記録が別の本で伝わり、浄土教関係の箇所が良忠によって参照されたのであろう。おそらく文慧大師と接触した「入唐僧」とは本来成尋であったのが、南北朝期から室町期にかけて白蓮社と結び付けられたと考えられる。

 白蓮社の文慧大師面謁については誤説と判断されるわけであるが、彼のもう一つの事跡である廬山参学についてはどうであろうか。『祖伝』『総系譜』より1世紀早く1623年に成立した『浄土血脈論』巻中が、白蓮社について「入宋して盧山流を受くる人」と、文慧大師に言及せず盧山のみに触れていることを考えると、むしろこちらの方が有名な話だった可能性がある。そこで『浄統略讃』に見えるもう一つの本、『仏像図説』について見てみよう。『仏像?幟義図説』のことで、1696年に成立した仏像・法衣の図解である。巻坤の五条袈裟の解説箇所に、以下のようにある。

ここに沙門円心有り。…専念を倡(とな)えんと欲し、乃ち遠游を志し、海に跨り入宋し、異域に布化し、後に明師に逢い、盧山流を■(く)み、脈譜・法衣、共に伝えて帰朝す。因みて号を白蓮社と改むるは、蓋しこれを遠公(慧遠)白社に擬(なぞら)ふるなり。而(しこ)うして所伝の衣を以ってこれを師弁阿(弁長)に伝え、弁阿乃ちこれを得、以ってこれを然阿(良忠)に伝え、然阿乃ちこれを得、以ってこれを一宗に及ぼし、台家の衣相を改め、即ち廬山の衣に換ふ。

 ここに記される白蓮社の事跡として、蓮社号と法衣を宋から伝えたことが挙げられる。また『浄統略讃』が白蓮社の諱を宗円でなく円心とする根拠がこれであることも分かる。二種の諱が伝わることは不審であるが、これに限らず白蓮社の行状ははっきりしないところが多い。というか、『仏像図説』に見える白蓮社の事跡には異説がまま見られ、本来白蓮社の事跡として伝えられていたのかどうかすら即断できないのである。たとえば蓮社号の起源であるが、これを白蓮社の兄弟弟子敬蓮社入西とする説が存在する。いつのものか不明だが『往生礼讃私記』の「入唐僧」の頭註に「白蓮社、一云敬蓮社」とあり、また南北朝期の浄土僧智演の作とされる(ただしかなり疑わしい)『獅子伏像論』巻中末には、敬蓮社が1235年に入宋して楚石梵gに参じ、1238年に日本に帰国して蓮社号を始めたとある。楚石はそもそも元代の禅僧で、1296年生、1370年没であり、この説の誤りは明らかであるが、蓮社号の起源が必ずしも白蓮社とされていたわけでないことが分かる。むしろ蓮社号の起源説話の主人公として、世代的に最も早い弁長門下の白蓮社・敬蓮社が選ばれ、他宗に例のない独特なこの称号を中国起源と説明する中で入宋説が生まれた可能性が高いように思われる。

 もう一つ法衣であるが、『仏像図説』には白蓮社が宋から伝えたという説とともに、祖洞という僧が禅宗から浄土宗に移り禅宗の法衣を導入したという説も紹介している。「聞くに任せて両に記す。来る者は更に■(しら)べよ」と書いているように、著者義海もどちらが正しいか判断がつかなかったようだ。また『獅子伏像論』巻中末に、1305年に如一国師・了信上人が入元して極楽一乗戒・浄土三部経・宗家章疏伝記・仏像・舎利・法式・僧具・偉子・曲禄・法被・帽子などを伝えたという説も見える。これら並存する諸説に関しても、事実関係云々を論じるよりは、浄土宗の法衣起源に関する説話・伝承の類と考え、史実と区別しておくのが穏当であろう。開祖法然が比叡山出身でありながら、浄土宗と天台宗が法衣を異にすることを説明するために、中国から伝えたという話や禅僧が伝えたという話が作られたと考えられる。

 以上が白蓮社入宋に関する私見である。近世の伝記の典拠となった史料は、白蓮社入宋説の裏付けとするには不十分なもので、現状では史実として採るべきでないというのが結論である。確認した典拠史料は、片や経典の注釈書、片や仏像・法衣の解説書であり、聖教類に関する知識がない私には独力で気付くことが不可能なものばかりである。ここまでたどりつけたのはひとえに『浄統略讃』のおかげであるが、典拠を示してくれた懐誉の幅広い教養に敬意を表するとともに、多くの情報を秘めたまま眠っている聖教類の史料整理・紹介が進められればと切に感じる次第である。『祖伝』が白蓮社入宋を1233年とする根拠や「遣宋使橘尚書」など、白蓮社行状にはなお典拠不明の点も少なくないが、徹底した史料採集と整理により、その真偽ともに明らかになることもあるだろう。

東洋学研究情報センター『明日の東洋学』No.10(2003.10)より転載。
『明日の東洋学』はPDF版でも公開しています。