03/10/14
 東地中海のイスラーム・西欧史料をめぐって
 
堀井 優

 アジアとヨーロッパとの交渉史において、東地中海(レヴァント)はとりわけ重要な地域といえよう。なぜならそこは複数の東西貿易路が結節する交通の要衝であり、イスラーム圏の中枢部とビザンツ圏を内包し、また中世の十字軍運動から近代の帝国主義に至るまで、西ヨーロッパ人による勢力圏・商業圏の拡大の主要な対象だったからである。それゆえ東地中海は中東とヨーロッパをつなぐ大規模な接触と交流の場でありつづけ、異文化接触の現場から多様な史料が生み出されてきた。ムスリムの歴史家の手になる諸々の年代記には、西方から来るヨーロッパ人の活動(多くの場合は軍事行為)が記録された。ヴェネツィアやジェノヴァ等のヨーロッパ海商国家が派遣する使節と、ムスリム君主との間で繰り返された交渉は、商業特権上の合意を記した一連の条約文書を生み出した。東方を訪れるヨーロッパ人巡礼者や旅行者は現地社会の観察を旅行記に記す一方、商人は現地での取引の結果を帳簿に記録し、また事業仲間に書簡を送って市場の動向を伝えた。主要な商業都市で「集団(nation)」ごとに組織されるヨーロッパ人居留民社会を代表する領事は、本国に書簡をたびたび送り、業務の遂行状況と現地の事情を報告した。

 これらの史料は、これまで中東・ヨーロッパ間の戦争や外交、また東地中海貿易を対象とする数多くの研究で利用されてきた。私もここ十数年来、異文化接触の秩序構造を解明するという立場から、中世から近世への移行期に属する史料に取り組み、その成果を昨年「16世紀前半の東地中海世界における貿易秩序とヴェネツィア人−マムルーク体制からオスマン体制へ−」と題する学位論文(東京大学大学院人文社会系研究科、2002年)にまとめた。この論文ではまず、オスマン朝およびマムルーク朝がヴェネツィアと友好関係を結び、貿易を営む過程で形成された秩序構造を、オスマン語およびアラビア語の条約文書史料に即して検討した。次いでエジプトの代表的な海港都市アレクサンドリアに居留するヴェネツィア商人に焦点をあて、マムルーク体制からオスマン体制への移行に伴う商業活動の変容過程を、ムスリム史料およびヴェネツィア史料から検討した。そしてオスマン朝の主導で、東地中海に新たな貿易秩序が形成されていく過程の一端を明らかとした。ここでは、そこで利用した一部の史料の価値とその限界について述べてみたい。

 オスマン朝およびマムルーク朝の条約文書(オスマン朝のそれは「アフドナーメ」と呼ばれる)を比較検討すると、いずれの王朝にとっても、自領域内における相手方の居留民社会の権利義務を規定することが重要な問題だったことがわかる。また領事裁判権、領事のスルタンとの交渉権、集団間・個人間の連帯責任の禁止、難破船の積荷の所有者への返還等の規定は、ヨーロッパ人が現地で円滑に商業活動を営むために必要な基本的権利であり、東地中海に普遍的な規範だったことも明らかとなった。その一方でオスマン朝が海上秩序にかかわる多くの規定をもうけたことは、同朝の海上覇権の拡大を反映した、特殊な現象だったといえるだろう。条約文書の検討から明らかとなる規範構造は、むろん現実の反映にすぎず、現実そのものはまた別の史料から明らかにされなければならない。

 エジプトのムスリム知識人イブン・イヤース(1448−1524頃)の手になる年代記『日々の事件における花の驚異』は、マムルーク朝末期・オスマン朝支配最初期のエジプト史研究のための基本史料である。著者と同時代の部分では、政治や外交の動向から民衆の日常生活に至るまで、著者がカイロで見聞きした情報が詳細に記録されており、そこからアレクサンドリア行政に関わる断片的な情報を丹念に拾うことによって、スルタン政権の海港政策の特徴とその変化を見いだすことが可能である。ただし著者の知りえた情報の偏りを反映して、ヨーロッパ人居留民の事情を伝える記事はきわめて少ない。

 それゆえヴェネツィア史料、とりわけカイロに派遣された使節や、アレクサンドリア領事に関わる文書史料の検討が必要ということになる。通常、領事や使節は元老院(Senato)で選出され、派遣にあたって「訓令」を与えられる。そして現地で着任すると、任期中は本国に「報告書簡」を頻繁に送り、それに応じて元老院は命令を「法令」のかたちで発する。任期が終了し、本国に帰還した領事や使節は「帰還報告」を発表する。これらのうち訓令と法令は、ヴェネツィア国立古文書館に所蔵される元老院の決議録(Deliberazioni)に記録されている。またヴェネツィアの一貴族マリーノ・サヌート(1466−1536)が1496年から1533年まで書き綴った膨大な『日記』(全58巻)には、領事が本国に送った書簡の写しや要約が、大量に収録されている。サヌートの『日記』は、著者が接したヴェネツィア内外の情報を詳細に記録し、公私の文書や周辺諸国との間で交わされた外交文書の写し・要約も大量に収録しているので、ヴェネツィアやヨーロッパ史のみならず、マムルーク朝およびオスマン朝史、またエジプト史研究にとってもきわめて利用価値が高い。

 これらヴェネツィア史料の検討によって、マムルーク朝からオスマン朝への体制の移行に伴う、支配政権の海港政策およびヴェネツィア人の居留と活動の条件の変化を明らかにすることができた。ただし意外でかつ興味深いことに、エジプトから本国に報告を送るヴェネツィア人は、現地社会の混乱や現地政権との交渉について書くことにはきわめて熱心だったが、自分たち居留民社会の内部に関する情報は、全くといっていいほど記さなかった。彼らの社会はよほどよくまとまり、利害対立もなく平穏だったのか。それとも、よほど本国に知られたくないような状態にあったのか。いろいろと想像をかきたてる問題だが、その理由の実証的な解明は、今後の重要な課題だと考える。

 最後に、今後の私の史料上の課題を若干、挙げておきたい。第一に、マムルーク朝およびオスマン朝とヨーロッパ諸国との間で生み出された条約文書の研究を継続することである。アラビア語、オスマン語、西欧諸語によって書かれた条約文書の正本および訳文テキストを可能な限り収集し、その異同を比較検討し、用語の異言語間の対応関係を明らかにする作業は、前近代の中東・ヨーロッパ間の条約秩序の構造とその変容に関する体系的な理解をもたらすだろう。とりわけオスマン朝のアフドナーメは、16世紀中葉以降フランス、イギリス、オランダにも順次賦与されるようになり、近代キャピチュレーションに直接接続するので、その検討はきわめて重要である。

 第二に、ヨーロッパ史料の検討範囲を拡げることである。すなわち中世から近世にかけてレヴァント各地に派遣されたヴェネツィア人領事にかかわる種々の文書を検討し、各地のヴェネツィア人居留民社会の内部の実情を伝える史料を発見し、さらには近世にオスマン朝との国家間交渉にもとづいて本格的に貿易に参入したフランス人、イギリス人、オランダ人に関わる史料をも検討対象に加えていくことである。第三に、オスマン朝領の各地で作成され、現存するイスラーム法廷記録の帳簿群を検討することである。カイロ、アレクサンドリア、イスタンブル(ガラタ)など主要な商業都市の法廷の記録簿から、ヨーロッパ商人が関わった現地住民との裁判の記録を見いだすことが期待できる。ここから得られる情報を、上述のヨーロッパ史料と照合すれば、異文化接触の現場の実情をかなりの精度で詳細に明らかにし、オスマン社会経済史および東地中海貿易史の研究に新たな知見を付け加えることができるだろう。