03/10/14
 居場所を変える作品たち
 
板倉 聖哲

 美術品は安住の地を求めて居場所を変えていく。作品史としてその移動を巨視的に見れば、全ての所蔵先は仮の宿りに過ぎないことになるかも知れない。日本では、「美術館」「博物館」という制度は近代に成立したもので、現在最も信頼できる安定した「場」と考えられている。実際のところ、公立の美術館・博物館が作品を購入する場合、それ以降市場で流通しなくなることから購入価格が高くなることもあるのだから、その信仰は健在といえよう。

 第二次大戦後まもなく多くの古美術品が市場に出回ったが、美術館・博物館の建設ラッシュなどがあり、そうした機関を中心に収集が続けられ、つい数年前には落ち着きさえ見せていたようである。しかし、長引く不況、乱立する施設のなかで美術館は苦戦を強いられ、ここ数年、特別展の開催数も減少する傾向にある。コレクターも世代交替し、個人コレクションの美術館への寄贈・売却が相次いでいる。同時に、美術館が海外オークションなどで作品を売却するようなケースも見られる。美術館が必ずしも安住の地ではなくなった今、日本・中国古美術の海外流出が激増していることも事実である。この大量流出を幕末明治期、第二次大戦後に続く第三の流出時代と見なす向きさえある。作品たちが新しい所蔵先でよりよいポジションを得ることを祈るのみである。

 今年(2003年)7月に根津美術館で寄贈された個人コレクションを顕彰する特別展「植村和堂収集書画展」が開催された(7月29日〜8月17日)。植村和堂氏は1906年生まれ、相沢春洋・増田石華・田中親美に師事、日本書道美術院設立に尽力され、清和書道会を主宰された。2000年には紺綬褒章を受章されている。仮名を中心に活動され、のみならず漢字にも精通された氏だが、そのコレクションは実に幅広く、古筆切、奈良・平安写経、明清書画、江戸儒者の書、さらに幕末復古大和絵など多岐にわたる。特にコレクションの中心である古筆切と写経は、奈良・平安の書の展開がそれだけで説明できるほどの充実ぶりを示している。

 和堂氏は東京国立博物館に古筆切の一部を、根津美術館にコレクションの大半に相当する五百余件の作品を寄贈された。私は今回の展覧会の準備段階から調査に加わり、出陳作品の選定に関わったのだが、その質・量に改めて驚かされた。作品にはそれぞれ和堂氏のメモが付されており、多くを教えられると同時に、思いを直接感じることができた。個人コレクションはそうした思いによって支えられていることがしばしばである。

 中国絵画の中では明末清初から近代に至るまでの作品を中心に選択したが、特に目を引いたのが王建章(?〜1627〜1644〜?)「飛泉喬松図」である。明末清初に福建省を中心に活躍した画家で、その大半の作品は日本に所在するか、もしくは経由している。本図は一見して彼の代表作に比べても決して遜色のない出来栄えだった。本図の史的位置付けに関しては別稿を準備中であるが、この図の伝来についても大変興味深いことがわかった。まず、池島正(邨泉堂)の箱書があり、明治になって福建省から日本にもたらされ、大阪から長崎に至った経緯が記されている。又、包布に見える曽根乾堂(1828〜1885)らによる寄合書(1880年)からも、長崎の文人たちに鑑賞されたことが確認される。その後の調査で、本図は『東洋美術大観』第7集、『南宗名画苑』第11輯に所収されており、実はその当時大変な名品であったことがわかった。岩崎久弥(1865〜1955)旧蔵だったのである。岩崎久弥は三菱財閥の主宰者(3代目)。岩崎弥太郎の長男。慶應義塾普通部を経て、1891年、ペンシルベニア大学卒業。1894年、三菱合資会社を設立し社長に就任。1896年、男爵。1916年、従弟岩崎小弥太に社長を譲渡した。彼のおそらく煎茶をめぐるネットワークの中で鑑賞された作品であろう。同じ岩崎家に所蔵された王建章「川至日升図」(静嘉堂文庫美術館)は重要文化財に指定されているが、両図の画風は酷似しており、近代コレクションの成立史においても注目すべき作品であることが判明した。

 こうした作品を含む五百点を超えるコレクションがほぼ全容を伝える形で美術館に入ったことは大変ありがたい。寄贈する側、受贈する側双方の英断に敬意を表したい。