03/11/12
 中国史への内在的研究姿勢と外在的研究姿勢
 
青木 敦

 私が所属している大阪大学の現在の東洋史学のスタッフは、5人のうち、内陸アジア史が2人を占め、その他、中国2人、東南アジア1人である。中国といっても、一人は片山剛氏で嶺南の珠江デルタ、もう一人の私は宋代だが地域としては江西、湖南、福建あたりに興味があり、いずれにせよ長江下流デルタや往古の華北といった中華の中心ではない。私の前任の濱島敦俊氏は、台湾で教鞭を取っている。教室全体が「中華の辺境」に位置しており、自然、何とはなしに「中華」とは、「中心」とは何かを考えざるを得ない環境にある。

 「中国」をいかに扱うかが、1990年代の後半、ひとしきり議論になった。96年の中国社会文化学会では「「中国」とは何か」をテーマにシンポが開かれ、また98年出版の『岩波講座世界歴史T世界史へのアプローチ』(岩波書店)を見てみれば、岸本美緒氏が、近年の明清社会経済史研究は、仮説定立的に、中国文化圏の人々の行動の、「深層のルール」解明に向かってきた、と書かれている(「時代区分論」)。つまり他の社会(あるいは時代)との比較の戦略的叩き台としての中国文化研究である。1997年開始の新プロのイスラーム地域研究5班Cグループ(比較史研究会)はまさに、その方向で行われてきたと思われる。一方、同書で古田元夫氏は、東南アジアを「多様な中華の担い手」と見る見方に対抗関係にある、「「中華世界」はベトナム国家の……規定要因であったという見方」について述べられる(「地域区分論−つくられる地域、こわされる地域」)。同年、岸本氏が、「自文化中心主義に感染する危険を敢えて冒」さなくては「面白くない」(「China-centered approach?」『本郷』14,1998)と宣言される一方、その翌年には、人類学の分野ではあるが、東アジアの「多中心性」を中華世界の「多様性」と言い換える中華文化中心主義的視点に批判的な、三尾裕子・本田洋編『東アジアにおける文化の多中心性』(外大AA研,1999)が出されている。こうした対立は、日本国内だけのものではない。すでにその10年前、1980年代中葉に杜維明氏が「文化中国」という概念を米国の学界で打ち出し、多くの研究者がこの言葉を使うようになった(その背後には、R.O.C.の「文化出撃」という政治的背景が存在する)。しかし、中国的コンテクストですべてを見ようとする姿勢には、「文化覇権主義」的とする批判が提出された。そして中国的な人々と台湾的な人々の間で、お定まりの対立:「台湾は中国文化を持っているのだから中国の一部である」(中国側)、「いや、台湾は様々な文化的経験を経て現在に至った、中国こそ台湾文化の一部である」(台湾側)へと発展する(控えめだが、李瑞騰「文学中国−以台湾為中心的思考」陳其南・周英雄主編『文化中国:理念与実践』允晨文化出版社,1994参照)。

 もちろん、こうした動向は、1970年代ころまで流行した文化相対主義、オリエンタリズム批判、ポストコロニアルリズムといった人類学や植民地研究も含めた、人文科学全体の知的動向と、即応的にとは言わないまでも、ある程度相関しているのかもしれない。少なくとも、中国中心的な研究が、外在的概念からアプローチしたマルクス主義への批判過程で現れたことには異論の余地はあるまいし、P.コーエン『知の帝国主義』や溝口雄三氏の「方法としての中国」において、西欧中心に異を唱えるという意味でのオリエンタリズム批判が意識されていたのも、その時代精神に即していた。一方、日本の中国研究について言うなら、日中戦争、P.R.C.建国、核開発、文革、六四、本土へのアクセシビリティ増大など、現実の政治状況に、甚大な影響を受けてきたのも事実であるが。

 「中国」とは何か、をこのように論じてゆくのであれば、私より人類学や現代思想に通じた適任者が少なくとも100人はいるだろう。そこでここでは前近代中国史に限って、上記に記したような中国文化に即した研究姿勢を、中国「内在的」研究姿勢、「中国」外部の要素に目を向ける姿勢を中国「外在的」研究姿勢、と名づけ、そのバランスについて考えてみることとしたい。上記に岸本氏の名を何度か挙げてしまったが、それはこの分野の諸研究で、管見の限り氏が最も明示的に文章として書き記しているからにほかならず、実際には意識するとしないとにかかわらず、大半の中国史研究者がこの中国内在的研究姿勢を取っている。最も純粋な内在的ディシプリンは、法制史研究ではないか。例えば先日、書評を書く機会を得た高橋芳郎『宋代中国の法制と社会』(汲古書院,2002)において、氏は、自らの根本的関心が「中国人とは何か、中国とはどのような社会か」にあると断言される。氏に限らず、滋賀秀三氏はじめ、少なからぬ中国法研究者にとって、「中国」「中国社会」「中国人」は改めて問う(脱構築する)必要のない、所与の存在のようである。

 また「地域社会論」が大変な流行を見せたが、これもやはり、中国内在的研究である場合が多い。山本英史氏は、氏が編著者となられた『伝統中国の地域像』(慶應義塾大学出版会,2000)において、戦前の中国社会研究を「中国全体を普遍的に理解しようとする傾向があった」と批判しつつ、1980年代からの地域社会論を「中国を地域から見る研究方向」(決して、「地域を見る」ではない)と位置づけ、結局同書が「新世紀における日本の中国理解」に資することを希求されている。なお、「伝統中国」とは、現代中国にもその影を色濃く残している「本源的な中国」であるとされる(「序章 日本の伝統中国研究と地域像」)。

 だが数千年間にわたり、中国大陸に等質の文化を持った人間が満ち溢れていたはずはない。その雑多な人々に関して、何か「原理的」「本源的」なものとして研究対象にできるものがあるとすれば、それは史料の書き手である士大夫が彼らについて書き記した士大夫自身の地域イメージ、社会イメージ(例えば「風俗」言説)、あるいは王朝が、規範を示す等の目的で編纂した法典に他ならない。つまり、我々が「本源的な中国」と呼んで研究対象としているのは、まさにこの士大夫文化によって表象された人間関係、お金の動きや権力である。現実に、彼らとは組織原理を異にする人間グループがあったとしても、士大夫はあらゆる人間グループの行動を、一定の幅の「揺れ」の中に収めて記述する。内在的研究者は、それを見て、「中国社会」の様相に一定の幅を認めはしても、共通の原理の上に成り立っている、と結論付ける。史料に内在する限り、地域研究は「中国を地域から見る研究」たらざるを得ない。それにしても現実にそのよう「中国」は存在したのだろうか。「社会」という近代的なタームに関して言うなら、陶希聖氏、柏祐賢氏、村松祐次氏といった近代の学者たちが、それが何であるかを問うた「中国社会」とは、ナショナルな共同幻想に他ならない。

 私は、士大夫の史料に内在した研究姿勢を決して否定するつもりはない。第一我々には、華夏の伝統に育てられ、古典を学びつくした士大夫の眼を用いる以外の選択は殆どないからだ。学生時代、ある先生から、中国の理論に没入すべきことを教えられた。この内在的研究姿勢を取れることが良い研究の条件であることに、今でも私は深く同意している。第二に、書き手の記述に即した内在的研究姿勢は、極めて効率がよい。研究時間を費やすほどに、制度やシステムが分かってくる。しかしながら、上述したように、内在的姿勢からは結局、中国大陸のどのような地方も、さらに東南アジアも台湾も内陸アジアも、その他如何なる人間集団をも、一定の文化の中において理解するしかなくなる。士大夫史料に見える地域社会が現実の「中国社会」であり、士大夫の眼が見、書き伝えたものとは別の社会が存在した可能性を閉ざしてしまうなら、その時おそらく、現実とのコンタクトは失われてしまうだろう。

 ただ問題は、外在的研究ということが可能か否かである。文字文化を持たない限り、歴史研究対象とはなりにくい。基本的に極めて求心性・統一性の強い「中国」の言語文化の伝統の中、ベトナムや日本のような他言語が存在しない地域においてはなおさら、士人たち意識した社会観・人間観とは異なるものの存在を証明することは、難しいかもしれない。だが、少なくとも、次の二つの努力は、可能だと思われる。一つは、文章を記述し、あるいは伝えるということが高度に政治的であるという点に特色を持つ中国文化に内在して世界を見、それを事実の世界であるとするのではなく、見る側の政治姿勢そのものを自省的に問うことである。例えば彼らが民間諸宗教をどう記録したか、「×族」「△族」と名づけた「少数民族」をどう位置づけたか、その背後にある政治性を、竺沙雅章氏、王明珂氏といった人々は、鋭く見抜いた。そうした政治性を意識することによって、研究者は中華に内在しつつ、その言説の世界の歪みと記述の限界を知り得る可能性が出てくる。中華の史料に内在しつつ、その外延的な限界を見定めようとする研究を意識的に行っている例も少なくない。例えば、交界地域における王朝政治の限界に目を向ける唐立宗氏(『在「盗区」与「政区」之間─明代閩粤贛湘交界的秩序変動与地方行政演化』(《台大文史叢刊》118,国立台湾大学文学院,2002)。異常・悪・変態と見なした民間信仰から逆照射される宋朝自身の政治的意図を論じる沈宗憲氏(博士論文「國家祀典與左道妖異―宋代信仰與政治關係之研究」)。そして我々が民族や国家と呼ぶサイズのグループを当時の人々がどう考えていたのかといえば、やっと最近、笠井直美氏(「〈われわれ〉の境界―岳飛故事の通俗文藝の言説における国家と民族」(上)・(下)『名古屋大学言語文化部・国際言語文化研究科言語文化論集』23-2,24-1,2002)で検討が加えられたばかりである。

 また、もう一つ可能な努力とは、過去の史料の書き手・残し手が知り得なかった事実に注意を向けることだ。例えば現在科学的に知りうる気候変動、契約文書の丹念な分析から知り売る価格変化、すべての人間社会に共通する経済原理。ポストモダンではないが、実際に研究をしていて、確かに資源の相対価格(稀少性)が高ければ、厳格な所有権が設定されるなどの普遍的な経済原則は見出されるのである。吉開将人氏らが切り開いている考古学的知見も、「現実」の人間社会を外在的に理解しようとするうえで、決して無視し得ない。そうした中華の外在的な要素に眼を向けることは、対象の一部を「中華」という異例ずくめの世界から、我々と同じ平凡な人間社会に引き戻すことにもなる。

 私がここで、内在的な研究姿勢と、外在的な研究姿勢のバランスにこだわったのは、冒頭に述べたような、「周辺」研究者との対話が必要だと考えたからばかりではない。既述したように内在的研究姿勢は良い研究の条件と考えるが、そこからのみでは、実証の場面で削り落とさなければならないいくつもの事象が存在するからである。「地域差」を揺れの幅ではなく、各地域・各人間グループの秩序原理の相違と理解する可能性は、内在的立場からは、根本的にあり得なくなる。だが、それは事実であろうか。

 それからもう一つ。これには異論が多々あることは承知の上で書くのであるが、現実世界の政治との関係である。上記のような中国への研究姿勢は、実は政治と無関係ではあり得ない。相手が中国である以上、その理論に内在するか、外在するかという姿勢の違いは、逃れるすべもなく、東アジアの国際秩序へのコミットの仕方にからんでくる。現在、憲法問題を含め、わが国の政治は劇的に変化しつつある。それは冷戦終結・米国のユニテラリズムという環境の中で、日本をはるかに凌駕する政経パワーを得つつある中国の隣に住む我々が、如何に生き残ってゆくか、という(東南アジア各国や台湾とも共有している)切実な危機感を背景としている。残念ながら、日本の歴史家が政治を論じ、名誉な結果を得た確率はあまり高くないように感じる。しかし、逆に論じないことが、良い結果を齎す保証もない。これについて私はなんとも言えない。ただ研究にせよ何にせよ、相手に没入するでもなく、虎穴に入るを恐るるでもないような、全体的な常識・バランス、といったものを維持することは、可能だと感じるのである。