03/10/22
 漢籍電子検索の普及と中国前近代史研究
 
青木 敦

 近年、日本の中国前近代史研究は、二つの革命的ともいえる環境の変化に置かれている。まず第一に、一連の大学改革の影響で、行政および教育の比重が増加し、人文系の研究時間が大幅に減少した。これはボディブローのように、長期的に日本の人文研究の質の低下を齎し、いずれは世界的に優位にあった日本の中国学の地位を他国に譲る結果となるかもしれない。自分の努力不足を棚に上げる形だが、特に私の所属する阪大東洋史などは週7〜9コマの授業が普通で、研究時間などほとんど、ない。だが今後はこういう体制が評価される。これは世論の支持を得た日本の国家意思であって、我々の意のままにはならない。「革命」に犠牲はつきものだ。

 そして第二に―こちらは明るい話題で、これこそが本欄のメインテーマなのであるが―情報技術の進展などによって、ここ数年で急速に漢籍の電子化が進んでいることである。

 なんといってもその先駆は、台湾中央研究院の漢籍電子文献資料庫である。1990年代、二十五史の全文検索を可能にしたMS-DOSベースのソフトを発売したのに続いて、中研院ではこれをWeb上に移し無制限のアクセスを可能とした(ソフトを購入した大学は、損をした)ものである。逐次、台湾地方志などその他の漢籍がアップされ、ますます充実してきている。

 またこれとは別に、主に中国から、様々な漢籍がCD-ROMの形で発売されている。恐らく中国前近代史の分野において最も衝撃的だったのは、「四庫全書全文検索版」(以下、「四庫全書」)の発売ではないか。当初高価だったこのソフトも、ずいぶんと値を下げて、現在では日本円100万前後で導入可能だ。その他、「四部叢刊」、「隋唐五代基本典籍庫」「中国明清史档案文献光盤庫」などもある。現在開発・営業が推進されている「中国基本古藉庫」は、完成時には「四庫全書」を上回る膨大な内容を持ち、全部そろえれば1000万円前後とも言われている。

 また、こうした、我々が入手し得るソフトの他に、例えば中央研究院には『明実録』など、一般には無料公開されていないデータベースもあるし、台湾のみならず、中国、日本でも、研究者が個人単位で研究費を取得し、作成して、仲間内だけで利用しているデータベースも少なくない。また例えば私の関連する分野で言えば『慶元条法事類』などといった、様々な史料に新たに校点が付され活字化され、こうしたものは将来スキャンされ、電子化される可能性が大いにある。京都大学人文科学研究所においても、様々な史料電子化作業が進んでおり、公開が期待される。

 さて、ここではこうした漢籍のデータベース化についての包括的かつ正確な現状の報告ではなく、実際に歴史研究の現場における、利用上の利点・注意点などについて、考察してみたい。私は必ずしも「事情通」ではなく、またこうしたドッグイヤーの世界の現状報告は、一年二年と経たぬうちに、価値を失ってしまうからである。

 現時点では、こうしたデータベース化によって、最も恩恵を蒙っているのは、中国宋以前、および清朝期の台湾史であると思われる。特に清朝期台湾史は漢籍史料の徹底した電子化が行われ、テーマによってはネット上だけで殆どの史料収集が可能な域に近づきつつある。また中国史の宋以前においても同様で、特に唐代以前については、出土品、金石碑文などは別としても、版本として刊行されている現存史料のほとんどは電子化されており、大学等で導入可能だ。特に歴史研究者にはなかなかチェックの行き届かなかった詩文類、今一つ利用しにくい『冊府元亀』などが、「四庫全書」や「隋唐五代基本典籍庫」で、一発検索できる。このメリットは計り知れない。一方、魏晋南北朝以前の研究では、文献史料のみによる研究に限界を感じる研究者が多くなり、竹簡・碑文等の出土史料を利用した研究が活発になりつつあるのが事実だが、この方面の公開・電子化がどう進むかは、今だ何とも言えない。

 宋については、ある大先生が「現存宋代史料は一生に2回、総点検できる」と仰っていたが、中でも手に負えない南宋の多数の文集などが「四庫全書」によって検索可能になったことは、研究に極めて大きな利益をもたらしている。『続資治通鑑長編』や『玉海』、『群書考索』などの基本典籍のクロスレファランスというブルーカラー的な作業は制度史的な研究の基礎だが、これもまた、大幅に省力化される。現存宋代史料を丹念に博捜し、膨大な業績を残された周藤吉之氏でさえ、実は詩文方面の史料チェックに抜けがあると噂されるが、我々はマシンを使ってその欠を補えるかもしれない。贅沢を言えば、『宋会要』『清明集』あたりが電子化・公開されれば、大いに助かる(実はかなり電子化媒体は存在しているが、公開されていない)。上海図書館では宋版などの善本が急ピッチで画像CD-ROM化されており、少なくとも閲覧の便宜は増した。

 地方志の類について言えば、宋元代の地方志は四庫全書に入っているから検索できるが、明代以降の府県の地方志は殆どできない。しかし、実はそれほど痛痒を感じない。なぜなら、もともと地方志は、茫漠たる編年体史料や訳の分からぬ編纂方針の類書と違って「あたり」を付けやすい性格のものである上に、天一閣蔵明代地方志については人名索引が出されており、特に宋代人については、明代地方志における人名索引が存在するから、なんとか短時間で糸を手繰るように、必要な部分にたどりつくことができる。それから、これは私の企業秘密だが、秘策もある。「四庫全書」には浙江、福建、江西などなど、清代の省単位の通志が含まれているので、そこでキーワードがヒットすれば、明清の州県の地方志により古い記録を見出すことができる可能性は小さくない。そこで、周囲にコロがっている人名をピックアップして、上述の明代地方志人名索引で検索すれば、オリジナルに近い記述を、短時間で明代の地方志に見出せる場合が多々あるのである。

 これに対して、明代以降となると、なかなか容易ではない部分が出てくる。実録、档案、文書(もんじょ)類などまだまだだし、電子化されていても公開されていないものが多い。だがこれも時間の問題で、私が還暦を迎える2024年頃、どれほどの研究インフラが整備されているか、楽しみだ。

 さて、こうした方法を、「邪道」と感じる研究者もいるかもしれない。こう書いている私自身、さすがに上述の地方志の利用法には、「邪道」の気配を感じる。所謂「ことば拾い」、しかもヒットが多すぎも少なすぎもしないとなると3〜4文字くらいなのだが、そんな検索で良質の研究が出来るのか。以前は、静嘉堂に通って山のようなメモを作った。その過程で史料を濫読・熟読し、新たな発見をした。これこそが「正道」ではないか。それは感覚として、分からないではない。しかし、もしそのことで電子検索を批判する人がいるならば、その人は、電子検索のみで論文が書けると勘違いしているだけではないか、と言いたい。実際、ヒットした事例が議論を左右するケースなど、そうあるわけではない。電子検索は、辞書であり、目次である。時間短縮のツールであって、論文作成の基本プロセスはそう変わらない。言うまでもないことである。

 教育の現場も、様変わりしている。ゼミの予習で、データベースを使うな、と命令してみたところで、遵守する学生は少ないだろう。私はむしろ積極的に学生に電子検索を行わせている。レジメ作成過程で、電子媒体から漢文をコピー・ペーストするのも当たり前だと思う。その上で、学内で見られる全ての版本を用いて校勘させ、報告させている。電子検索を行わずに「他に用例が見当たりません」などと言う学生には、厳しく注意する。先日の私のゼミで、元人の文集の白文を読んでいたとき、「無不畢備世臣之言」という部分に接した。「畢備せざるなし」で文を切った報告者に対し、ある学部3年生が「畢備は他動詞で読んで、『世臣之言を畢備せざるなし』と読むのではないでしょうか」と異を唱えたが、予習に余念のない別の4年生が即座に「『無不畢備』で検索をかけたんですが、殆どの事例が『畢備』で切れています。報告者の読みが正しいと思います」と発言した。そう、この部分は「畢備」で切るのが正しい。従来、相応の年月を経なければ習得できなかったコトバに対するある種の「勘」を、数ギガバイトのデータをスキャンすることで、学部学生ですら瞬時に共有できる場合があるのだ(電子検索が存在する今、ここから私のゼミテキストが何であるか、一発で分かるはずである)。

 過渡期にある現在、何が失われ、何を得つつあるのか。今日の大学では、皮肉にも史料に沈潜する時間は悲劇的に減っている。それに、学生時代から電子検索におぼれていたら、漢籍に対する何らかの勘が失われるかもしれない。第一、眼に悪い。これは注意せねばならぬ。だが一方、キーワードによって一瞬に並べられた、上奏文から政書、類書まで様々な史料を横断的に斜め読みする作業を繰り返すメリットは、かつては想像できなかったほど、大きい。例えば財政上のあるタームを探るうちに、当時の財政論の決まったパタンが見えてくる。官制上のジャーゴンを並べて眺めていると、特定の用法において使われることに気がつく。大量の関連史料を通読することによって、当時の人間の思考の輪郭が見えてくる感じである。最近私などは、不勉強な分野の語彙を調べようとするとき、先行研究を探して読む前に、まず電子検索による「大量観察」をしてしまう癖がついてしまった。それから先行研究を読むと、頭に入りやすい。さらに例えば好訟という意味での「健訟」という言葉が、宋代より前には「ない」とか、「伏波将軍」(馬援)の登場が、宋代以降めっきり減る、など、「ない」ことや、顕著な増減傾向が数分で証明できるのも、電子検索ならではの特権である。

 良いとか悪いとか言う問題ではない。時間はない。ツールは発達した。とにかく、我々はそういう時代に、生きているのである。

(なお、現在筆者はウェッブ上の研究資源を集めたサイトを運営している。参照されたい)