03/10/14
 日本の中国古典小説研究はどこへ向かうのか
  −20世紀末の小説研究の来し方を振り返りつつ−
 
上田 望

【日本の中国古典小説研究*を取り巻く環境の変化】

 1920年代が、鹽谷温、魯迅らによる近代的な中国古典小説研究の黎明期だと考えると、中国古典小説研究は80年近い歴史をもつことになる。その長い歴史の中でも、1990年代が日本の、いや世界の中国古典小説研究にとって大きな変革期であったことは疑いを容れないであろう。

 資料の面では、大型小説叢書『古本小説叢刊』、『古本小説集成』などが相次いで刊行され、従来なら一部の研究者や蔵書家しか目にすることのできなかった珍本が、今なら影印本や排印本ではあるが、中国文学研究室のある教育研究機関では簡単に閲覧できるようになった。このことがもたらす影響についてはあとで詳しく述べる。

 また、もう一つの大きな変化は、小説研究の理論的深化である。中国ではご存じのように1960年代から70年代にかけては文化大革命のために新しい文学研究の理論に接する機会を逸し、唯物史観が支配的で、中国の偉大な文化遺産と考えられたごく一部の作品が主に思想・芸術性の面から研究された。改革開放路線を中国が歩み出したことにより、研究対象や研究方法についてのタブーが次第に払拭され、従前の小説研究では評価されなかった作品が再評価されるようになり、評価の基軸も多元化してきている。

 一方、日本は中国にくらべ研究上の制約はずっと少なかったと思われるが、漢学研究の伝統もあって、思想や文学精神の歴史を論じることに眼目を置く研究や、版本研究などの実証的な研究がやはり主流で、ごく一部の研究者を除いてはあまり欧米の文学研究理論に関心を払ってこなかった。しかし、1980年代後半から中国で新しい研究方法、特にポストモダンの文学理論に基づいた研究が次第に増えてきたことが逆に日本に刺激を与え、以後、日本と中国で互いに研究上の交流を深めながらこうした変化はますます加速化していっている。

*中国古典小説研究  拙文では口語成分を多く含む、いわゆる白話小説の研究を中心に述べることにし、文言小説の研究についてはしかるべき適任者に稿を譲りたい。

【日本の中国古典小説研究の今後の課題と展望】

 では、21世紀の日本における中国古典小説研究はどうなっていくのであろうか。既に書いたように、資料面では日本はアドバンテージを失ったかに見える。また、以前からあまり日本の研究を参照しない中国の研究者はともかく、欧米の学界でも日本の研究に対する関心が急速に薄れつつあり、日本の学界は世界における「中国文学研究センター」としての求心力を失ってきている。ただ、楽観は禁物だが、日本には小説以外の貴重な文献資料がなお多く残っており、これからこうした文献資料を丹念に読んで利用する能力や、着想、視点、理論がより一層求められるようになるであろう。実際、そうして研究を進めてきた日本の『西遊記』研究、『水滸伝』研究が世界に冠たる業績を上げてきたことは誇ってよい。

 今後のもう一つの課題は日本の研究業績をどのように情報発信していくかであろう。かつて欧米で中国文学を専攻する院生は日本語が必修であったと聞くが、自分たちが斯界の公用語である「中国語」で研究発表や論文を公刊せずに、外国の研究者に「日本語を学べ!」と言うのは現在ではちょっと不合理な要求である。これからは今まで以上に中国語での発表が要求される時代になることは贅言を要しまい。また日本語の論文でも、大学の紀要などに掲載されたものは外国人研究者にとって特に入手しづらいことはよく言われる。しかし今後、国立情報学研究所による国内学術諸機関所刊「紀要」類電子化計画が軌道に乗れば、言語の問題を除けば全く問題がなくなる筈である。

 さて、前置きが長くなってしまったが、今後、研究上の進展が見込まれる研究分野、研究方法について臆断を述べる。

○情報処理技術の発展と可能性 
 90年代では小説のデータベース構築が緒に就いたばかりであったが、これからも電子テキストは漸次ネット上に蓄積されていくであろう(排印本が1冊出来れば、公開されるか否かは別にして電子テキストが一つできる)。また、『三国演義』の研究分野では二十種類を超える版本のデータベース構築計画も進行している。問題はこれらの電子テキストをどう活用するかであり、版本の系統を明らかにする研究だけに利用するのはもったいない。GPS(Grammatical Pattern Scanner)の検索システムを組み込めば、作品の生成プロセスの解明や「文体論」の研究にも有用であろう。

○出版文化研究
 小説を研究するにはまず版本の問題をクリアしなければならないが、その版本を研究するには出版のメカニズムを理解しなければならず、実証的な版本研究(例えば中川諭の『三国演義』の版本研究のような)であっても当時の出版文化を抜きには語れない。この分野はだいたい80年代末から蘆田孝昭、大木康、丸山浩明などによって研究がスタートし、貴重な成果が上がってきている。近年では磯部彰を中心とする大がかりな研究プロジェクト「東アジア出版文化の研究」が始まり、かつて出版産業が盛んだった地域の現地調査や文献調査などによって新しい知見が得られる可能性が高い。

○社会史、文化史的研究
 田仲一成の中国演劇研究が小説研究者に与えた影響の大きさについてはしばしば指摘されている。祭祀・儀礼及びそれを維持する共同体と戯曲とを相互にコードとして利用しつつ読み解くやり方は方法論的に明快であり、小説に関しても、明清の日用類書による『金瓶梅』の解読(小川陽一)、通俗歴史書をコード表とした講史小説の解読(高津孝、小松謙)などの社会史的研究が出てきているが、まだまだこのやり方は応用が利きそうである。また、神話、習俗、宗教文化、地域文化などから小説あるいは物語の記号的意味を解釈する研究が金文京、大塚秀高、鈴木陽一などによって行われてきているが、文学論が敬遠され文化論に人が集まりつつある今、こうした研究の流れは今後も絶えることはないであろう。

○叙事理論に基づく小説の物語言説研究
 小説の語り手及び語り方についての分析は、中国小説研究の分野ではおそらく鈴木陽一の挑発から本格化したのではないかと思われ、岡崎由美、中里見敬などが才子佳人小説、三言の研究で刮目すべき成果を上げてきている。金文京が指摘しているように、ジュネットなどの「洋物」の理論を用いることについては、「中国は非常に特殊である」という立場から反発もあるが、「時間をかけて中国学の中で西洋理論の試験的応用を重ねていった上で、ほかの分野とも対話をもっていくことがお互いにプラスになる」という意見については異論は出ないであろう。

○図像学
 図像の裏に隠されている文化的枠組と意味内容を読み解く図像学を応用した小説研究は、日本では『西遊記』研究者、佐々木睦などが取り組んできた。日本で出版された古典小説の翻訳を含め様々な中国古典小説の挿図集が近年刊行されるなど、不思議なことに一般読者の関心も高まってきており、今後、未解読の挿図の「文法」を明らかにしていかなければならないであろう。

○読者中心の受容理論 
 読者とテクストの相互作用によって「読み」が作り出されるという受容の理論が欧米で台頭してきたことから、まず欧米で評点が読者の世界観や「読み」を理解するための材料として重宝され、90年代から日本でも評点に着目した研究が笠井直美などによって行われてきている。特に近年では中国の評点研究ブームがすごい。また、作品の解釈の変遷をたどり、その背後にあるものを明らかにしようとする読書史研究や、特定の解釈を生み出す「解釈の共同体」に関する研究は小説研究では未開拓の分野であり、今後、注目されるであろう。さらにこの流れは、中里見が指摘するように、「これまでの小説研究が研究対象を一流作品に限定することによって、文学研究や文学史の制度に奉仕してきたのは、何を守るためであり、何を排除するためであったのか――このような知の制度をめぐるポスト構造主義的な問いかけ」へとつながっていく筈である。

【真の共同研究を目指して】

 筆者が一つ危惧しているのは、こうした研究分野、研究方法に取り組めばある程度の成果が出るからということで皆とっかかり易いところを選びがちになり、研究自体の意義が等閑視され、目的と手段とが逆転してしまうという点であり、これを密かに「研究のスクロール化現象」と呼んでいる。

 それぞれの小説研究者に得手不得手の研究方法があるが、それを相互にカバーしつつ小説研究の共通理解の基盤を築いていくことがおそらく研究のスクロール化現象に歯止めをかけることになるであろう。岡崎由美が指摘するように、文学研究者だけでなく、社会学、歴史学、言語学など異分野の人と組む従来型の共同研究も悪い訳ではない。ただ、問題意識や研究方法の多様化に伴い、同じ小説を研究対象としている者同士でも話が噛み合わないことはよくある。これからは変な縄張り意識は捨てて横断的な研究をすることが重要になってくると思われるが、その際、研究方法が違う小説研究者がタッグを組み、他人の脳味噌を借りて研究するようなワークシェアリング的な共同研究があってもよいのではないだろうか。(完)

参考文献:
座談会「これからの中国研究」(岡崎由美、金文京ほか 『日本中国学会五十年史』汲古書院,1998)
小南一郎「中国古典文学研究の可能性−民衆文芸への視点」(『東方学』第100輯,2000)
鈴木陽一『小説的読法』(中国文聯出版社,2002)
中里見敬「中国古典小説研究会の紹介」http://wwwsoc.nii.ac.jp/ssj3/index-j.html
座談「中国古典文学研究の視座から」(田仲一成、小南一郎ほか 『中国21』Vol.15,2003)