14/03/10
ホームからグローバルへとひろがる人類学
                                                        

嶺崎 寛子

 

内容紹介

地域研究の枠を越えた広がりを持つ宗教教団を研究することの楽しさと難しさ、そしてその研究がどのような現代的意義を持っているかを紹介。

本文

1 はじめに

  私は今、インドのパンジャーブ地方で1889年にスンナ派イスラームから興り、現在欧米・西アフリカを中心に世界中に数千万人の信者を持つと言われるアフマディーヤ教団(日本語正式名称は日本アハマディア・ムスリム協会、本部イギリス)の研究をしている。この教団は、最もイスラーム圏外での布教に成功しているイスラーム系教団といわれる。世界規模のこの教団は、グローバル化の進む現代におけるさまざまな問題系――国民国家、アイデンティティ、帰属、ジェンダー、国際移動、マイノリティとしてのサバイバル、次世代への文化継承など――につき、多くの示唆を与えてくれる[cf. 嶺崎2013b]。

  アフマディーヤの研究を始めたのは2012年5月。東洋文化研究所に日本学術研究会特別研究員PDとして在籍していた頃(2009年4月~2012年3月)は、エジプトをフィールドに、女性たちがイスラーム言説をどのように使いこなしているかについて、ファトワーや女性説教師の活動などを事例に、女性たちの法識字という観点から研究していた。この研究はもちろん今も続けている。アズハルという伝統あるウラマー養成機関を擁するエジプトで、イスラームが日常生活の中でどう適用され、どのように実践され生きられているか。生活の中のイスラームをジェンダーの視座を大事に描き出したい、というのが根源的な研究の動機だった。その実例を具体的に示してくれるファトワーという資料に魅せられ、ファトワーの質問と回答を分析する作業は楽しかった。ずっとファトワーやジェンダーの研究をするのだと思っていた。

  それなのになぜ、アフマディーヤ研究に着手したのか。彼らとの出会いと彼らを研究する意義を問い直すことはすなわち、グローバル化の進む現代におけるイスラームのありかたや、文化人類学という学問のありかたを考えることでもある。このエッセイはそのような視点から書かれている。

2 文化人類学の非対称性

  文化人類学はその成立過程から、植民地主義や西洋のまなざしと無縁ではない。文化人類学は植民地支配の必要から生まれ、異文化を先進国出身者が研究する学問として発展した。その成立・発展には、途上国と先進国の不均衡な力関係が色濃く影を落としている。調査する者=書く者は西欧や日本などの先進国出身で(日本の複雑な立場については[川橋 2013]や[加藤 2009]などを参照されたい)、調査される者=書かれる者の多くは発展途上国に属する「他者」であるという学問構造自体が孕む問題については、学問分野内部でも多くの批判的考察が積み上げられてきた[ABU-LUGHOD 1991, 2002;太田 2009;川橋 2013;加藤 2009など]。それでも、現在でも「異文化」としてまなざされた者が、自らも文化人類学を修め、先進国を「まなざしかえす」ことはほとんどありえない。

  中東への欧米の「まなざし」についてはサイード『オリエンタリズム』[サイード 1993]があまりにも有名である。オリエンタリストという言葉はアラビア語にも直輸入され、東を求める者という意味のムスタシュリキーンと訳される。これはオリエンタリストやオリエンタリズムを批判する文脈で使われる明らかに否定的な意味の単語である。インフォーマントの一人で、農村で説教師として活動する女性(拙稿[嶺崎 2009]にシャイマーという仮名で登場)は調査初期、私の立ち位置と考え方に納得するまで「あなたはオリエンタリストではないのか」との問いを繰り返し私に投げかけた。イスラームを否定的に捉える西洋の「まなざし」を彼女ははっきり警戒していた。特にヴェールや一夫多妻などのジェンダーにかかわる現象を否定的に、あるいはエロス化して捉える西洋の「まなざし」には強い拒否反応と反発を隠さなかった。一方的に解釈されること、誤って解釈されること、その解釈が流通し言説として影響を持つこと、すべてへの怒りと憤り。

  丁寧に向き合い真摯に意見を交わしたつもりだが、しかし実際私とオリエンタリストにどれほどの違いがあるのか。彼女が、私が日本語で書いた彼女が登場する民族誌を読むことは今までもこれからもない。インフォーマントは将来、何が書かれるか検証できないまま語る。今でも、書く側と書かれる側の非対称性は明らかだ。

  このような第一世界のまなざしの問題は、文化人類学だけではなくジェンダー研究やポストコロニアル研究においてもチャンドラ・モハンティ、ガヤトリ・C・スピヴァク、ウマ・ナラーヤーン、岡真理[モハンティ 1993;スピヴァク 1998;ナラーヤーン 2010;岡 2000]などに批判されている。今でも、「我々(日本人人類学徒はおおむね、このカテゴリーにはいる)」は彼らをまなざす者としての特権を享受している。

  第一世界、書く側・表象する側の特権について考えるときいつも思い出すのは、ノハのことだ。ノハは2000年9月から8ヶ月間、私をカイロ、ショブラ地区の家に同居させてくれたエジプトの貴重なインフォーマントだ。ノハとその家族、特に彼女の母ファーティマと姉ネルミーンから私はエジプトの暮らし―親戚づきあいなどの人付き合い、家計の扱い、料理、行儀作法、礼拝への向き合い方―や、喜怒哀楽とその表現法など、エジプト人のマンタリテの多くを学んだ。論文にはできない雑多な出来事の連続だったが、エジプト人家庭の中でともに暮らしたあの体験が、研究者としての私の全ての基盤を作ったと断言できる。彼女とその家族と、ノハの親友でやはり私を家に同居させてくれたマルワとその家族は、私のフィールドの家族で、仮親で、先生で、恩人だ。

  ノハは当時20歳そこそこ、カイロ大学の日本語学科に在籍し、いつか国費で日本に留学することを夢見ていた。末っ子でちょっとわがままで、負けず嫌いで、勉強はあまりしなかったけれど自分の日本語能力に自信を持っていた。彼女は(誤解を恐れずに言えば、エジプト人には珍しく)調子のいい嘘を決してつかず、その点とても信用できた。まじめで、自尊心をちゃんと持っていた。違う文化に好奇心を持ち、それを尊重しようともしていた。

  ノハは日本語上達のため日本人の友達を常に必要としていて、私は自分の帰国にあわせて何人か日本人を彼女に紹介した。在カイロ日本人留学生数は、在日本エジプト人留学生数よりはるかに多い。そして私がノハに紹介する学生は皆、エジプトの研究をしていた。ある日、新しい日本人を紹介したときのこと。ノハがいつものように「何をしている人?」と訪ね、私が「マムルーク朝期のエジプトの研究だよ」と答えると、彼女は突然苛立ち、舌打ちをして短く叫んだ。
「日本人はいつも我々を研究してばっかり! イヤになるくらいたくさんの日本人が!」
「我々は日本にそんなに簡単には行けないのに」という、彼女が飲み込んだ次の言葉が聞こえた気がした。研究する側とされる側の不均衡と不平等に向けられたノハの苛立ちと怒りは私の中で今も鮮明だ。一瞬迸った彼女の怒りは理解できたし、非の打ち所のないくらい正しかった。けれども出口がなかった。いつか日本に行きたい。彼女のその夢はまだ叶っていない。

3 ホームから始まる人類学

  非対称性は昔ほどあからさまではないが、依然として文化人類学の宿命であり、文化人類学徒の業だ。その非対称性をある意味超えて、私の「ホーム」日本に現れたのがアフマディーヤだった。日本語を操り、被災者のためにボランティアに励む彼らに、私は石巻という被災地経由で出会った(それは東日本大震災で被災し津波で家と事務所を失った、宮城県石巻市在住の母方オジ庄司慈明(よしあき)の紹介だった。彼らの被災地での活動については拙稿[嶺崎 2013a]や映画[藤川 2012]を参照のこと)

  彼らは石巻―過疎化の波を受けてさびれつつある地方都市―まではるばる、教団を母体とするNPO、Humanity Firstの一員として震災支援のために「やってきた」。ここにはこの教団の性格がよく現れている。イスラームは東京、福岡、大阪、名古屋などの都市部ではモスク等を通じすでに一定の存在感がある。東大の食堂ではメニューにムスリム向けに豚入り表示がされるし、東大本郷けやき保育園の給食はハラール食に対応している。しかし石巻市民にとっては、彼らは初めて出会う文字通りの「他者」だった。石巻のオジからの電話が「避難所に来てけてたパキスタン人のイスラム教徒がさあ」という言葉で始まる日が来るなど、考えたこともなかった。石巻は私のネイティブ言語の仙台弁が通じる、まさに「ホーム」だ。そのような日本の辺境まで彼らはやって来た。震災支援を通じて彼らが被災者やボランティアらと築きあげたのは、非常時をともに過ごした仲間としての絆と、文化を超えて助け合えるという信頼と実績だと私は思う。災害ユートピアの中で構築された関係を過度に理想化・ロマン化しないよう警戒はすべきだが、このような関係性を人類学に応用できないものだろうか。

  故郷で、はるばる震災支援のためにやってきた、グローバルな世界をグローカルに生きる日本語を話すムスリムと期せずして出会う。震災をきっかけとする様々な偶然は、彼らに出会って彼らを研究するに至るには必須だった。しかし偶然のようでいて、それはグローバル化に起因する必然でもある。日本国の地理的内部に我々は多くの「異文化」や「他者」、そして日本文化と異文化の間を言語的にも文化的にも往還する「境界を生きる人々」をすでに包摂しているからだ。ホームで双方向の出会いを得ること。それは「ホームでの異文化研究/ホームでの文化人類学」とでもいうべき事態がすでに出来していることを意味する。

  この状況は、グローバル化やポストモダンのいまを示しているのみならず、文化人類学における見る/見られるという不均衡な関係性を脱構築していくためのはるかな道筋をも、照射しているのではないか。少なくとも私は、希望的にそう読みたい。

  現状、ある社会の中の異文化研究は、多数派文化に属する者がその社会内部の異文化を研究するものが圧倒的に多い(私の研究もここに入る)。しかし、私はいつか少数派が多数派をフィールドワークした民族誌をぜひ読んでみたい。さらに欲を言えば、少数派と多数派がお互いの「自らの語りの権威を絶対化しない自己言及性や他者のまなざしへの応答責任」[川橋 2013:59]を自覚し合ったうえで共に作り上げる民族誌が将来現れればいい。地理的空間を共有する、文化的背景が異なる者たちが共に作り上げる民族誌。グローバル化社会における「ホームでの文化人類学」は、文化人類学の非対称性というアポリアの解決への糸口を示してくれるのかもしれない。(楽観的にすぎるだろうか。)

4 ホームから世界へ

  アフマディーヤ教団の本部はインドからパキスタン、パキスタンからイギリスと3度越境した。移動・越境を人生の中で体験する信徒も実に多い。結婚やビジネスを理由に、日本から他の場所に再移住する信徒も珍しくない。信徒は世界中に住み、言語も様々だ。彼らはアジア研究や地域研究の枠を超えた広がりをみせている。

  この現実を追いかけて、私のホームから始まったアフマディーヤ研究はホームにとどまらず、彼らのネットワークに乗って海外へと広がりつつある。本部のあるイギリス、故地パキスタン、信徒が多く住むドイツやカナダ、建国以前から宣教を行っていたイスラエルなどへと。エジプトやチュニジア、パレスチナなどのアラビア語圏のアフマディーヤの人々は、アラビア語を話す日本人を面白がって「ぜひうちにもいらっしゃい」と声をかけてくれる。もともとのフィールドであるエジプトに、アフマディーヤの調査のために訪れることもあるかもしれない。それは奇妙で滋味あふれる、研究者として貴重な経験となるだろう。

  ホームからグローバルへとひろがる人類学。そこには言語も国家も民族も自在に越境する広がりがある。超地域的なアジア研究をめざし、この魅力的な教団の調査から当分、離れられそうにない。


参考文献

ABU-LUGHOD, Lila 1991 Writing Against Culture. In Recapturing Anthropology. Richard G. Fox (ed.) pp.137-162. School of American Research Advanced Seminar Series.
―――― 2002 Do Muslim Women Really Need Saving? American Anthropologist 104 (3):783-790.
アハマド、ライラ2000『イスラームにおける女性とジェンダー:近代論争の歴史的根源』法政大学出版局。
藤川佳三(監督)2012『石巻市立湊小学校避難所』
加藤恵津子2009「日本人‐ネイティブ‐人類学徒―劣等感も選良意識も超えた自文化研究に向けて―」『文化人類学』71 (2):202-220.
川橋範子2013『妻帯仏教の民族誌:ジェンダー宗教学からのアプローチ』人文書院。
嶺崎寛子2009「イスラーム言説にみるジェンダー戦略と権威--現代エジプトの女性説教師を事例にして」『ジェンダー研究』12 (29):77-91.
―――― 2013a「東日本大震災支援にみる異文化交流・慈善・共生 : イスラーム系NGO ヒューマニティ・ファーストと被災者たち」『宗教と社会貢献』 3(1):27-51.
―――― 2013b「ディアスポラの信仰者 : 在日アフマディーヤ・ムスリムにみるグローバル状況下のアイデンティティ」『文化人類学』78 (2):204-224.
モハンティ、チャンドラ・タルペード1993「フェミニズム研究と植民地主義言説:西洋の目」『日米女性ジャーナル』15: 91-120.
ナラーヤーン、ウマ2010『文化を転位させる:アイデンティティ・伝統・第三世界フェミニズム』法政大学出版局。
岡真理2000『彼女の「正しい」名前とは何か:第三世界フェミニズムの思想』青土社。
太田好信2009『増補版 民族誌的近代への介入:文化を語る権利は誰にあるのか』人文書院。
サイード、エドワード1993『オリエンタリズム』平凡社。
スピヴァク、ガヤトリ・チャクラヴォルティ1998『サバルタンは語ることができるか』みすず書房。


*東日本大震災から3年が過ぎようとする春に改めて、犠牲者と震災サバイバーの皆様の平安をお祈りします。宮城県出身者として、これからも震災支援に長く関わっていきたいと思います。一人一人の力はささやかでも、息は長く。
ここまで読んでくださってありがとうございました。




みねさき ひろこ 愛知教育大学 専任講師